甘樫坐 ( あまかしにます ) 神社は、近鉄橿原線:橿原神宮前駅から東へ1.5㎞ の
所に鎮座されます。
飛鳥皮に架かる甘樫橋、その向こうに甘樫丘 ( あまかしのおか )。
甘樫丘には、これといった遺跡は無いのですが、飛鳥宮跡、藤原京跡などを眺める
ことができます。
飛鳥川。
甘樫坐神社に向かう道です。
住宅地を入って行ったところに、向原寺があります。
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豊浦寺跡
603年推古天皇が豊浦宮 ( とゆらのみや ) から小墾田宮 ( おはりだみや ) に
移った後に、豊浦寺を建立したとされている。近年の発掘調査で、寺院の遺構に
先行する建物跡がみつかり、これを裏付けている。
552年 ( 欽明天皇十三年 ) 百済の聖明王が朝廷に献上した金銅の釈迦仏
( 日本初渡来の仏像 ) を蘇我稲目がたまわり、向原の家を浄めて寺としたのが
始りで日本初の寺のされている。
しかし、その後疫病が流行した時、災害は仏教崇拝によるという理由で、物部氏
により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されたという。
( 境内説明文 )
崇峻天皇五年十一月三日、蘇我馬子に命じられた東漢直駒 ( やまとの
あやのあたいこま ) によって崇峻天皇が暗殺され、十二月八日、
推古天皇が豊浦宮にて即位されます。 その場所がここでした。
推古天皇十一年十月四日、推古天皇は小墾田宮 ( おはりだみや ) に
移られます。 小墾田宮はここから北へ200mほどのところです。
日本書記によれば、蘇我馬子がやりたい放題の時期ですので、遷都も
蘇我馬子の意向ではないかと思うのですが、日本書記には何も書かれて
おりません。
小墾田宮 ( おはりだみや ) はすぐ近くですので、行ってみました。
宮殿の建物が建っていたところです。駐車場になっておりました。
古宮土壇に一本、木が生えています。
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古宮遺跡 ( 小墾田宮 )
古宮遺跡はこれまで推古天皇の小墾田宮と推定されてきた遺跡である。
明治時代には金銅製四環壺が出土したと伝えられているが、現在は古宮土壇
だけが残されている。
日本書記・続日本紀によると、小墾田宮は推古天皇に始り、離宮や兵庫
( 武器庫 ) として奈良時代まで存続していたことがわかっている。
昭和四十五年 ( 1970 ) mに実施された発掘調査では、土壇の南側で
七世紀前半の小池と石敷が見つかっており、推古天皇の時代の庭園跡である
ことが判明した。
また、現在は駐車場になっている場所でも七世紀前半から後半にかけての
建物群が見つかっており、広い範囲に遺跡が広がることも確認されている。
しかし、小墾田宮については、昭和六十二年 ( 1987 ) に飛鳥川を隔てた
東側にある雷丘東方遺跡で、、奈良時代の井戸から 「 小治田宮 」 と
墨書きされた土器が多数出土したことから、少なくとも奈良~平安時代の
小治田宮については、雷丘東方遺跡であることが判明した。
これらの成果から、推古天皇の小墾田宮も雷丘周辺にあったと考えられるように
なった。
よって古宮遺跡は蘇我氏に関わる庭園とする説が有力となっている。
明日香村
( 説明文 )
とすると、豊浦宮のすぐ隣に蘇我氏関連の庭園があったということなのですね。
雷丘は、豊浦宮から北東へ400mくらいのところにある小さな丘です。
雷丘交差点のすぐ隣にあります。
古宮遺跡 雷丘遺跡
豊浦宮跡
さて、豊浦宮跡に戻りましょう。
豊浦宮跡 ( 現向原寺 ) の直ぐ南に、難波池 ( なんばいけ ) があり、神社が
鎮座されています。
社殿の前に庚申塔があります。
御社名不明。
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難波池の由来
向原寺 ( 豊浦寺 ) の一角に難波池と称される池がある。
この池は日本書記・欽明天皇十三年仏教伝来の記事に、廃仏派の物部尾輿
( もののべのおこし ) が仏像を投げ込んだ難波の堀江であるとの伝承をもつ。
そして後世の記録には、この仏像が信濃 ( 長野県 ) 善光寺に祀られたという
善光寺縁起として語り継がれている。
( 境内説明文 )
善光寺HPの記事を転載します。
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『 善光寺縁起 』 によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから
朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年 ( 552年 )、仏教伝来の
折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。
この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏に
よって難波の堀江へと打ち捨てられました。
後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、
はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年 ( 642年 )
現在の地に遷座いたしました。
この縁起より、この地に善光講があるみたいです。
難波池の後方に、善光講の記念碑 (?) がありました。
続く。













