葛城市のマスコット、蓮花 ( れんか ) ちゃん。
葛城市のHPによれば、奈良県のマスコット:せんとくんの恋人候補、
という設定で、中将姫 ( ちゅうじょうひめ ) がモチーフになっている、
とのことでした。
中将姫は全国的には無名ですが、奈良盆地では有名です。
というのは冗談で、中将姫は全国津々浦々に知られています。
ツムラ順天堂の中将湯 ( ちゅうじょうとう ) に描かれているお姫様が、
中将姫です。
中将姫をモチーフに出来た蓮花ちゃんが、せんとくんの恋人候補・・・
頭がくらくらしてきた...
気を取り直して、
角刺 ( つぬさし ) 神社は、葛城市歴史博物館の裏手に鎮座されます。
参道に向かって右に、派出所・消防団があります。
その後ろに見える木は、葛城市歴史博物館のものです。
鳥居に向かって右に、明治天皇・神武天皇遥拝所があります。
境内の外にあるのは珍しい。
鳥居をくぐった左に手水舎、そのすぐ隣に拝殿があります。
水口に付いているこの龍頭はよく見かけます。カエルとセットは
珍しいですね。
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奈良県葛城市忍海 ( おしぬみ ) 鎮座 角刺 ( つぬさし ) 神社
御祭神 飯豊青命 ( いいとよあおのみこと )
由緒
第二十二代清寧天皇が崩御された時、皇太子億計 ( おけ ) 王 ( 仁賢天皇 ) と
皇子弘計 ( をけ ) 王 ( 顕宗 けんそう 天皇 ) の兄弟は、互いに皇位を
譲り合い、なかなか御位に就かれないので、姉君である飯豊青命
( いいとよあおのみこと ) が代わって、この地で朝政を執られました。
日本書紀には
倭辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺宮
やまとべに みがほしものは おしぬみの このたかきなる つぬさしのみや
とあり、大そう立派な建物であったようです。
飯豊青命の執政期間は短く、わずか十ヶ月余りで崩御され、葛城埴口丘陵
( かつらぎのはにくちのおかのみささぎ ) に葬られました。
北西900m先にある飯豊天皇陵がそれです。
飯豊青命は記紀では天皇としては認められてはいませんが、天皇の扱いに
なっている歴史書も古来より数冊残されており、市場初の女性天皇として
その歴史に注目が集まるところです。
( 境内説明文 )
初の女性天皇は第三十三代推古天皇で、
飯豊青皇女 ( いいとよあおのひめみこ ) は、その十代前の方です。
天皇姉飯豊皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、自稱忍海飯豊靑尊。
天皇の姉君の飯豊皇女は忍海刺宮において朝政をされた。
自ら忍海飯豊尊と名乗られた。
この文章を読めば、「 自ら進んで天皇に即位された。」 と受け取って
しまいますが、日本書記は飯豊青皇女を天皇とはしておりません。
即位されずに、天皇の業務を執られました。
その後わずか10ヵ月で薨去されますが、その理由は日本書記には書かれて
おりません。
何故か、日本書記では 「 崩 」 と書かれており、天皇の扱いです。
冬十一月、飯豊靑尊崩、葬葛城埴口丘陵。
冬十一月、飯豊青尊は崩御された。葛城埴口丘陵に葬られた。
日本書記では、第二十二代清寧天皇がまだお元気だったころ、三年の条に、
秋七月、飯豊皇女、於角刺宮與夫初交、謂人曰
「 一知女道、又安可異。終不願交於男。」
九月壬子朔癸丑、遣臣連、巡省風俗。
秋七月、飯豊皇女 ( いいとよのひめみこ ) が角刺宮で、男と初めて
まぐあいをされたが、
「 人並に女の道を知ったが、別に変わったことはない。
以後、男と交わりたいとは思わない。」
と言われた。
九月二日、臣 ( おみ ) と連 ( むらじ ) を遣わして、民の風俗を巡察
させられた。
と、唐突に書かれてあります。お相手の名前は書かれておりません。
記紀は 「 まぐあい 」 についてはおおらかではあるけど、こんな事まで
書くのか、と引いてしまいます。
書かなければならないエピソードとは思えません。
しかし、正史である日本書記に書かれてあるのは、必要だから書かれてある
のだろうと思います。
「 まぐあい 」 をされた場所・皇太子の代わりに政治を執られた場所が、
「 大和で見るべき立派なお宮 」 と詠まれた角刺宮です。
そしてわずか10ヵ月で原因不明の薨去 ( 崩御 )。
飯豊皇女が暗殺されたことを示唆しているのではないだろうか?
天皇を殺すととんでもないことが起こるので、殺すことはできません。
殺されるのは天皇になられる前 ( 皇太子 )、譲位された後 ( 上皇・法皇 )、と
決まっています。
歴史上、天皇として殺されたさのは崇峻天皇のみです。
だから、ということかどうかはわかりませんが、崇峻天皇を暗殺した蘇我氏は
滅亡しています。
飯豊皇女が亡くなられたことを、日本書記では 「 崩御 」 と表現しながらも
飯豊皇女を天皇とは書いていない。
やはり暗殺されたのではないだろうか?
