静鉄清水線:新静岡駅の駅むすめ:音羽ないろ。

 

 

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柚木駅。

 

 

静岡県護国神社は、静鉄清水線:柚木駅から北へ700mの所に鎮座されます。

JR東静岡駅からは北西へ600mの所です。

 

 

鎮座地:静岡県静岡市葵区柚木366

 

柚子木駅をおりて、線路に沿って北上します。

 

 

 

 

 

参道の右に市川紀元二中尉の銅像が奉納されています。

 

 

 

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由来

 

明治六年磐田郡中泉 ( 現磐田市 ) に生まれ、一高より東京帝国大学

工学部に学び電気工学を修め電機業界に入る。

 

明治三十七年日、露の戦役起るや歩兵少尉として応召、満州に出征し、

同年八月三十一日、首山堡の激戦に歩兵6連隊小隊長として先登第一の

殊功を樹つ。

軍司令官より感状を受けこれを全軍に布告し、上聞に達す。

特進して歩兵中尉となる。

 

その後引続き数次の戦闘に参加し、明治三十八年三月七日、奉天西郊干洪屯

( かんこうとん ) の大会戦にて壮烈なる戦死を逐ぐ。

時の東大総長山川健次郎は

 「 その忠勇義烈、学徒の亀鑑となすべし 」

としてこの銅像を大学構内に建った。像は巨匠新海竹次郎の名作なり。

 

設計意匠:塚本靖 製作:新海竹次郎 篆額:奥保鞏

明治四十一年十一月十一日 東京帝国大学構内竣工

 

昭和三十三年、護国記念館建築にあたり東大より移譲を受けてここに保存する。

この移転には主として馬渕逸雄、建設には鈴与(株)の奉仕による。

 

市川紀元二銅像除幕および慰霊祭

昭和33年8月31日 午後1時

除幕 青山工学士(実弟青山士)子息令嬢

 

                         ( 碑文 )

 

 

左に手水舎。

 

 

巨大な手水鉢。

 

 

手水舎の後方に慰霊碑が建立されています。

 

 

手前から、内匠部隊之碑。

 

 

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昭和十七年三月二十日内匠部隊長以下七百三十八名中部第三十六部隊

にて編成、

三月二十日宇品港出港、バターン半島に直行攻撃参加、

四月二十一日ミンダナオ島に転進、八月よりコタバト州警備戡定作戦参加、

十二月二十日第三より充足更に一八、一九年現役兵入隊在留邦人現地入隊等

最大兵力千八百名となる。

十九年九月部隊は米機約七十機によりコタバト地区で爆撃さる。

敵機を撃墜し師団長より感状を受く。以後サルナヤン、ミラヤ地区に転進、

二十年四月一七日、米八軍コタバト地区に上陸、部隊はこれを迎撃奮戦し

壊滅す。

英霊千数百名ここに祀る。

 

由来  ( 副碑 )

 

終戦三十年余を経た現在ミンダナオ島コタバト地区は、遺骨収集に対し

厚生省の認可をを得られず有志により再度の収集にて二十数体を収集した

のみ。

月日を経過するに従い地形の変化と風化により益々困難となる為、

コタバト平和の塔の分骨をし茲に建立す。

 

昭和五十一年三月二十一日  コタバト静岡県人会  同遺族会

 

                         ( 碑文 )

 

ノモンハン事件慰霊碑。

 

 

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慰霊碑の由来

 

此の碑はノモンハン事件に従軍して散華した戦友の慰霊のために建立した

ものである。

 

ノモンハン事件は、昭和十四年五月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南方

ノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を

血に染め日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件

である。

 

直接戦闘に参加した部隊はハイラルに駐屯の第二十三師団隷下の将兵

であった。

この戦闘は関東軍の作戦予測に反しソ蒙軍の近代兵器を投入しての猛攻を

受け、寡兵肉弾をもってこれに応戦し悪戦苦闘の連続であった。

特にノロ高地における凄惨苛烈な死闘は後日の戦訓となるほどであた。

 

同年九月十六日停戦協定が成立したが、この間実に一万一千百二十四名の

犠牲者を出したことは痛恨未だ極まりないものがある。

 

ここに幾度かの死線を乗り越えてきた静岡県の生存者を中心に、広く関係者の

賛同を得て宿願を達成することが出来関係者一同の感激もまた大である。

願わくは一身を顧みず祖国防衛の大任を全うし殉国散華された将兵の崇高な

精神と武勲を後世に伝え以って平和への祈願としたい。

 

