静岡に戻るために、静鉄清水線で新静岡駅に向かいました。
まる子ちゃんラッピングカーのドアの内側。
ちびまる子ちゃんが静岡市の名所を案内しています。
ちびまる子ちゃんは、27年前に台湾でも放映されていて、たいへんな人気でした。
( 台湾名:小丸子 シャウ・ワンズ )
旧清水市のマンホールには、旧清水市の花・キリシマツツジが描かれています。
こちらも旧清水市のマンホール。
富士山と三保の松原が描かれています。
小梳 ( おぐし ) 神社は、JR静岡駅から北西へ400m、
新静岡駅からだと南西へ300m。
パルコの対面に鎮座されています。
鎮座地:静岡県静岡市葵区紺屋町 7-13
骨董市が開催されていました。
左に手水舎。
式内社 小梳神社 駿河国 安倍郡鎮座
現社名 小梳神社
旧社格 郷社
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祭神 建速須佐之男命 ( たけはやすさのおのみこと )
奇稲田姫命 ( くしいなだひめのみこと )
相殿 大己貴命 ( おおなむちのみこと )
天照皇大神 ( あまてらすすめらおおかみ )
金山彦命 ( かなやまひこのみこと )
猿田彦命 ( さるたひこのみこと )
由緒
当神社の創建は詳かでないが、静岡市では最も古い神社の一つである。
元の鎮座地は、現在の建長の東南側の所であった。
その周辺一帯の地名を古くは小梳と云い、後東川辺と改められた。
駿国風土記に
小梳神社所祭素盞嗚尊、奇稲田姫也、小梳後号東川辺、
延喜式安倍郡小梳神社とあるは此社なり。
と記載されている。
大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来は、その守護神として信仰され、
貞観の頃より祇園信仰が全国に拡まるに連れて、当神社は少将井神社とも
云われ、江戸時代には一般町民からは専ら 「 少将の宮 」 と称せられた
ようである。
この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての信仰も
加わり、特に徳川家康が幼時今川家の人質として当神社の宮前町に住居し、
橅育につとめた祖母華陽院と共に日夜武運長久を祈願し、●●家康が
大阪夏の陣に勝利し、天下を平定してこの駿府城に隠居するにあたり、
代々徳川家の守り神伝わる大巳貴命、天照大神二神を小梳神社に合祀し、
少将井五所大神宮と称し、元和元年九月三日に林道春 ( 羅山 ) に命じて
この由を社講に識さしめ奉献したものが現存している。
これよりさき、慶長十四年駿府城の城域拡張により、当神社はその郭内に
入った駿河大納言忠長は不敬を冐すを畏れ、また庶民参拝の便をはかって、
寛永八年に仮宮を造って奉遷し、延宝三年に現在の地に社殿を造営して
遷宮した。
この造営の事にあたったのは城代松平右近太夫を始めとして町奉行
大久保甚兵衛外、城番、番頭、加番、目付等である。
翌延宝4年から隔年に神幸祭が行われた。
この神幸祭はぎおん祭といわれ、町奉行、与力、同心が警護にあたり、
加番衆出し馬あり、駿府の町々は一番より四番まで組合を定め、
各町より屋台、台の物なと踟物を出し、駿府全域の町々を巡行した。
冬至のもようを駿国雑誌には
供奉の行列装束を粧い、引連なる踟物の結構は都山王の祭礼に彷彿たり
と記されている。
明治八年二月郷社に列し、明治四十年7月県社に昇格した。
昭和十五年一月静岡市大火により社殿工作物悉く失い、同年建築した
仮社殿も昭和二十年六月の戦災により再度炎上したが、昭和二十五年以来
本殿・社務所・手水舎其の他現在の建物を順次復興建築した。
昭和三十七年三月七日、北白川神宮祭主様が伊勢神宮の坊城神宮大宮司、
神社本庁佐々木統理を伴って正式参拝された。
駿河国三大地誌の一と高く評価されている 「 駿河国新風土記 」 の著者
新庄道雄の碑が当神社の境内にある。
平田篤胤の撰定で、静岡市文化財に指定されている。
( 境内説明文 )
拝殿に向かって左前に、厳島神社が鎮座されます。
厳島神社の奥に、新庄道雄の碑。
厳島神社と拝殿の間に御神水があります。
ちょうどペットボトルの水が無くなっていましたので、いただいて詰めました。
本殿に向かって左に稲荷神社が鎮座されます。
拝殿からの眺め。対面にある低いビルがパルコ。
以上。