誰に? ・・・全くわかりません。
わからないことだらけなのですが、飯豊皇女は 「 翻弄された女性 」 という
印象があります。
拝殿に、忍海に関する説明文が貼られていました。
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お参りいただきありがとうございます。
この辺りは5世紀の終り頃、日本の政治の中心として栄えたようです。
8世紀の初めの奈良時代に寛政した日本書記には、
「 忍海の角刺の宮は立派で到底、
我々の臨むべくもない手の届かぬものである 」
と詠われています。
日本の歴史上、最初の実在人物とされる葛城峰襲津彦 ( かつらぎのそつひこ )
が5世紀の初め頃、新羅から連れ帰った人が住みついたのが忍海の始り
とされています。
その人たちは鍛冶仕事に十字する渡来系集団として活躍したそうです。
忍海の西に位置する平岡で公園墓地の建設にあたり、昭和61年に
発掘調査が行われました。
その時、鉄鉗 ( かなはし = ヤットコ )、鉄床 ( かなとこ )、鉄槌 ( かなづち )
等の鍛冶道具が出土しました。
また、鉄製の馬具、鉄製の紡錘車、スキ先、鎌等、鉄製品が多く出ました。
これらには朝鮮半島と関係の深い遺物が目立ち、渡来系の鍛冶集団の埋葬を
示唆しています。
また、その後忍海の西側の脇田で古代寺院遺跡が発掘されました。
今の脇田神社の周辺には、地光寺跡とされる伽藍遺構があり、新羅系の
特異な鬼面文のある軒丸瓦が出土しています。
太い眉、細い目で写実的でいかつい鬼の顔です。
鉄器政策との関わりを窺わせるものも多数、見つかっています。
さらに、東大寺の大仏政策にも忍海の人が携わったことが記録に残されて
います。
6世紀の中頃、百済の聖明王が日本に仏教を伝え、聖徳太子が熱心に
信仰されたこともあり、仏教は急速に広まりました。
忍海寺 ( にんかいじ ) は宮寺と呼ばれているように神宮寺です。
神仏習合の結果、神社を護る寺として設けられ、明治維新の
廃仏毀釈にもかかわらず仏教寺院様式の建物tして残されましたが、
集会所が無かった事から昭和34年に社務所風に改築されました。
しかし老朽化と対し音声に問題があるとして、平成20年5月に再建
しました。
その際に発掘調査、周辺設備もして、末永く歴史を伝えていくべく
努力をしおています。
このように忍海は、歴史時代の初めより明治30年に葛上郡と合併して
南葛城郡となるまで、忍海郡 ( おしみごおり ) として長く続いています。
1500年前に日本に初めて伝えられた、漢字、機織り、鉄器作りの技術等は、
この忍海の地より各地に広がったのかもしれません。
この古い歴史を誇りとpして正しく次の世代に伝え、地域全員で由緒ある
角刺神社を守ってまいります。
( 境内説明文 )
拝殿に向かって右に聳える御神木。
横たわる幹、幹なんだか根っこなんだか?
敷いてある石をどかしたら、この幹は根に変わっていくのではないだろうか?
本殿は春日造。
本殿に向かって右に境内社が鎮座されます。
左はお稲荷さん、右は仏像が納められていました。
拝殿に向かって右前に、公民館風の忍海寺 ( にんかいじ ) です。
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忍海寺 ( にんかいじ )
境内に建つ忍海寺は神仏習合の表れとして神社に置かれた寺院である
神宮寺です。
本尊の観音菩薩立像は飯豊青命 ( いいとよあおのみこ ) が仏の姿で
現れたものではないかと伝えられています。
( 境内説明文 )
拝殿の対面に忠魂碑が建立されています。
忠魂碑の隣りに、分水石 ( 水路の水を分ける石 ) があります。
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分水石と九平 ( くへい ) さん
江戸時代後期に、忍海と近隣の村との水争いで、火柱を抱くものがあれば
その村の主張を聞くとの話が出ました。
そこで忍海の九平 ( くへい ) さんが犠牲的誠心を持って火柱を抱いた結果、
忍海に有利な割合で水を分けることが出来ました。
ここにある分水石は、当時の決められた割合通り水が流れるように溝幅が
刻まれています。
この石は忍海の西にある戸分けという分水地点にあったもので、
住宅団地開発に伴い、当地に移転保存されています。
九平さんはその後、当時としては長生きをして、明治八年に亡くなられ
ましたが、村を救った儀民として今も親しみを持って九平さんと呼ばれ
祀られています。ここに遺徳を偲び功績を記します。
平成二十年十二月 忍海土地改良区
( 境内説明文 )
分水石の奥に、鏡池があります。
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鏡池
境内にある鏡池は、飯豊青命が毎朝、鏡代わりに使った池と伝えられて
います。
また、この池は蓮池とも呼ばれていて、当麻寺の中将姫が曼荼羅を
織るための蓮糸をこの池から採ったと言われています。
( 境内説明文 )
拝殿からの眺め。
飯豊青命の陵:葛城埴口丘陵 ( かつらぎのはにくちのおかのみささぎ ) は
近鉄御所千:新庄駅からみなみへ500mのところに在ります。
地図には 「 飯豊天皇陵 」 と書かれてあります。
宮内庁も 「 飯豊天皇 埴口丘陵 」 と書いています。
謎に包まれた飯豊青皇女。
以上。