堺市のマンホール、政令指定都市記念版です。

帆船の貿易船、右下に市の花:ハナショウブ、左下に市の木:ツツジ。

 

 

市の花:ハナショウブで4分割、それぞれのマスに、市の花木:ツツジと

市の鳥:モズ。

 

 

菅生神社は、南海高野線:北野田駅から東へ2㎞の所に鎮座されます。

 

 

喉が乾いたので、西へ300mのところにファミマへ行きましたら、菅生神社の

大鳥居がファミマの店舗の正面に建っておりました。

 

 

建っているのは、道路ではありません。信号機と信号機の間です。

道をまたいだ鳥居を移動させたのか、元々の道が鳥居の下を通っていたのか?

 

 

 

 

    

 

 

左に手水舎。

 

 

 

拝殿に向かって右に稲荷神社が鎮座されます。

 

 

    

 

    

 

 

    

 

    

 

拝殿の左右に神牛が奉納されています。

 

 

 

式内社 菅生神社 ( 大 月次 / 新嘗 ) 河内国 丹比郡鎮座

現社名 菅生神社 ( 菅生天満宮 )

鎮座地 大阪府堺市美原区菅生178-1

御祭神 天児屋根命 ( あめのこやねのみこと )

    菅原道真公 ( すがわらのみちざねこう )

旧社格 郷社

 

元々の主祭神は、菅生氏の氏祖である天児屋根命でしたが、室町時代以降

菅原道真公を合祀しています。

 

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由緒

 

上古この地は沼池が多く、菅 ( すげ ) が一帯に生えていたので菅生 ( 須加不 )

と称した。

仁徳天皇が難波京からこの地に丹北大道を造営せられ、反正天皇がこの近くで

御誕生になってから多遅比 ( たちび ) の地名が起り丹北郡 ( たじひのこほり )

と称した。

 

平安期の中頃に丹北郡が、丹南、丹北の二郡に分かれて菅生は丹南郡に属した。

中古一時郡名廃止されていた頃、郷荘の制によって(1225年)野田荘、菅生郷と

称した時代もある。

 

新撰姓氏録によると、河内国には、天児屋根命を祖とする中臣氏が多数居住

していて、その一族が菅生の地に本拠を構えてから菅生氏と名乗り、

豪族としてこの地を支配する外、天平十八年、菅生朝臣の姓を賜って検非使遺や

神琴師になって、朝廷に重用された。

その菅生朝臣が、祖神である天児屋根命を氏神として祀ったのが菅生神社の

創始である。

 

建武・歴応年間に二度の兵火に罹り、社殿、什宝ことごとく焼失したため記録は

明らかではないが、『 新抄格勅符 』 によれば大同元年 ( 806 ) の牒に、天平宝字

八年 ( 764 ) に菅生神に河内国で封 「 一戸 」 を奉られと見え、『 三代実録 』 

には

「 天安三年 ( 859 ) 正月二十七日甲申 従五位下より従五位上に進階した 」

と記される。

さらに醍醐天皇の命により作られた 『 延喜式神名帳 』 では式内大社に列し、

月次祭、新嘗祭の官弊に預かった。

 

当社所蔵の北野天神縁起絵巻第三巻の奥書によれば、この絵巻は応永三十四年

( 1427 ) 三月誓願寺住職杲盛が願主となり、野田庄惣社高松宮に奉納された

もので、絵巻の中には道真公がが境内の 「 菅沢 」 のほとりから、忽然と

誕生されたという説に基づく描写があり、当時天神信仰が全国的な風潮となって

いたのに乗じて、天神を勧請・配祀して菅生天満宮と称するに至った。

 

ちなみに延宝八年 ( 1680 ) の菅生天神社縁起には 

「 河内国丹南郡野田庄菅生宮並高松山天門寺 」

とあり、野田 ( 堺市東区北野田・南野田 ) の里人が氏神として崇めたのである。

 

爾来、菅生天満宮の神威が俄然宣揚されて、広い地域から尊崇をあつめるに

至る。現在残っている宝物類の殆んどはこの時代の物である。

 

