氷川神社の西に駐車場が隣接しており、埼玉県神社庁が在ります。

 

 

 

広い駐車場を北上すると、かつて氷川神社の領地であった大宮公園があります。

この公園の一部が競輪場、野球場、舟遊池などに使われているほど広大な公園です。

 

 

青木昆陽之碑が建立されています。

 

 

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青木昆陽之碑

 

青木昆陽は、元禄十一年今の東京日本橋に生まれました。

 

学問に優れたうえ、人格高潔であることが大岡越前の耳に入り、幕府に仕えることに

なりまいした。 そして甘藷 ( かんしょ、さつまいも ) の栽培を広く普及させた昆陽は

甘藷先生とよばれました。

 

やがて甘藷が県の特産物となり、農業協同組合は、県民の生活が潤うよう努力した

昆陽の業績をたたえ、氷川公園 ( 現在の大宮公園 ) に、昭和四年八月、記念碑を

建設しました。

 

埼玉県大宮公園事務所

                               ( 説明文 )

 

青木昆陽公は、埼玉とは縁がありません。顕彰碑だったのですね。

 

青木昆陽公は小石川の薬草園で甘藷を栽培し、その後数ヶ所に分けて試作し、

初めて成功したのが千葉県の馬加村 ( 幕張 ) でした。 

薩摩芋はその後全国に普及し、飢饉を救う事になります。

 

↓昆陽神社 千葉市花見区

https://ameblo.jp/fudasyosanpai/entry-12580208424.html

 

大宮公園には多くの桜が植えられています。 お花見には素晴らしいでしょうね。

 

 

 

 

 

アカシデ。

 

 

 

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アカシデ カバノキ科

 

アカシデは樹高10~15mになる落葉高木で、北海道南部から九州、朝鮮半島に分布

しています。 低地から丘陵地の雑木林に育成し、樹皮は灰白色で滑らかですが、

幹は肥大成長が均等に行われないため凸凹ができ、老木になると太い脈状の出入りが

多くなります。

 

名前の由来は、花穂の垂れ下がる様子が注連縄に垂れ下がる紙 ( 紙垂、しで ) に

似て、新芽が赤いことによります。

 

平成二十年九月 埼玉県大宮公園事務所

                                ( 説明文 )

 

注連縄にぶらさがった稲妻をかたどった紙の名前が、紙垂 ( しで ) 。

初めて知りました。 3000社を越える神社を参拝してきたのに...

気にしてなかったからなのですが、これからは気にするようにします。

 

 

 

参道は大宮公園にあり、境内は道の向こう側にありますので危ないです。

JR東北線:北大宮駅を降りて東に100mほど向かうと、裏参道通り。

そこから100mほど北上すると護国神社。道路を渡らないで到着できます。

      

              護国神社 |  | 大宮公園

              検察庁    |  |    

              裁判所    |  |

                                    |  |      

         北大宮駅 裁判所   |  | 駐車場  氷川神社

                              / /

 

 

    

 

 

 

 

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由緒略記

 

鎮座地 さいたま市大宮区高鼻町三丁目一四九番地

 

祭神   鳥羽伏見の役以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊五万一千余柱を祀る

 

沿革

 

昭和九年四月九日、埼玉県招魂社として設立鎮座し、同十四年三月神社制度の改正

により埼玉県護国神社と改称され、四月に指定護国神社となり、例大祭には神饌幣帛

の供進がなされることになった。

 

同二十一年二月、神社制度の変革により宗教法人埼玉県護国神社と改められ、更に

同二十三年十月埼霊 ( さいたま ) 神社と改称。 

同二十七年、再び埼玉県護国神社と改称し現在に至る。

 

昭和三十年一月奉賛会が設立され、以来年々の例大祭は埼玉県民挙て厳粛盛大に

行っている。

 

皇室の御崇敬

 

昭和九年鎮座に際し、天皇陛下の畏き祭粢料御下賜があり、朝香宮殿下の御参列が

あった。 以来天皇陛下をはじめ皇族の祭粢料御奉納は度々に及び

 昭和三十八年九月 皇太子殿下御参拝

 昭和四十二年十月 天皇皇后両陛下御同列に御参拝を賜った

 平成五年五月    天皇皇后両陛下御銅烈の御参拝を賜った

 

                               ( 境内説明文 )

 

拝殿に向かって左に出征兵士之像が奉納されています。

 

 

 

 

隣りに砲弾が奉納されています。

 

 

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奉納 艦砲弾 径24糎 ( センチ ) 全長約90糎

 

天皇陛下のもと、国歌安寧を願い見事玉と砕けた御英霊等の鎮魂の一助となればと

思い謹んで捧げ奉ります。

 

この艦砲弾は古い型の砲弾であります。

東郷元帥が連合艦隊を率いZ旗の下、日本海海戦において、かのロシアバルチック

艦隊を殲滅し、世界にその名を知らしめました。

 

その後、凱旋廻港のみぎり、各地の御一宮にその際出撃致した戦艦を始め各艦の

砲弾を御奉納なされたとの説があります。 譲り受けた老爺 ( 故人 ) に伝え聞いた

ところ、この砲弾はその時期に武蔵一宮氷川神社に御奉納され境内のいずれかに

あったと思われますが、戦後の混乱期に何処かに流出しておりました。

 

艦砲の砲撃手は俗に自ら鉄砲屋と呼び一弾一弾を我が子のように慈しみ、

( 見事命中してくれよ ) と祈りを籠めて懸命に磨き上げたと聞いております。

この砲弾もそうであったに違いないと思います。

 

この砲弾を使用した艦名が判明いたしておりません。

御存知の方がおられましたら、是非御教示、御指導頂けますれば幸甚に存知ます。

 

平成二十五年六月吉日 大宮住 加藤芳夫

                                 ( 碑文 )

 

拝殿に向かって右に埼玉県特攻勇士之像が奉納されています。

 

 

 

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埼玉県特攻勇士顕彰碑

 

あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身者の若者たちが特攻隊員と

なり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。

 

生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が

永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若者の精神の糧となることを願うもの

であります。

 

ここに散華された英雄の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊

戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ

幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之像を建立し謹んで奉納

いたします。

 

平成二十五年十月吉日 埼玉県特攻勇士之像建設委員会 会長 関根則之

 

                               ( 碑文 )

 

特攻勇士之像からの眺め。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。