中臣牟地神社から喜連瓜破駅を通り過ぎ300mほどの所を北上します。
ここは、さきほどマダムに中臣牟地神社への行き方を教えて戴いた場所よりも、随分
手前の場所、我ながらあきれてしまいます。
 
300mほど北上したところに鎮座されます。
 
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左の手水舎。
 
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拝殿の横に着きましたので、表参道へ廻りました。
 
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左に日露戦役記念碑。
 
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式内社 楯原神社 摂津国 住吉郡鎮座 
現社名 式内楯原神社 
祭神 武甕槌命・大国主命 
社格 村社 
 
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楯原神社
 
当社は社伝では崇神天皇7年の鎮座とされる古社で延喜式内の神社である。
いにしえは、もとの字楯原  現在の喜連西1丁目、近畿電波監理局敷地  にあったが、
兵火に遭って現在の地に遷座し、桓武天皇の時  800  字十五の竜王社を
合祀し、境内別院として奥の宮と称した。
 
さらに、元和元年 ( 1620 ) 付近の天神社を合祀し天神社と称するようになり、
楯原の社名は別院の奥宮に移った。
 
現在の奥の宮には十種神宝宮を摂社として遷座、日本最初の神宝で、十種の祓は
大正三年内務省選定
このため明治5年、式内の楯原神社は社格を得ず、併社の天神社が村社となる状況
であったが明治40年、神社整理を機に現在の社名に改められた。
 
当社には万葉集にも詠われている息長家の碑が祀られている。
                              ( 境内説明文 )
 
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本殿の左後方に、神宝十種之宮。
 
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神宝十種宮略記
 
配祀神 
 
布留御魂大神 ( ふるのみたまのおおかみ、十種神宝:とくさのかみたから ) は
天璽瑞宝十種 ( あまつしるしみづのかんだからとくさ ) に籠る霊妙 ( くしび ) なる
御霊威 ( みたま ) れます。
 
瑞宝十種は、謂ゆる沖津鏡 ( おきつかがみ ) 一つ、辺都鏡 ( へつかがみ ) 一つ、
八握生剱 ( やつかのつるぎ ) 一つ、生玉 ( いくたま ) 一つ、
死反玉 ( まかるかへしのたま ) 一つ、道反玉 ( みちかへしのたま ) 一つ、
蛇比礼 ( おろちのひれ ) 一つ、蜂比礼 ( はちのひれ ) 一つ、
品物比礼 ( くさぐさのもののひれ ) 一つにして神代の昔、饒速日命が天降り給う時、
天つ神の詔をもって
「 若し痛む処あらば、この十種神宝をして甲乙丙丁戌己庚辛壬癸一二三四五六七八九十
 ( きのえさかとひのえにのとつちのえつちかどかのえかのとみづのえみづのと
ひふみよいもなやくとち ) と謂いて布留部由良止布瑠部 ( ふるべゆらゆらとふるべ )
 かくなさば、死人 ( まかれるひと ) も生き反えらん」
と教え諭して授け給いし霊威 ( みいづ ) 高き神宝 ( かんだから ) なり。
 
其の御子、宇摩志摩治命 ( うましまじのみこと ) は神宝を天皇に奉り、
韴霊 ( ふつのみたま ) の御前に蔵めて、永く宮中に奉斎せられたが、崇神天皇の
御代に韴霊と共に石神布留の高庭に鎮り給うた。
 
付記
 
十種瑞津の宝の当地に鎮座ましますに至る由来は、其の昔永禄年間室町幕府の
末期、足利義昭が織田信長に奉ぜられて入京、そして永禄11年10月18日
征夷大将軍に任ぜられ室町幕府第15代将軍となった。
然れどもすぐにその権力はなく信長の力にたよらねば何事も出来なかった。
 
しかし、義昭は将軍となるや大和の法隆寺、石神神宮、山城の大徳寺、
紀州の根来寺、摂州の本願寺など畿内の主な社寺や有力な大名に呼びかけて
味方につけようとした為に、当然信長と衝突した。
 
