玉津島神社の前に鏡山という小さな山があり、鏡山を隔てて鹽竃神社が
鎮座されます。
鎮座地:和歌山市和歌浦中3丁目4-29
鏡山に登ってみました。
玉津島神社の鳥居の対面に、鏡山の登山口があります。
鏡山から眺めた和歌の浦。
鏡山から眺めた不老橋。
塩竃神社へ、鏡山を下山。
塩竃神社の道をはさんだ対面には、不老橋が架かっています。
縁起が良い名前なので、渡ってみました。
不老橋から眺めた玉津島神社の鳥居。
不老橋から眺めた塩竃神社。
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不老橋の修復について
平成二十七年度に橋の欄干・親柱の一部が破損したため、
平成二十八年度に国庫補助事業を受けて修復を行いました。
親柱については、元のまま設置すると、親柱の重量で風化している
柱材を傷める可能性があったために、次善の措置として樹脂で
複製品を製作し、設置しています。
なお、不老橋は設置されてから160年以上が経過しています。
欄干部分など通行の際には充分気をつけてください。
( 説明文 )
左に手水舎。
和合の松、二本の松がねじれてくっついています。
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主祭神 鹽槌翁尊 ( しおづちのおじのみこと )
配祀神 祓戸大神四座 ( はらへどのおおかみよざ )
由来
鹽竃神社は、かつて 「 輿の窟 」 と呼ばれた岩穴に鎮座ましまし、
とりわけ海の幸の神・安産、子授けの神として尊崇され、親しまれている。
当社は、元来玉津島社の祓所であり、いにしえ天野丹生明神
( 現在の丹生都比賣神社 ) の御神輿が、玉津島社へ渡御される慣し
( 所謂丹生都比賣神が玉津島稚日女神を表敬訪問される浜降りの神事 )
があり、その際に先ずこの輿の窟へ渡らせられたと傳えられている。
当社に対する人々の信仰は、遅くとも江戸後期にはあったとされるが、
神社としての創立は近く、大正六年秋となっている。
鹽竃神社は、安産守護・子授けの神、不老長寿・漁業豊穰・航海安全の神
としてつとにしられている。
即ち主祭神は鹽槌翁尊であるが、尊のことは 『 古事記 』 の神代篇
「 海幸彦・山幸彦 」 の神話に 「 鹽推神 」 として登場する。
兄海幸彦から借りた釣鈎をなくして困っている弟山幸彦に、海神
( 綿津見神 ) の所へ行けと教え、送り出したあの神様なのである。
そして山幸彦 ( 彦火火出見尊 ) は鹽槌翁尊の教えのまにまに、
龍宮の豊玉姫をめとられ、安産によって御子を得られたことから、
尊は安産守護の神としても一般の信仰があつい。
鹽槌翁尊は、人々に安心立命を与える現代風に云えば、まさに社会福祉の
神様で、塩が人々の食生活に重要なことを説き、各地で製塩の業を教え、
潮の満ち引きが出産に関係し、潮の功徳により人間が生まれることを主張し、
安産・子授け・長寿の方法、法則を唱え、人々の出生、生命を守護した神
である。
かつて当地では、布引付近を含め大正後期まで製塩がさかんに行われ、
又入江では和歌海苔の生産が行われた。
ちなみにかの浄瑠璃三十三間堂棟木の由来の木遣音頭に、
「 和歌の浦には名所がござる 一に權現、二に玉津島、三に下がり松、
四に鹽竃よ……」
とあるが、この鹽竈は直ちに神社とするには年代的にも無理があり、
むしろ当地でさかんに製塩が行われ、名所であったことを證左するもの
である。
遠く尊は全国各地を廻られて数々の大きな功績を残されたが、なかでも
製塩の法を伝えられた箇所が全国で13箇所あり、和歌の浦の鹽竃は
その9箇所目にあたる。
かの名高い奥州 ( 一の宮 ) の鹽竃はその13箇所目であり、尊がこの地で
果てられたため世にこれを 「 果ての鹽竃 」 といい傳えられている。
祓戸大神四座は、即ち瀬織津比賣神、速開都比賣神、速佐須良比賣神、
気吹戸主神であり、大祓詞でも御承知のとおりすべての罪汚れを
祓い清める神であり、冒頭に記述した丹生都比賣神浜降りの際この地で
清祓が行われたのも頷けるところである。
神社は、万葉のむかしから数々の史実に富む景勝の地和歌の浦の入江、
不老橋の前に坐します。
また神社にならんで南側の小高い丘上に、有名な山部宿祢赤人の歌碑が
あり、神亀元年赤人が聖武天皇玉津島行幸の際お供をしてこの地を訪れた
とき詠んだ
「 和歌の浦に 潮みち来れば潟を無み あしべをさして 鶴鳴きわたる 」
の歌詞が刻まれ、いにしえの和歌の浦ののどかなたたずまいをしのぶ
よすがとなっている。
なお、以上のような御由緒から、当社には京阪神を含め県内外から
安産、子授け祈願や、祈願成就したためその御礼参りにお詣りされる
御婦人方始め参詣者が多い。
拝所からの眺め。
以上。