幣殿へ。
最も手前に境内社が鎮座されます。御祭神は不明です。
幣殿の両脇に御輿が置かれています。
慶長九年 ( 1604 ) 豊臣秀頼公が寄進されています。 ( 八角八棟造 )
慶長五年 ( 1600 )、関ヶ原の戦いでは、東西ともに 「 秀頼公のため 」 を
大義名分としました。
戦に勝った家康公は五大老筆頭の筆頭として戦後処理を行い、どさくさにまぎれて
220万石あった豊臣家の領地は65万石の直轄地のみに減らされています。
慶長八年 ( 1603 )、かつては家来筋だった家康公が征夷大将軍になられます。
その翌年、秀頼公は楼門、回廊、拝殿、幣殿、本殿を再建し、この御輿を奉納して
います。そのとき若干12歳。
秀頼公が亡くなられたのは慶長二十年 ( 1615 ) 享年23歳でした。
400年前に秀頼公が再建された社殿・奉納された御輿がすぐ目の前にあるのも不思議
ですが、豊臣家が滅亡したのはたったの400年前。
なんだか、秀頼公の亡霊に出逢ったような不思議な感覚です。
幣殿の中央には 「 子安大明神 」 の御神額が掲げられています。
本殿。
式内社 吉野水分神社 (大 月次 / 新嘗 ) 大和国 吉野郡鎮座
現社名 吉野水分神社
旧社格 村社
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吉野水分神社 別称 子守宮
左殿 高皇産霊神 ( たかみむすびのかみ )
少名彦名神 ( すくなひこなのかみ )
御子神 ( みこのかみ )
正殿 天之水分神 ( あめのみくまりのかみ )
右殿 天萬栲幡姫命 ( あめよろずたくはたひめのみこと )
玉依姫命 ( たまよりひめのみこと )
瓊瓊杵尊 ( ににぎのみこと )
創立年代は不詳ですが、一千年前の延喜式神名帳に、すでに大月次新嘗めに
案上官幣に預かる旧社にて、大和四処水分の第一として記され、吉野八大神祠の
一位で俗に子安大明神と申されます。
水分とは 「 水神 」 の意味で、水を程良く田畑に配分する神様で、毎年4月3日に
五穀豊穣を祈る御田植祭を盛大に行われ、その神事は吉野町の無形文化財として
指定されています。
当神社が子守の神になったことについては 「 水分 」 が 「 みくもり 」「 みこもり 」
「 こもり 」 と転訛して子供を守る神、「 子神 」 になったといわれています。
当神社の本殿は祭神七柱を三つの社殿に奉祀し、その三つの社殿を一つにつないだ
珍しい建築様式で、水分造りと申されます。
現在の社殿は、豊臣秀吉が文禄三年に吉野山に花見に来られたとき、当神社に
祈願して秀頼が授かりそのお礼として、慶長三年に再建の工を起こされた後、
秀頼が父秀吉の遺志を継ぎ、建部内匠頭光重を奉行として慶長九年に完成された
もので、華麗かつ精巧を極めた桃山時代代表的神社建造物として、建物全部が
国の重要文化財として指定されています。
神社の宝物としては、釣り灯籠、神輿、湯釜等秀頼寄進の銘のあるものが社殿に
置かれています。
御祭神の玉依姫命の神象は日本第一の美女神象として国宝に指定されています。
国学の泰斗として有名な本居宣長は、この子守の社の申し子 として名高く宣長の
著である菅笠日記にその事がよく書かれています。
今も子供を授ける神、子供を護る神、安産の守護神として世間の信仰をあつめ、
全国各地よりの参詣が絶えません。
宣長翁が当社へお礼参りの折に詠まれた歌に
みくまりの 神の誓ひの なかしせば これのあが身は 生れこめやも
ちちははの 昔想へば 袖ぬれぬ みくまり山に 雨はふらねど
( 境内説明文 )
天萬栲幡姫命と書かれてあるのは、天萬栲幡千幡比賣命 ( あめよろずたくはたち
はたひめのみこと ) のことなのでしょう。
高皇産霊神 ( たかみむすびのかみ ) の子神 ( 古事記 ) または孫神 ( 書記 )
として登場されます。織物の神または安産・子育ての神として祀られています。
左から、撮影。
幣殿からの眺め。
以上。