御神徳:福運、金運、商売繁盛、等
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東京メトロ日比谷線:入谷駅を降り、言問通りを東に向かいます。
途中、金竜 ( きんりゅう ) 小学校前交差点を左に折れます。
金竜、何だか金運アップしそうな校名です。 金竜小学校の正門は、お洒落でした。
 
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二礼二拍手一礼で金運を祈願し、金竜小学校をあとにしました。
 
循環バス:めぐりん
 
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金竜小学校から500mほどのところに、鷲神社は鎮座されます。
年末の酉の市になると、テレビで放映される御神域です。
 
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大鳥居の前には、縁起物満載の大熊手が掲げられています。
 
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江戸時代の様子が掲げられていました。
 
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左、神楽殿の隣りに手水舎、右に歌碑があります。
 
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お賽銭箱の前に、おかめの面が置かれています。
おかめ = お多福 
     = 天鈿女命 ( あめのうずめのみこと ) 
     = 大宮能売命 ( おおみやのめのみこと )
 
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私は勿論、全ての撫で方をしてまいりました。
 
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浅草 「 酉の祭 ( まち ) 」「 酉の市 」 起源発祥の神社 
「 おとりさま 」・鷲 ( おおとり ) 神社と鷲 ( わし ) 大明神
 
鷲神社は江戸時代以前より此の地に祀られ、江戸時代は鷲大明神社と号し、福運を招き
強運にあずかる守り神として鷲大明神が祀られ、大明神と伝われるとおり神様をお祀り
してあります。
 
鷲大明神は天日鷲命 ( あめのひわしのみこと ) と申され、開運・商売繁盛にあらたかな
神として古くから崇敬されております。
 
その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神 ( 鳥の社 ) に
立ち寄られ、戦勝祈願をし、志をとげての帰途、社前の松に 「 熊手 」 をかけて勝ち戦
を祝い、お礼参りをなされました。 その日が十一月の酉の日であったので、この日を
鷲神社の例祭日と定めたのが 「 酉の祭 」 即ち 「 酉の市 」 の起源・発祥です。
 
その後、日本武尊が併せ祀られ、浅草 「 酉の祭 」「 酉の市 」 は次第に賑わいを増し
酉の市に商われる縁起熊手も年毎に人気となり、江戸の庶民の春 ( 正月 ) を迎える
行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。 特に吉原遊郭の隆盛とともに賑わい
「 吉原のおとりさま 」 とも云われました。
 
江戸時代から祀られている 「 鷲大明神 」 天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から
「 鷲大明神・おとりさま 」 といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の
戦禍にもお守りされ、三百年以上に「わたり鷲神社に安置されております。
 
天日鷲命は、「 東都歳時記 」 に 「 開運の守護神なり 」 とあり、日本武尊と共に
福運・強運・商売繁盛・武運を司る神様として篤く信仰されております。
 
「 酉の祭 」「 酉の市 」
 
歳末にあたり一年を神に感謝し、新年を迎えるにあたり福運を願う祭である浅草 
「 酉の市 」 は、江戸の昔の華やかさとその伝統を今に伝えると共に多くの
善男善女の篤い信仰を集め、今に受け継がれております。
 
「 酉の市 」 は江戸時代には 「 酉の祭 ( まち ) 」 と呼ばれ、人と神が和楽する
祭を意味しております。
また、「 市 ( いち ) 」 は 「 斎く ( いつく ) 」  で、神様をお祀りするために
「 身を清めてつつしむ 」 ということです。
 
このように 「 祭 ( まち ) 」・「 市 ( いち ) 」も本来は 「 清浄な神祭 」 を表して
おります。 縁起熊手にも神社でつかわれる四手 ( しで、紙で作った四垂れ ) や
神様を祀る場所であることを示す注連縄が付けられています。
 
このことからも 「 酉の市 」 の 「 市 」 は神社の御祭神と参詣する多くの
善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭りを表しており、仏教・寺とは何の
かかわりのない祭りなのです。
 
江戸時代の 「 酉の市 」 は鷲大明神社 ( 鷲神社 ) 敏て開かれており、
当時は神仏混淆といい、神社と寺が一緒に運営されておりました。 別当長国寺
( 別当とは、単に僧侶が神主を兼ねる僧職のこと ) の別当となりました。
 
明治元年 「 神仏分離令 」 が出され、鷲大明神社と長国寺は分離されることに
なり、長国寺の別当を廃し、鷲大明神社は、社号を鷲神社と改め、当時の
長国寺住職・田中常繁氏は鷲神社神主となり、本来の姿になったのです。
 
その後、長国寺は明治四十三年、それまでの山号の本立山 ( ほんりつさん )
を鷲在山 ( じゅざいさん ) と改めており、更に大正十二年の関東大震災後に
南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めております。
 
このように 「 鷲大明神社 」 「 鷲大明神 」 といわれるように 「 おとりさま 」
は神様をおいまつりする神社であり、その御由緒により十一月の酉の日に
「 酉の市 」 が斎行され多人の参詣者が集い、鮮やかな感動をよび、
人と祭りのふれあいをかんじさせるのです。
 
浅草田甫 ( たんぽ ) 「 酉の市 御本社 」 鷲神社
                             ( 境内説明文 )
 
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拝殿に向かって右前に、樋口一葉の玉梓 ( たまずさ ) 乃碑 ( 記念碑 ) があります。
 
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年毎に昔の面影を失いつつある町のたたずまいを見開きするにつけ、その当時の
事どもを偲び、後世に伝えんと此に明治文壇の閏秀作家、樋口一葉の 
「 たけくらべ 」 の一説、又書簡文を刻して残す。
 
「 たけくらべ 」 は一様が竜泉寺町に住みし明治二十六年 ( 西紀1893年 ) 
七月より明治二十七年四月まで十ヶ月間の見聞きしたことを書きしものである。
文中の鷲神社酉の市の描写は、一の様子を卓越した文章にて記している。
また、樋口一葉玉梓乃碑は、師半井桃水に宛てた未発表の書簡文である。
 
「 塵中につ記 」 に一葉は、明治二十七年三月二十六日に桃水を訪ねたと記されて
いるが、この書簡はその直後のものであろう。 
君はいたく青みやせてみし 面影は何方にか残るへき
と、につ記にも記してあり、書簡の行間にも一様の心が滲み出ているやに推われる。
 
此に樋口一葉没後百年を前にし、更に平成葵酉五年の酉年を祈念し、若くして
逝った一様の文才を称え、その事蹟を永く伝えんと神社ゆかりの文学碑、玉梓乃碑
を建立する。
 
平成五年十月吉日  鷲神社
                                 ( 碑文 )
 
拝殿からの眺め。
 
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駐車場からながめた社殿。
 
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社務所の後方に聳えるのは鷲神社が所有する建物です。  
まさに、福運・金運・商売繁盛の神が鎮座されるのでありました。
 
以上。