かくするうちに天正元年義昭は公然と武田、浅井、朝倉、本願寺などと手を組み
信長討伐にのりだした。 しかし信長はたちまち反撃に出てそれをおさえた。
それ時、天正元年8月石上神宮も織田の武将達の焼打にあひ、財宝はうばわれ
十種瑞津神宝は持ち去られた。
 
その後、天正10年信長は、本能寺に明智光秀に討れ、光秀又、豊臣秀吉の為、
山崎合戦に破れ天正13年秀吉天下を取るに至る。
石上神宮の神宝、十種瑞津の神宝は心ある士に守られて保護されていた。
 
秀吉その士に十種瑞津神宝の話を聞き、餘りの有難さと現実の因果におどろき、
十種瑞津の神宝を生魂の森深く永久に鎮まりませと納め奉った。
 
時は流れ徳川幕府も終わりの討幕運動が大詰にはいった慶應3年8月下旬、
名古屋地方に伊勢神宮のお札が降ったとのうわさをきっかけに、老若男女が
気違いのように踊り狂い、乱舞は日に夜につづき、はじめは京都、大阪、大津など、
近畿地方に行なわれ、次第に日本全国に及んだ。
鳴物入りで 「 ええじゃないか 」 のはやしをつけた卑俗な唄をうたいながら踊り歩いた。
 
これはかつての 「 おかげまいり 」 にみられた宗教的興奮が、倒幕直前の政情不安に
乗じて形をかえた。 「 世なほし 」 騒動の要素も交っており、気にくわぬ地主や富豪の
家に踊り込み暴れ廻った。 そして暴徒は社寺佛閣にまで押しかけて荒れ狂ひ、生魂の
宮もおそれて暴徒のほしいままにされた。
 
其の時に、神宝瑞津の宝は、二度目の難を受け暴徒に持ち去られて、生魂の森より
お姿が消えた。 其の後、神宝は町の古道具やの店頭にさらされていたのを喜連に住む
小林某なる人により発見され、買いもとめてこれを家にて祭れり。
 
後小林氏当地を去るにあたり浅井氏に預け、浅井氏又、この地の旧家増池氏に
預けられしが、増池氏敬崇の志厚く永代御灯明料共に神宝を式内楯原神社に奉納と
社殿を建立し斎き祭るに至れり。
 
後に室戸台風にあひ、社殿はたおれ長らく拝殿に祭り居りしも、今里の庄司善雄氏
( 石上神宮守護職の子孫 ) が尋ね来り神宝を石上神宮にかえしてくれる様頼まれしも
この尊き神宝をかえさづにあたらしい社殿を建立してこれを末永く斎き祭るに至れり。
河内国河上の哮峯に天降座りしより幾千年、神宝はよき地を得て鎮まる処を得るなり。
 
「 之文歴史参照 庄司氏談話より 」
                               (境内説明文 )
 
 
簡単に書けば 
「 布留御魂大神が宿られる天璽瑞宝十種は、こちらのお社に祀られる。」 
と書かれてあります。
80年前の室戸台風 ( 昭和9年、1934年 ) のときに石上神宮の守護職 ( 神職 ?) の
子孫が返して欲しいと頼みに来られているのです。 
 
石上神宮には、
  布都御魂大神 ( ふつのみたまのおおかみ ) 
          ・・・ 布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神。
  布留御魂大神 ( ふるのみたまのおおかみ ) 
          ・・・ 十種神宝に宿る神。
布都斯魂大神 ( ふつしみたまのおおかみ )
        ・・・ 天羽々斬剣 ( あめのはばきりのつるぎ ) に宿る神。
が祀られておりますが、十種神宝がこちらに祀られているとすると、石上神宮に祀られる
布留御魂大神は御分霊ということなのでしょうか?
 
それにしても、十種神宝が祀られるお社とは。 驚きです。
 
本殿の右には境内社が鎮座されます。
 
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稲荷社。
 
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御社名は不明。
 
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拝殿からの眺め。
 
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小さく写ている親子は、私は参拝している間ずっとスマホをいじってました。
ポケモンやっているのでしょう。
 
以上。