三津厳島神社は、長楽寺から北へ3㎞のところにあります。
三津厳島神社の手前に三代目押尾川親方のお墓がありました。
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郷土の相撲人 四代目押尾川
明和八年 ( 1771 ) 伊予国和気郡塩谷町 ( 現在の松山市三津二丁目 ) 灘家喜太八
の八男として生まれた。
松山藩のお抱え力士で、現役時代の体格は新調180cm、体重146㎏あった。
大坂へ出て大阪相撲の陣幕長兵衛の弟子となり、陣幕嶋之助の四股名で活躍し、
その後江戸へ出て竜門鯉之助に改め、寛政七年 ( 1795年 ) 東大関になった。
同十二年 ( 1800年 ) から四代目押尾川巻右衛門と名乗り、江戸相撲を賑わした。
文化四年 ( 1807年 ) に廃業後、松山で土地相撲を指導した。
特に、寛政三年 ( 1791年 ) の上覧相撲で、雷電為右衛門を喉輪攻めで破る大番
狂わせを演じた力士として有名で、相撲シリーズ切手にもなっている。
設置者名 三津浜地区まちづくり協議会
事業名 松山市地域の宝みがきサポート事業
平成25年12月設置
( 説明文 )
陣幕嶋之助は三代目押尾川親方です。
初代押尾川・二代目押尾川も愛媛の出身で、四代目押尾川出潮右衛門は福岡の
出身です。
お墓の隣に地蔵尊が祀られています。
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地蔵尊の由来
戦国時代、日本中は全国統一を求めて戦乱の渦中にあり、全国の武将はいやおうなく
東西のどちらかの陣営に加担しなければならない立場にいた。
このような中で慶長五年九月十八日 「 伊予の関ケ原の合戦 」 といわれる
「 苅谷畑の戦い 」 は、東軍方の加藤勢と西軍方の毛利勢が古三津を主戦場として
戦った。
この大激戦で戦死した武将や名もなき武士たちの霊を慰め平和な郷土の構築を願って、
旧宮前町二丁目に地蔵尊が創建された。 ( 享保元年七月二十四日 )
その後現在地へ移された。
地元では、毎年八月二十四日 ( 二十五日 ) を祭日と決め、お祭りをして霊を慰める
と共に、子供たちが健全に育つことと、地域の安全を祈願している。
元町地蔵尊保存会
( 説明文 )
伊予国を支配していた河野氏は、長曾我部軍の侵略に続きその後の豊臣秀吉の
四国征伐によって滅亡します。 関ケ原の混乱に乗じて伊予を侵攻しようとする毛利勢
とお家再興を願う河野家残党が一諸になって、加藤嘉明を中心とする東軍勢と戦った
のが 「 三津浜夜襲 」 ですが、「 苅谷畑の戦い 」という呼び方もあります。
毛利勢が敗走しますが、勝った加藤勢も追討する力は残っていなかったほどの
大激戦でした。 この戦いで、古三津厳島神社の社殿は焼損したそうです。
この地蔵尊から100mほど北のところに、今の三津厳島神社は鎮座されます。
居の後方に神馬像があります。
鳥居をくぐった左に表忠碑があります。
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陸軍大将秋山好古が揮毫したもの。
明治37・38年、戦没従軍社芳名とあり、戦病死者として陸軍18名、海軍1名。
出征者として陸軍119名、海軍26名。 共働従軍社として陸軍95名、海軍4名。
合計263名の従軍社の生命が記されている。
日露戦争で洗浄満州に贈られた三津浜地区の若者達の姓名。
( 境内説明文 )
三津浜地区だけで263名とは、大変な数です。
陸軍の戦死者崇が極端に多いことに驚かされますが、全戦全勝というイメージが
ある海戦においても多くの方が亡くなられたということにも驚きました。
左に手水舎。
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御祭神 宗像三女神 ( むなかたさんにょしん )
別名 道主貴之神 ( みちぬしのむちのかみ )
市杵嶋姫命 ( いちきしまひめのかみ )
湍津姫命 ( たぎつひめのみこと )
田心姫命 ( たごりひめのみこと )
合祀 大国主命 ( おおくにぬしのみこと )