平成になり、当社の本殿は、堺市内に所在する一間社春日造軒唐破風付桧皮葺

として、学術的見地から貴重なものであると認められ、平成十八年四月堺市の

指定有形文化財として指定された。

 

                          ( 大阪府神社銘鑑 )

 

 

 

 

 

拝殿に向かって左に余部神社が鎮座されます。

 

 

 

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余部神社縁起

 

祭神 素戔嗚命 ( すさのおのみこと )

 

天照大神に従わず根の国に追われる。

ひめ川の上流で八岐大蛇を退治され、その尾から取った神剣 ( 草薙剣 ) を

天照大神に献上され、仲良くなられた。

その子または六世孫を大国主命と云う。

 

祭神 誉田別命 ( ほんだわけのみこと )

 

応神天皇のこと。

その左:ヒメオオカミノミコト、右:オオタラシヒメノミコト 配祀す。

 

                         ( 境内説明文 )

 

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余部神社縁起

 

祭神 素戔嗚命 ( すさのおのみこと )

 

天照大神に従わず根の国に追われる。

ひめ川の上流で八岐大蛇を退治され、その尾から取った神剣 ( 草薙剣 ) を

天照大神に献上され、仲良くなられた。

その子または六世孫を大国主命と云う。

 

祭神 誉田別命 ( ほんだわけのみこと )

 

応神天皇のこと。

その左:ヒメオオカミノミコト、右:オオタラシヒメノミコト 配祀す。

 

                          ( 境内説明文 )

 

隣に大歳神社が鎮座されます。

 

 

 

本殿。とても美しい軒唐破風付きの春日造です。

 

 

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菅生神社 本殿

 

菅生神社は平安時代に編纂された延喜式神名帳に記載のある式内社です。

中世には菅原道真を祀るようになり、菅生天満宮ないし天神社と称するように

なります。 

 

境内地には神門、拝殿、幣殿、本殿の他、神宮寺であった高松山天門寺の本堂

( 現在は境内社恵比寿神社本殿 ) の他、道真ゆかりの菅澤 ( すがさわ ) 等が

現在も伝わります。 

 

本殿は一間杜春日造で正面に軒唐破風 ( のきからはふ ) をつけ、

屋根は檜皮葺としています。

一間社春日造としては規模の大きなもので、正面柱間は7尺 ( 2m ) に及びます。

 

建築年代は高欄擬宝珠 ( こうらんぎぼし ) に

 「 河州丹南郷野田庄天神御賓前万治四辛丑季三月吉祥日 」

の銘があり、また琵琶板・軒桁などからも同じ年号の墨書が見られることから、

万治四年 ( 1661 ) に建築されたことがわかります。

虹梁や実肘木などの細部も17世紀の様式をよく示しており大変貴重です。

 

                            ( 境内説明文 )

 

本殿の左後方に琴平神社が鎮座されます。

 

 

本殿の後方に八幡神社が鎮座されます。

 

 

その隣に御霊神社が鎮座されます。

 

 

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北野田地区 御霊神社の遷座にあたって

 

旧野田村北野田の村社は、五穀豊穣・無病息災を願って、天文二十三年

( 1554 ) に南御霊神社を、また明暦二年 ( 1656 ) 北御霊神社を建立されたのが

始りです。

 

近年 ( 平成八年 ) に至って南御霊神社のご神体は北御霊神社に合祀され

ましたが、先人たちは長い歳月にわあtり、悪疫や災厄の祓い清めるお祈りを

続けてまいりました。

 

時代が下がるに伴い、神に対する信仰心も変化し、世話人たちの高齢化も

進んで祖先から受け継いできた祭祀の執行も滞りがちとなるなか、この度の

菅生天満宮のご造営を契機に、この神苑に亜亜tらしい祠を建て、御神体を

お祀りして、末永く子孫の繁栄・無病息災を願ってお祈りしてまいります。

 

平成『二十年三月吉日 北野田地区 御霊神社 世話人一同

                   

                           ( 境内説明文 )

 

本殿の右後方に恵美須神社が鎮座されます。

 

 

拝殿に向かって右に元宮菅生明神社が鎮座されます。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。