天津神社から月読神社に向かっています。

 

飛び出し坊やの渡君と飛び出しお嬢ちゃんの歩ちゃん。

 

 

 

月読神社は、JR学園都市線:大住駅から北西へ1.2㎞の所に鎮座されます。

 

青マーク 天津神社

赤マーク 月読神社

 

 

 

鎮座地:京都府京田辺市大住池平31番

 

 

 

鳥居に向かって右に、富山流居合道発祥之碑が建立されています。

 

 

鳥居に向かって左に、隼人舞記念碑が建立されています。

 

 

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隼人舞伝承地  京田辺市大住池平 月読神社

 

九州南部に居住していた大隅 ( おおすみ ) 隼人は、七世紀以前から

ヤマト王権に服属した。

正倉院文書に残る隼人の計帳から、朝廷により移住させられた地の一つが

大住 ( おおすみ ) であるとかんがえられている。

 

隼人は、宮中の警護を担うとともに、天皇即位に伴う大嘗祭に服属儀礼

として隼人舞を演じ、朝廷に奉仕した。

隼人舞は月読神社などでも奉納され、舞い伝えられてきた可能性も

あるが、いつしか途絶えてしまった。

 

現在伝えられている大住隼人舞は、鹿児島県に伝承されていた

隼人舞をもとに、昭和四十六年 ( 1971 ) に、地元の人々の

尽力により復活したものである。

 

昭和五十年には田辺町 ( 現京田辺市 ) 指定文化財第一号に

指定され、翌五十一年には大住隼人舞保存会が結成された。

現在は隼人舞と隼人踊りが継承され、毎年十月十四日に行われる

秋祭の宵宮に、月読む神社と天津神社 ( 岡村 ) で奉納される。

 

京田辺市

京田辺市文化財保護審議会

                      ( 境内説明文 )

 

古事記には、

 

山幸彦が海幸彦から借りた釣り針を無くしてしまい、塩椎神 

( しおつちのかみ = 塩槌老翁 ) のアドバイスに従って綿津見神の宮

( 竜宮城 ) へ行って、塩満玉 ( しおみつたま ) と塩乾玉 

( しおふるたま ) を土産に頂き、玉を使って海幸彦を溺れさせて

懲らしめた。

 

海幸彦が

「 今後はあなたに仕えて、昼も夜も守ります。」

と詫びを入れた。

それで海幸彦の子孫である隼人は、海幸彦が溺れた様子の演技をして、

絶えることなく仕えているのである。

 

と書かれています。

隼人は武力に優れていた氏族らしく、鹿児島の大隅半島から引き抜かれて

代々朝廷の警護を勤めます。

 

隼人舞には 「 海幸彦が塩満つ玉によって溺れる様子の舞 」 が

含まれているらしいのですが、それが境内説明文に書かれている

「 大嘗祭に服属儀礼として隼人舞を演じ 」

であり、古事記に書かれている

「 隼人は、海幸彦が溺れた様子の演技をして、絶えることなく仕えている 」

ということらしい。 

 

説明文には、「 七世紀以前からヤマト王権に服属した 」 と書かれて

います。

それは、日本書紀、天武天皇十一年 ( 672年 ) 七月に、

 

 隼人がたくさん貢物を持ってきた。

 大隅隼人と阿多隼人が朝廷の庭で相撲を取った。

 

と書かれていることからもわかるのですが、その50年後の

養老4年 ( 720年)には大規模な 「 隼人の反乱 」 が起きています。

大隅にはその記念碑や隼人が建てられており、以前訪れた時に

写真も撮っていますが、このBlogには掲載していません。

 

翌年、征隼人将軍大伴旅人によって反乱は静められ、その後には

隼人は完全にヤマト朝廷に服従しています。

 

 

 

 

右に手水舎。その後方に鎮座されるのは金毘羅神社です。

 

 

 

左に稲荷神社が鎮座されます。

 

 

2つ目の鳥居。

 

 

くぐった左には足之神様が鎮座されます。 御祭神不明。

 

 

その奥に伊勢神宮遥拝所があり、その奥に厳島神社が鎮座されます。

 

 

 

 

拝殿。

 

 

平成三年に奉納された狛犬。

 

    

 

 

 

式内社 月読神社 ( 大 月次 / 新甞 ) 山城国 綴喜郡鎮座

現社名 月読神社

 

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月読神社

 

月読尊 ( つきよみのみこと )・伊邪那岐尊 ( いざなぎのみこと )