少彦名命 ( すくなひこなのみこと )
塩土神 ( しおつちのかみ )
崇徳天皇 ( すとくてんのう )
事代主命 ( ことしろぬしのみこと )
蛭子命 ( ひるこの、いこと )
保食神 ( うけもちのかみ )
由緒
600年頃 筑紫宗像の神 ( 現在の福岡県宗像大社 ) を勧請。
700年頃 今の古三津新屋敷方面に神殿を新築。
724年 安芸国の厳島神社の神を勧請。
941年 橋遠保・河野好方・野田新藤次、社殿を修理し願文を納める。
1600年 苅谷畑の戦により古三津厳島神社、焼失。
1602年 厳島神社を現在地に造営
( 境内説明文 )
七福神の寿老神は、拝殿に向かって左に天満宮と並んで鎮座されます。
寿老神の社殿お前には、算額が奉納されています。
江戸時代、数学の問題を作る事、解くことが大いに流行り、難しい問題を作った
人々は神社に納めました。 あちらこちらのお社で算額を観ることが出来ます。
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中国から伝わってきた数学は、江戸時代に花開き、日本独自に発達した和算
( 数学 ) として世界の再興レベルまで高められました。
日本には、古来から祈願のために、神仏に絵馬を奉納する風習があります。
その絵馬に倣い、和算を楽しむ人にとは、数学の難問が解けることを祈り、また
解けたことを感謝し、後には学力の向上を願い、数学の問題や答を額に描いて
神社仏閣に奉納したのが 「 算額 」 です。
塩田民之丞の算額は現在失われていますが、大正元年 ( 1912年 ) 発行の
「 愛媛教育 」 に、蜜厳島神社に奉納された算額の写しが掲載されていることが
わかりました。 奉納年代は記されていませんが、ぜんこくてきに著名な松山藩の
和算家、大西佐兵衛の門人であることから、文化七年 ( 1810年 ) 前後と推定
されます。
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今、図のように、楕円内の短軸上に、中円3個を描き、その中円1個と楕円周上の
1点 ( 長軸上の先端 ) で接する大円2個を描く。 その交わったところのすき間に
小円4個を入れる。 短軸の長さを2621寸、大円の直径を最大にするとき、小円の
直径はいくらか?
答 小円直径 144.00・・・寸
・・・
愛媛県和算研究会が 「 平成17年度日本数学史学会桑原賞 」 の受賞を祈念して
ここに奉納する。
平成17年12月吉日 愛媛和算研究会
平成17年度伊予銀行地域文化活動女性制度をもとに、株式会社セットアップ製作
( 境内説明文 )
拝殿からの眺め。
最後の津田署:出雲大社松山分祠は、松山城のお堀近くに鎮座されます。
三津厳島神社から南東へ2㎞ほどのところです。
拝殿に向かって右に手水鉢。
御神額は出雲大社第83代千家尊祀宮司の揮毫です。
「 一月一日 」 を作詞された千家尊福 ( せんげたかとみ ) 第80代出雲大社宮司の
御孫さんで、高円宮典子女王殿下と御結婚された千家国麿出雲大社権宮司の祖父でも
あります。
御祭神 大国主命 ( おおくにぬしのみこと )
千家尊福宮司が創設された出雲大社教 ( いずもおおやしろきょう ) の分祠です。
明治九年 出雲大社より御分霊を勧請。
明治十年 開業式を、千家尊福宮司が執行される。
拝殿からの眺め。
長楽寺から出雲大社松山分祠・三津厳島神社のどちらへ行くか迷ったのですが、
移動距離が短くなるように 長楽寺>三津厳島神社>出雲大社松山分祠 としました。
千家尊福宮司と関係の強い出雲大社を最後にしましたので、千家尊福宮司が作詞された
一月一日 ( いちがついちじつ ) を書いておきます。 私はこの歌が大好きです。
年の始めの 例 ( ためし ) とて、
終なき世の めでたさを、
松竹たてて 門ごとに
祝 ( いお ) う今日こそ 楽しけれ。
初日のひかり さしいでて、
四方 ( よも ) に輝く 今朝のそら、
君がみかげに 比 ( たぐ ) えつつ
仰ぎ見るこそ 尊 ( とう ) とけれ。
以上。