前回参拝致しました城山神社で、讃岐の国造となられた神櫛の伝説を知りました。
それが、以前パンフレットを入手した讃留霊王 ( さるれお ) 伝説 ( 武殻王の伝説 )
とほぼ同じ内容であったことに驚きました。
 
讃留霊王伝説のパンフレットには、讃留霊王神社の紹介がありました。
飯神社 ( 讃岐富士麓鎮座 ) の近くでありました。
 
向うにみえるのが讃岐富士です。
 
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パンフレットによれば、讃留霊王神社は讃留霊王の古墳の上に鎮座されという
ことでしたので、離れて眺めてみました。
 
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杜全体が、前方後円墳のような形に見えます。
撮影した鳥居と社殿は、向かって左の後円部のようなところにあります。
前方部にも鳥居が見えましたので、行ってみることにしました。
 
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ここに讃留霊王神社御旅所由緒之碑が建っておりました。
 
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讃留霊王神社御旅所由緒之碑。
 
此の丘、神武帝十二代景行天皇孫日本武尊●母吉備武彦女吉備穴戸武媛とする
武殻王の御墳墓地と伝う。
 
桓武天皇御代延暦十三年春正月、創一宇玉井の里法勲寺を、僧空海、讃留霊王の
御墳地側に移すと伝う。 現法勲寺周辺は王居館の跡也。また古代法訓寺遺跡也と。
 
神社氏子は、明治初期まで香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、
また春の初鯛の献上を恒例としていたと伝えり。
 
御旅所、昔は社の東方逆川の東側に存し、明治初年、吉馴孫平寄付により此の地に
遷すと伝う。また此の地は下法あるが、元は上法の所轄地で、文久年間の巡道帳
また明治六年台帳に記録が見える。
 
思考するに王の墳墓を尊敬して上法の飛地としたのであろう。 御神輿置台は五重塔
配した伽藍の法勲寺の礎石を使用している。
明治中期に氏子有志にて寺跡より搬入、と故老曰く。
桜苗木昭和61年春3月、下法西獅子組合連中植樹する。
 
奉納 下法西獅子組合連中一同  昭和61年10月吉日
                              ( 参道石碑 )
 
吉備穴戸武媛 ( きびのあなとたけひめ ) は、高梁市と真備町に鎮座される2つの
穴戸山神社に祀られています。 私は2つとも参拝していますが、このBlog には
高梁市の穴戸山神社だけを掲載しています。
2つとも式内社 ( 論社 ) で、元伊勢の名方浜宮 ( 論社 ) でした。
 
高梁市 穴戸山神社 
 
吉備穴戸武媛は、その名前の通り穴戸山神社の近くで生活されていたのだろうと
思います。 
高梁市に鎮座される穴戸山神社には洞窟がありましたが、真備町に
鎮座される穴戸山神社の付近には洞窟はありませんでした。
 
根拠はないのですが、山奥の谷底に鎮座される高梁市の穴戸山神社から御神霊を
勧請して里宮として建てられたのが、真備町の穴戸山神社ではないか、などと想像
しています。
 
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本殿は、後円部の中心の少し手前に建てられています。 
後円部の中心には、石垣が組まれています。
 
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後円部には、縄が張られておりますので、なるべく近くへ行ってみることにしました。
 
古墳の説明板。
 
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地神。
 
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矢塚伝説の立て札があった祠。
 
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晩年、見える場所に住むことがいやになった讃留霊王は、城山から矢を放って、
海の見えない場所に館を建てることにした。矢が突きたった場所からは少し海が
見えたで、もう一度矢を放った。 その矢は、古代寺院法勲寺に届き
に突き刺さった。そのは矢塚と呼ばれた。
                       ( 讃留霊王パンフレット 抜粋 )
 
小さな前方後円墳があります。
 
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説明板にあった、讃留霊王の古墳の1/10です。
説明板には 「 元宮 」 と書かれてありましたので、元々はここに御魂を祀っていた
ということだと思うのですが、灯篭には 「 讃王大明王妃霊地 」 と書かれてありました。
 
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よくわかりません。 今は妃が祀られていることは確かなようです。
 
本殿の背面には扉が付いており、扉は後円部の石垣に向かって開けるようになって
います。
 
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地主神の横に、讃留霊王神社由緒の石碑が建てられています。
 
