阿波史跡公園の入口から100mほど登ると、右に境内社の松熊 ( まつくま ) 神社が
鎮座されます。
 
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創立  年代不詳
 
御祭神 手力男命   ( たぢからおのみこと )
      天宇受女命 ( あめのうずめのみこと )
 
両神とも天照大神に仕えたゆかりの深い神である。
本宮に伝わる御本記によると、当松熊神社は麓の箭執神社を矢の御倉とし、当社を弓の
御倉と号して日霊大 ( ひるめ ) 大神が高天原より天降り座すまで御弓を護り奉ったと
記されている。
                                           ( 境内説明文 )
 
拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。
 
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道をはさんで松熊神社道の反対側の林の中にも、境内社が鎮座されます。
御社名は不明です。
 
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松熊神社から200mほど上に、八倉比売神社は鎮座されます。
 
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左に手水舎。
 
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式内社 天石門別八倉比売神社(大 月次/新甞) 阿波国 名方郡鎮座 
現社名 天石門別八倉比売神社 
旧社格 県社 阿波国一宮 ( 阿波国一宮はいくつも有ります ) 
 
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天石門別八倉比賣神社略記
 
式内正一位 天石門別八倉比賣神宮
 
御祭神 大日霊女命 ( おおひるめむちのみこと、別名天照大神 )
 
御神格 
 
正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和  841  八月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観十三
 871  二二十六日に従四位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦
 1185  三日正一位となる。
 
御神紋 抱き柏 
 
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。
江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。
これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
 
奥の院は海抜一一六米、丘尾切断 (きゅうびせうだん ) 型 の柄鏡 ( えかがみ ) 状に
前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積 ( こぐちずみ )
で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の
生命を象徴する。
 
杉尾山麓の左右に、陪塚 ( ばいちょう ) を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山
 きのべやま、山頂海抜二一二米  一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
 
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の
先導伊魔離神 ( いまりのかみ )、葬儀委員長大地主神 ( おおくにぬしのかみ )
木股神 ( きまたのかみ )、松熊 ( まつくま ) 二神、神衣を縫った広浜神 
( ひろはまのかみ ) が記され、八百萬神のカグラは、「 嘘楽  と表記、葬儀であることを
示している。
 
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示して
いた。
古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「 阿波における天照大神  は、
 水の女神に属する  として、「 もっとも威力ある神霊  を示唆しているが、余りにも
知られていない。
 
当社より下付する神符には、「 火付せ八倉比賣神宮  と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永  1773  の古文書の
 気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ 
の記録から逆算すれば、西暦338年となり、世紀初の古墳発生期にあたる。
 
しかも、伝承した年代が安永年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに
古くさかのぼると考えられる。
 
矢野神山 奉納古歌
 
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも    柿本人麿  萬葉集収録 
 
当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には
出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの  八倉比賣神宮  の遍額が秘蔵され、
さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
 
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ
湾の奥に当社は位置する。 天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣
( つきさのきいつのみたまあまざかるひうらつひめ ) と申し上げるのも決して偶然ではない。
 
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間 ( 1736-41 ) まで
十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
 
当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。
延久  1070  六二十八日の太政官符で、八倉比賣神の 
 祈年月次祭は邦国之大典也  
として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが
感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。
 
                                              ( 境内説明文 )
 
阿波の青石が使われています。
 
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本殿は明神造。
 
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拝殿に向かって右に、境内社の稲荷神社が鎮座されます。
 
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赤いヨダレかけは、狛犬は嬉しかったのだろうなあ。 胸を張って、誇らしげです。
 
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本殿の後方に境内社が鎮座されますが、御社名は不明です。
 
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更に奥に、奥院が鎮座されます。 奥院は阿波の青石で造られた祠です。
 
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稲荷神社からの眺め。
 
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拝殿からの眺め。
 
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以上。