周敷神社は、徳威神社から北西へ500mのところに鎮座されます。
地図で見ると周布小学校の後方に鎮座されるようでしたが、行ってみますと周敷神社の
参道のすぐ右に周布小学校の校舎がありました。
 
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参道の前には、賽の神が鎮座されます。
 
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周敷神社馬場の賽の神
 
馬場の賽の神の御神体は以前はこんもり茂った小さい森であったが、現在はまばらな
木立である。 賽の神は村の入口や峠にあって村に入って来る悪い病気や悪霊を
賽ってくれる日本固有のい民間信仰の神さんである。
 
中国より渡来した道祖神は旅人の安全を守ってくれる民間信仰の神さんで、長い間に
賽の神と道祖神は習合して、村に入ってくる悪い病気を塞いでくれたり村人の旅の
安全を護ってくれる民間信仰の神になった。
 
また村境は人々が集まり市が出来、若い男女の集まる所から縁結びの神ともなり、
子供を護ってくれる神ともなった。
 
周布の賽の神は、ここと吉田論所近の榎木の所と徳威神神西にある。
昔は丹原より周敷神社裏に通じる道の途中のごせの所にあって、賽の神より
幸の木になったと伝えられている。
 
平成二十五年十月吉日
                                              ( 説明文 )
 
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参道に入ると、すぐ右に天満宮が鎮座されます。
 
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右の先に金刀比羅宮が鎮座されます。
 
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金刀比羅宮の本殿は建てられたばかりのようです。
本殿の後方に境内社が鎮座されますが、御社名は不明です。
 
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参道を入ったすぐ左には、周布忠魂社が鎮座されます。
 
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周布地区出身の英霊が祀られています。
 
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英霊和讃
 
帰命頂来 御英霊御在せし其の日の思い出を和讃に綴り 御霊の御心偲び奉る。
 
一 ひとたび生まれし人生を    御国のために捧ぐらん
二 深い御恩の父母の       老い行く姿身にしみる
三 御国の敵を倒さんと       遠い異国の旅の空
四 夜に妻子や父母と        話せし夢見て頬ぬらす
五 何時か帰れる事もやと     戦友と語りて励みあい
六 無理に山川乗り越えて     先を争い進み行く
七 仲よき戦友が目の前に     倒れし姿に身は縮む
八 矢多来に飛ぶ来る敵の弾丸  我また戦友の後を追い
九 此の世の別れ大君に      万歳唱えし軍人は
十 永遠までの国護る        法の御山に鎮まれり
 
    とこしえまでの護り神 護国の宮に鎮まれり
    国護る法の御山の己が子の菩提を念ずる親の心は
    いとほしや法の御山に在し夫 我が子の幸も護り給えよ
    国護る神と鎮まる己が子に会うを楽しむ親心かも
    我が夫は護国の宮に鎮まれる会う我が子の幸を願わん
 
昭和四十年三月終戦二十周年忌作
   六十年一月終戦四十周年
吉田出身 石田 日野藤市 八十九才
                                          ( 境内説明文 )
 
参道を進みます。
 
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参道の左にはプ―ルがありました。
夏になると、小学生が右の校舎から参道を横切って左のプールへ移動するのでしょうね。
 
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西条に鎮座されるお社の狛犬は、ユニークなデザインが多いように思います。
 
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左に手水舎。
 
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城郭のような拝殿は初めてです。
 
式内社 周敷神社 伊予国 桑村郡鎮座 
現社名 周敷神社 
旧社格 県社
 
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周敷神社
 
周布本郷1532番地に鎮座している。 
古代の郡家も周敷駅も、この付近にあったと考えられる。
主祭神は火明命 ( ほのあかりのみこと ) で、配神は大山祇命 ( おおやまつみのみこと )大己貴命 ( おおなむちのみこと )。
 
延喜式神明帳記載の神社で、伊予国二四座の内、桑村軍三座の一社であるが、
当周敷神社の鎮座地は周布郡周布村であって桑村郡でないことから、寛文十年西条初代
松平頼純が入国巡視の際、式内社周敷神社について疑義を生じ、天禄八年と宝永二年
など何度か調査したが確認出来なかった。
 
享保五年、国安村の周敷神社をはじめ、円海寺村蓮宮明神、宮之内村 宮内神社からも
それぞれ式内社周敷神社だとの訴えがあり、なかでも国安村周敷神社とは久しく紛争が
続いたが、結局は中央の神学者、壷井義和の 「 周敷神社鎮座違郡考 」 の説に準拠
して、周布村の周敷神社の勝となり、神祇菅領、吉田家より裁許状を授けられ、享保七年
一応の決着を見た。
 
この周敷神社一帯は湧泉が多く、早くから稲作が行われ、周敷郡の政治産業の中心として
栄えていた。
 
天平宝字八年、多治比連真国ら10人に周敷連の姓を賜り、ついで真国ら21人に
周敷伊佐世利宿祢の姓を賜る。
この一族が先祖の神を氏神として祀ったのが周敷神社である。
 
境内、東西32間、南北37間、馬場の長さ134間、氏子、およそ315戸である。
神主の伊佐芹家は、周敷伊佐世利宿祢につながるものである。
 
天正十三年の兵火で社記・放物など全焼したが、享保七年、西條藩六社の一つに
加えられ、藩主の代参、神田の寄進があった。 旧県社。
萬代講、永代講があったが、中止された。 例祭は十月の十五・十六日である。
社宝には、延喜式弁疑、松平頼安の寄進状、一柳直卿の社号、掛け軸などがある。
 
周布公民館
周布地区生涯学習推進委員会
                                        ( 境内説明文 )
 
拝殿に向かって左に鎮座されるのは、和霊神社です。
右に鎮座される境内社の御社名は不明です。
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本殿は三間社流造。
 
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本殿の後方に境内社、白主神社が鎮座されます。
 
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境内の眺め。
 
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拝殿からの眺め。
 
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以上。