桜井田原本王寺線の保津交差点から分かれて、東に向かって300mほどのところが
十六面 ( じゅうろくせん ) という地域です。
読み方が面白いですね。
田原本町のHPには、「 田原本町に伝わる昔話 」 というページがあり、「 十六面 」
について記載がありますので転載します。
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十六の面 ( 広報たわらもと1989年2月号掲載 )
昔、西竹田に猿楽師 ( さるがくし ) が住んでいました。
姓を金春 ( こんぱる ) といいました。
ある日天から十六 ( じゅうろく ) という面 ( おもて ) が落ちて来ました。
( 一説には十六枚の面ともいわれています )
そこで面の落ちた所を十六面 ( じゅうろくせん ) というようになったそうです。
十六という面は、若い美しい公達 ( きんだち ) をあらわし、平敦盛 ( たいらの
あつもり )( 1169~1184 ) が十六歳で戦死したことから名付けられています。
この十六という面をつけると気が狂ったようになるので、金春の息子は能楽師として
家を継ぐことをあきらめて、この面を御神体として祀ったのが十六面の
一杵島 ( いっきしま ) 神社だといわれています。
面づくりは大網と富本 ( とんもと ) に住んでいたそうです。
十六面はもと富本と一つであったのが、寛永 ( 1624~1643 ) のころに分立した
と伝えられ、
それで富本の伏せ字から十六面を トムオモテ と呼ぶようになったとも言われています。
また西竹田には、今も金春屋敷といわれるところがあります。
( 『 平野村史 』 から )
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/soshki/kyouikuiinkai/library/kanko/story/1207.html
これから参拝する予定の市杵島神社 ( 一杵島神社 ) の御神体が十六の面と
書かれてあります。
十六という能面は、どなたも御存知のものです。 ネットを検索とすぐ出てきます。
玉川大学教育博物館のHPを紹介しておきます。
http://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/2007/190.html
この地域の能楽に関係する地名と概要、その他田原本HPに記載されている
地名と概要を下記にまとめてみました。
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富本
西竹田 十六面 薬王寺 田原本駅
市杵島神社
大網
秦庄
秦楽寺
味間
補厳寺
西竹田
猿楽師が住んでんいた場所。
能楽の中の流派の一つ:金春 ( こんぱる ) の屋敷があったとされる。
富本・大網
面作りが住んでいた。
十六面 市杵島神社
能楽の十六の面が降った所。
秦庄 ( はたのしょう ) 秦楽寺 ( じんらくじ )
能楽の元である散楽の開祖で秦氏の長である秦野河勝が創建した寺。
金春屋敷があった場所とされる。
味間 ( あじま ) の補厳寺 ( ふがんじ )
世阿弥が修行をした寺。
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こうしてみると、田原本町は能楽と深いかかわりがあるようです。
田原本町は、能楽発祥の地を称されています。
↓田原本まちづくり観光振興機構HP
https://tawaramoton.com/spot/%E8%83%BD%E6%A5%BD%E7%99%BA%E7%A5%A5%E3%81%AE%E5%9C%B0/
市杵島神社は、薬王寺八幡神社から西へ500mのところに鎮座されます。
近鉄橿原線:田原本駅から西へ1.3㎞ほどのところになります。
鳥居をくぐった正面は、拝殿の側面です。
拝殿。
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田原本町 町・村の歴史 大字十六面
十六面の概要
江戸時代の寛永十七年 ( 1640年 )、薬王寺、竹田、保津の各村の領地を分けて、
十六面村 ( その当時の石高は585石 ) ができました。
この集落は現在の村より東北方の畑地の微高地が、古い旧集落ではないかとも
言われています。
江戸時代は平野藩両であったが、明治二十二年 ( 1889年 ) に市町村制の施行で
平野村大字十六面となり、更に、昭和三十一年 ( 1956年 ) に市町村合併で現在の
田原本町大字十六面となりました。
( ふるさと歴史探訪ハイクより引用 )
( 境内説明文 )
拝殿と本殿の間をみてみると、本殿は拝めるようになっていました。
拝殿からの眺め、隣にある教専寺の建物が見えます。
以上。