・伊邪那美尊 ( いざなみのみこと ) をまつる式内社で、大社に

位置づけられていた。

 

中世にはたびたび兵乱を受け、社殿の焼失・再建を繰り返したという。

本社が位置する大住地域の多くは平安時代末期以降、室町時代末まで

奈良興福寺の領地であった。

 

神宮寺として、法輪山福養寺が明治初めまで存在した。

同寺には奥ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊・北ノ坊・東ノ坊の六坊があり、

大住小学校は北ノ坊のあった場所と伝えられる。

神社境内には奥ノ坊の庭園の跡が残っている。

 

慶応四年 ( 明治元年・1868 )、伏見鳥羽の兵乱が及ぶのをさけて、

八幡の石清水八幡神が当社境内に一時遷座されたこともある。

 

現在の本殿は、東に面するー間社春日造、銅板葺 ( もとは檜皮葺 ) 

の建物で、明治二十六年 ( 1893 ) に名古屋の伊藤平左衛門により

設計された。

 

本殿を囲む玉垣の正面に鳥居を配置する珍しい構造が見られる。

春日造は奈良春日大社の本殿の形式で、現在の奈良市を中心に、

奈良県・京都府南部・大阪府・和歌山県北部に分布する。

 

例祭 十月十五日 宵宮には大住隼人舞が奉納される。

 

京田辺市教育委員会

京田辺市文化財保護委員会

                       ( 境内説明文 )

 

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月読神社 社記

 

月読神社は月読尊 ( 天照大御神の弟 ) とその両親の伊邪那岐尊・

伊邪那美尊の三柱を祀り、明治十年に延喜式内の神社と定められる。

 

本社は、平城天皇の大同四年、天皇譲位の後、宮殿を平城京より

平安京に遷されんとせられし時、造営使がその途、大住山において

霊光を拝し、ここに宮殿を創りしに創まるという。

 

貞観元年八月に月読社と称え、承暦元年には天下が天然痘に悩むに付き

勅使参弊ありという。

建久六年、源頼朝が鎌倉より上洛し、当社に神馬を献じ、松井及び

河内交野郡招提を神領として寄進した。

貞応二年二月には鴨武隅命の嫡子、葛野家友によって社殿再建。

 

元弘元年九月には笠置山に後醍醐天皇が遷せられし時、大住一族並びに

岡本弾正久織等、味方にはせ加わり、当地戦乱の巷となり、社殿兵火に

かかるという。

 

貞治三年には葛野義威神殿再興し、至徳三年御牧の伊豆前司基貞と

大住飛騨守義季と争い合戦のため御霊社焼失。

康応元年四月に大住若狭守義宣が再建。

 

延徳三年八月には岡村城主五郎左衛門尉番行宣神殿を修理し、

天文十一年には大住城主大住石見守元保と八講寺城主東長門盛章等、

社前にて勧進能を行い、江戸時代となっては文久戌年九月神興再興し、

慶応四年正月六日には石清水八幡宮が遷座しのことあり。

それより神饌料として玄米一俵奉納あるを恒例とした。

毎年一月八日これを行い来つたが、今は絶えている。

 

明治時代には、明治二十六年十二月に本殿改築し、帝室技芸委員で

名古屋の伊藤平左衛門の設計により竣工した。これ時の社殿なり。

 

昭和五十一年十一月拝殿改築。

昭和五十四年六月舞殿改築。

昭和五十八年十二月社殿改築。( 大工西広芳夫、瓦屋堀川工務店。)

これ現在の社殿なり。

 

昭和六十年三月三日 宮司 宮司 南啓史

                総代

 

 

天照大御神の次に生まれられた月読尊は各地で祀られ、式内社でも

十社ほどあり、最も有名なのは伊勢の両宮付近に祀る月読宮である。

京都の松尾神社の南にある月読神社、鹿児島県の西桜島の月読神社、

大隅の串良町の月読神社も有名である。

 

信仰は特に薩隅に多く伝承された。

月神を祀る隼人の神楽が隼人猿楽であり、それが南山城の大住郷に

伝来したことから、能楽が発祥した。

 

古事記によれば、月読尊は夜の食国 ( をすくに ) を、

天照大御神は高天原を治められ、そして須佐之男は滄海原を分治

された。

 

                       ( 境内説明文 )

 

 

社殿に向かって左に御霊神社が鎮座されます。

大和や山城に鎮座される多くの御霊神社とは異なり、御祭神は

少昆古那神です。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。