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讃留霊王神社由緒。
 
この丘は讃岐の代表的伝説の1つである悪魚退治のヒロイン武殻  たけかいこ )王
墳墓の地であり、王を祀る讃留霊王神社の鎮まります丘である。 
今概要をのべよう。 
 
昔景行天皇の御代南海に悪魚現れ船をのみ南海諸国の年貢を略奪するなど、
暴虐の限りなく官兵を派すも悉く亡ぼされた。 天皇は、皇子日本武尊に討伐を命ず。
尊は、その子十五歳の勇士霊子を推す。
霊子を奉し南海に赴き謀を秘めて悪魚に対
 
悪魚その軍船を一呑にするも動せず火をもて腹の中を焼き、肉を割き、悪魚の屍に
またがり福江の浦に漂着す。
時に一童子現れその捧る霊水により毒気に倒れた軍兵皆蘇生す。
 
この伝説を史家曰く、日本武尊内海の賊を平け、その功を子に譲りたりしと。 
 
天平年中、行基法師は、魚霊堂を福江の浦に王居館の地玉井の里に法勳寺を建立し、
悪魚の霊を追福した。 
霊子長して武殻王は、この功によりこの国を賜り民に養蚕の術を教え給いし
仲哀天皇の入年915齢百二十五歳て薨せられ居館を望む景勝のこの丘に葬り
奉る
 
南海の民廟を立て永く讃岐に留り給いしを祝き讃留霊王大明神と称え奉る。
王の子孫は祖先の業養蚕並に綾織をひろめ、年毎の調貢に綾公の姓を賜り永くこの
地方に栄えた。 当地 綾野氏もその後裔と伝えられる。
 
弘法大師は魚霊堂を奉勳寺に遷し王の墳墓の上に薬師如来などの仏像などを納め
荘厳なる供養を行う。
社伝によると桓武天皇の御代神霊此の山に現れ給い神託により和気氏王の
墓前に社伝を造営すと伝う。
 
                                ( 境内説明文 )
 
皇子なのにヒロインと書かれています。 これには笑ってしまいました。
こちらのお社では、武王が悪魚を退治したことにより讃岐国を治めるようになった
と伝わっています。 神櫛王ではありません。
 
記紀などの記述を簡単にまとめてみました。
 
古事記
大吉備建比売からまれた建貝児王  たけかいこのみこ  は、讃岐の綾君
( あやのきみ )、伊勢之 ( いせのわけ )、登袁之別  とおのわけ )、
麻佐首  まさのおびと )、宮首之別  みやじのわけ  らの祖である。
 
日本書紀
日本武尊は、吉備穴戸武媛との間に、二人の王子を生んだ。
武卵王 ( たけかいこおう ) と十城別王 ( とおきわけおう ) である。
武卵王は、讃岐の国造になり、綾の大領の祖である
 
先代旧事本紀の国造本紀
景行天皇の子の神櫛王の三世孫須売保礼命 ( すめほれのみこと ) が初代讃岐
国造になった。 
 
神社の社伝の主人公、
 
神櫛王 ・・・ 城山神社、大麻神社、櫛梨神社、 先代旧事本紀
武殻王 ・・・ 宇閇神社、讃留霊王神社、    古事記、日本書紀
 
神櫛皇子の墓は、宮内庁により香川県高松市牟礼町牟礼の神櫛王墓とされます。
しかし、大麻神社/櫛梨神社の社伝では、櫛梨山にありました。
武殻王の墳墓は、讃留霊王神社の前方後円墳なのでしょう。
 
神櫛王・武殻王ともに、讃岐にとても強い関係があることはわかりました。
2つの伝承が、讃岐の海賊を退治した一つのお話しであろうことも容易に
推測できます。
 
四国には、日本武尊の戦いの伝説が全くといっていいほどありません。
これからあちらこちらの神社を参拝して確かめなければならないのですが、
有るのは讃岐国の白鳥伝説くらいではないでしょうか?
 
讃留霊王神社に建てられていた 「 讃留霊王神社由緒 」 には
史家曰く 「 日本武尊内海の賊を平け、その功を子に譲りたりしと。 
と書かれてありました。
 
武殻王は日本武尊の皇子、神櫛王は日本武尊の異母兄弟です。
日本武尊に武殻王や神櫛王が従い、日本武尊があるときは武殻王を名乗り、
ある時は神櫛王を名乗ったとしたら、などと想像します。
 
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以上。