幾久しい悲願実りてこの聖地  今ここに立つノモンハンの碑

 

昭五十四年九月十六日建立 ノモンハン事件従軍生存者有志一同

   献歌 中村双葉  

   揮毫 渡邊墨仙

                             ( 碑文 )

 

比島派遣 独立歩兵第164大隊

     独立守備歩兵第32大隊

 

 

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顧みれば昭和十七年春のころ祖国をあとに征途につき比島セブ島攻略戦に

参加以来、ヒサヤ諸島、ミンダナオ島各地に転戦。

昭和二十年四月本軍のダバオ来攻より半年ダバオ平地北部山岳地に死闘を

重ね、部隊の大部を失いて遂に終戦詔勅を拝す。

我等死すべき命を永らえて俘囚の身となり、國に殉ぜし戦友を

マツキンレト麓野に残して故国に送還されしより三十有余年を経たり。

 

時は流れせば移りて、今や日本は先進国と称せられ平和国家として繁栄しり。

今にして昔日を偲び将に隔世の感甚だし。

身を安寧に置きて帰らざる戦友を憶い遺族の身の上におもいをいたすとき

断腸の念切なり。

 

往年我等嘗ての戦場たりもセブホホールミサミス等に旅して、この地に散華せし

英霊の安らからんことを祈り、更にダバオの地に草むす屍を故国に迎えんとして

インダガンウラ、ギャンカ、ベリサリオラサソン等ダバオ平地を始め、

遠くクモガン草原、ウピヤンバルマの山岳地にバコボ族アタ族等現地住民の

協力を得て野山を分ち探し求るも、二十余年の歳月は当時と著しく趣を

異にしてその収集は意の如くならず。

 

悄然としてタモガン草原に立ち戦友の名を呼べど応えるものとてなく、慟哭して

踵を返さんとすれば、モントーの山波に雨雲の去来するあり。

我等徒に歳を重ねて既に秋露梧桐葉落つる時。英霊に応えんとして力及ばず。

 

遺族に酬いんとして才足らず。

ただ愛惜の情切々として胸に迫るのみ 茲にその壮烈を永く世に伝えんことを

願い、英霊の異境に彷徨して鬼哭啾啾することなくこの地に鎮まらんことを

希いてこの碑を建つ。

 

昭和五十七年三月十四日  独立歩兵第百六十四大隊戦友一同

 

                               ( 碑文 )

 

愛の灯:捧従軍看護婦戦没者霊

 

 

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昭和十二年以降の戦時事変等に際し、赤十字の旗のもとに日本赤十字社

静岡県支部救護員として応召し、国の内外において傷病者の救護に献身し

博愛と奉仕の使命に殉ぜられた方々の遺徳を偲び、その御霊のとこしえに

安かれと祈りてこの碑を建立しました。

 

平和のいしづえとして尊い命をささげられた私どもの同胞が、こよなき

誇りを抱きつつ、かかげた愛の灯の偉大さをしのび、ふたたびこのような

悲惨なことがないようにと念願し、これを後世に永く伝えようとする

ものであります。

 

昭和五十年十月吉日建立  

  日本赤十字社静岡県支部長       山本敬三郎

  日本赤十字社看護婦同方会静岡県支部長 小山シヅ

  殉職救護員芳名  

                             ( 碑文 )

 

 

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 捧従軍看護婦戦没者霊   大野恵造

 

 朔北僻南砲煙間 

 看護傷兵自亦散 

 殉国婦是万輪花 

 気魄凛凛似白梅 

 

詩意

 

従軍看護婦は北方へ南方へと派遣され、大砲の弾幕の中で、傷ついた

兵隊さんの救護にかいがいしくあたった。

しかし、その中で万輪の花が散るように、お国の為に多くの看護婦が

むなしく散っていった。

その気力はりりしく強く、寒風に芽を吹き美しく花を咲かせる

白梅のようであった。

 

愛の灯

 

この詩は、従軍看護婦として南北戦線へ派遣され傷病将士の救護に

あたり、人道的任務に尽し、不幸にして戦死或は戦病死していった

人々をたたえた詩で、静岡県護国神社境内にある

「 愛の灯・殉職救護員慰霊碑 」 の除幕式並びに慰霊祭執行にあたり、

詩吟朗詠錦城流流祖・山本錦城先生が大野恵造氏に作詞を依頼、

流祖作曲の上、昭和五十年十一月二十三日碑前に於いて吟詠された。

 

日本赤十字社看護師同方会静岡県支部長  長嶋芳子 

 

                          ( 碑文 )

 

続く。