軽之神社は松山城から北2㎞ほどのところに鎮座されます。
国道192号線を進むと 「 自由時間 」 というパチンコ屋があり、その隣に通っている路を
道なりに進むと、案内板にたどり着きます。
 
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軽之神社はため池の土手に鎮座されます。
 
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第19代允恭 ( いんぎょう ) 天皇の第一皇子:木梨軽皇子 ( きなしかるのみこ ) と 
同母妹の軽大郎女 ( かるのおおいらつめのみこ ) が祀られています。
 
允恭天皇は1600年ほど前の天皇ですので、そのころからこの溜池があって、土手に鎮座
されていた、ということはないでしょうから、この近くに鎮座されて溜池が出来た後に土手に
遷座された、ということなのでしょうね。
 
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軽之神社・軽太子の塚。
 
允恭天皇の皇子木梨軽皇子 ( きなしかるのみこ ) と軽大郎女 ( かるのおおいらつめ ) 
の兄妹を祀る。
 
古事記によると、軽太子は同母の妹軽大郎女と許されぬ恋におち、太子は伊予の湯に
流された。  姫は恋しくてたまらず追いかけて来たが、二人はついに 「 自ら共に死に
たまひき 」 とある。 日本書紀では軽大郎女が先に流されたとある。
 
村の人たちは二人の霊を哀れんで神社を建てて、毎年四月二十八日に祭礼を行っている。
軽太子と軽大郎女を祀った比翼 ( ひよく ) 塚 がこの東の山裾にあり、その側に
二人の詠んだ歌を刻んだ歌碑が建てられている。
 
松山市教育委員会
                                           ( 境内説明文 )
 
本殿は一間社流造ですが、改修工事中です。 屋根は瓦葺か銅板葺になるのでしょうが、
まだ葺かれておらず、防水シートが掛けられています。
 
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比翼塚へ行ってみました。
途中、四つ角がありましたが、案内板があったのでたどり着くことができました。
 
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比翼塚は夫婦または愛し合った二人を一所に葬った塚ですが、この比翼塚は親王・内親王
を葬った塚と考えることができないほどに小さいです。 
はばかれるからなのか?もしくは墓ではなく慰霊塔なのではないだろうか?
 
古事記によると、
 
木梨軽皇子は允恭天皇の第一皇子で、天皇が崩御されて即位される前に、五番目の
軽大郎女 ( 衣を通してその美しさが現れたため衣通姫と呼ばれた )との恋に落ちたため、
多くの官民が第三皇子の穴穂御子 ( あなほのみこ ) を天皇に推すようになった。
軽皇子は恐れて、大前小前宿祢 ( おおまえおまえのすくね ) の家に逃げ込み、武器
を揃えた。穴穂御子は軍を揃えて大前小前宿祢の家を包囲した。
大前小前宿祢は軽太子を拘束して朝廷へ引き渡し、軽皇子は伊予に流される。
 
允恭天皇が崩御されてから伊予に流されるまでの間に軽大郎女を想って詠まれた歌が
古事記にはいくつも掲載されています。
そして流された後に詠まれた歌と、そのお返しに軽大郎女が詠まれた歌が、比翼塚に
向かって右に建てられています。
 
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木梨軽の太子の歌日 ( みうた )
 
 天飛ぶ鳥も使 ( つかひ )   ( たづ ) が音 ( ね )  聞えむ時は 我が名問はさね
 
軽の大郎女の歌日 ( みうた )
 
 君が行きけ長くなりぬ 山釿 ( やまたづ ) の迎へ行かむ 待つには待たじ
 
                                                    ( 歌碑 )
軽皇子が
 空を飛ぶ鳥も使いだ。 鶴の声が聞こえる時は私の名を尋ねてください。
 ( 鶴が私の消息を伝えてくれるでしょう )
と歌われ、軽大郎女が
 あなたが旅立って長くなりました。 待たずに迎えに行きます。 もう待てません。
と歌を返されています。
 
軽大郎女は太子を追って伊予へたどり着き、そこでお二人は自害されます。
比翼の前には椿が咲いていました。
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木梨軽皇子の御陵は四国中央市 ( 旧川之江市 )  の三島川之江ICを降りて100mほど
のところにある東宮山 ( とうぐうさん ) 古墳とされ、宮内庁の管轄になっています。
 
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頂上に登ると、左右に社殿が建っておりました。
 
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左の小さな祠は御祭神は不明です。
軽皇子を祀った春宮神社。
 
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私は古墳の構造に関する知識が有りません。
 
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東宮山の由来。
 
木梨軽太子は第19代允恭天皇の第一皇子であらせられ皇位を継承すべきであったが、
群臣が背き御弟の穴穂皇子を擁立せんとした。 そこで太子が挙兵の準備をされたが
事前にあらわれ、伊予の道後へ遷され給う。
 
途中暴風にあい、御船は吹き流されて本町浜田の東宮石に御漂着、浦人等畏み清浄
森厳な当地に宮居を建立し、そこへ太子を遷し奉り、ここに幾年月を過ごされた後
悲運の生涯を閉じられた。 
 
そこで従臣・里人が相寄り東宮山の上に鄭重に葬り、東宮御陵と申し上げ、なおその側に
御霊を奉斎する一社を建立して春宮神社と尊称崇び奉ることにした。
故にここは、我が国歴史古記上特別の由緒ある陵社にして明治28年御陵墓参考地に
指定される。
 
川之江市
                                             ( 境内説明文 )
 
日本書記では、
 
軽皇子は容姿麗しく、軽大郎女は妙艶であった。
軽皇子は軽大郎女を想っていたが我慢をしていた、しかしついに相通じられた。
天皇に知られてしまい、允恭天皇二十四年、軽大郎女は伊予に流された。
允恭四十二年、天皇が崩御され、官民が穴穂皇子に付いたため、軽皇子は大前宿祢
の家に籠り、穴穂皇子を襲うために武器や兵を集めた。穴穂皇子の郡が大前宿祢の
家を包囲した。 大前宿祢が軽皇子を殺さないように嘆願したが、軽皇子は大前宿祢
の家の前で自害された。 一説には伊予へ流されたとも伝う。
 
と書かれてあります。
 
古事記では、允恭天皇が崩御された後に一連の事件が発生し、お二人が伊予で自害
されます。 
日本書記では、允恭天皇二十四年に禁断の愛が知られ軽大郎女が伊予に流され、
その18年後、允恭天皇が崩御された後に軽皇子が自害一説には伊予に流されています。
 
境内の川之江市の説明文では、軽大郎女との禁断の愛には触れておらず、どちらかと
いえば日本書記の「 一説 」 の後日談のような形で 「 流される途中に漂着された 」
という土地の伝承が書かれています。
 
古事記では、軽大郎女が木梨軽皇子を想い詠まれた歌が多く掲載されています。
日本書記が残すように、木梨軽皇子が一方的に軽大郎女を想って行動されたのでないと思います。
同母の美男美女の禁断の恋ではあったけれども、純な愛であった。
 
問題は、どの時期にお二人はお別れになって、どの時期に命を絶たれたのか...
それが記紀及び伊予の伝承では、明記されていません。
だからこそこのお二人の、愛のゆくえに想いを馳せることが出来る、ともいえるのですが。
 
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以上。