宇閇神社から、満濃池畔に鎮座される神野神社へ向かいます。
宇閇神社の前にある国道438号線を道なりに進むと、満濃池に到着します。
途中で、国道438号線と県道197号線に分かれて、県道197号線を走っていくのですが
「 道なり 」 に行けば県道197号線を走るようになります。 おかしいですね。
 
ほぼ中間地点の土器川を渡る満濃大橋からも、讃岐富士を眺めることが出来ます。
 
イメージ 1
 
イメージ 3    イメージ 2
 
10㎞ほどの距離があります。 それほど坂にならずにここまで来ています。
 
イメージ 4
 
 満濃池周辺の案内図があり、ここから多少の上り坂となって、500mほど進むと満濃池に
到着します。
 
イメージ 5
 
左に進めば神野神社、右に進めば別格札所十七番神野寺 ( かんのじ ) です。
以前、遍路に出たとき、第七十五番善通寺を参拝した後に神野寺を参拝しました。
善通寺から10㎞ほどあるのですが、「 往復で、たったの20㎞。」 という感覚でした。
お遍路は、通常とは異なった世界です。
 
すぐ左に、神野神社の御旅所があります。
 
イメージ 6
 
神野神社は、御旅所から100mほどのところに鎮座されます。
途中で、満濃池の説明板がありました。
 
---
 
満濃池略史
 
昔この地方は、
 晴天5日を経れば水湿の潤い無く 霖雨2日に及べば洪水の難有り
と記されているように水利に乏しいところであった。 
農民は灌漑用溜池を渇望・歎願しつづけそれが実現されたのが満濃池である。
阿讃の四季を写す水鏡は風光明媚、貯水量、伝説など名実ともに日本一と称されている。
 
この池の創築は大宝年中 ( 701~704年  に国、道守朝臣 ( みちのもりあそん ) 
築いたとされている。
その池名の由来は大同4  809年  頃まで当地を神野郷と呼んでいたのを
眞野郷 ( まのごう ) と改めたので 、 眞野  あるいは  十千 ( といち )  の池と
呼ばれたと言われている。
 
満濃池は嵩上げ ( かさあげ、堤上げ  樋替え、復旧の歴史である。有名な工事は
弘仁9 ( 818年  の洪水、翌年の大旱魃により農民の困窮は極限に達した。
 
の奏上により弘仁11 ( 820年  路真人浜継 ( みちのまひと はまつぐ ) 
下国し復旧に着手した。 しかし九十九谷の雨水との戦いは工事の成功が危ぶまれた。
そこで浜継は、国、清原夏野 ( きよはら なつの ) と計り、池は大きく民は少なく
修築の困難を再奏上し空海の差遣を懇請した。
 
嵯峨天皇の弘仁12 ( 821年  527勅許により名僧弘法大師 ( 空海48  
が築池別当として、沙弥、童子を従えて、豪族矢原正久 ( やばら まさひさ ) 邸に止錫
した。 ( この時唐から持ち帰った花梨を植樹したと伝えられている。)
 
空海は池畔の護摩壇上で秘法を修し加護を祈りつつ弓状堤防などの指示と説法を
された。人々の空海の特を慕い嬉々として集まり僅か三ヶ月でみごと難工事を仕上げた。
 
30余年を経て、仁寿元年 ( 851年  の秋、堤防が決壊し、国、弘宗王により数千の
夫役を発し、堤高を8  23.0m  とした。 その後何回かの修復をしながら元暦元年
 1184年  の修築を期に戦国時代となり以後450余年修復する人もなく、池の中に
池内村ができていた。
 
寛永2 ( 1625年  に藩主生駒正俊 ( まさとし ) が家臣西島八兵衛之尤 ( ゆきとも )
に復旧を命じ、豪族矢原正直と計り昔日の面影を見るようになった。
満濃池の名は江戸中期より遣われるようになる。
 
以来、樋替工事24 ( 御用普請8、国普請8、自普請)安政元年 ( 1854年 ) 
大地震に堤防が決壊し、明治2 ( 1869年  高松藩執政松崎渋右衛門の発議により
揺替え ( ゆるかえ ) ごとの労役軽減や底樋の恒久化のため、豪農長谷川佐太郎などの
協力により寒川郡田村軒原正蔵 ( のきばらしょうぞう ) に命じ石穴三十間五尺三寸
( 56.2  を穿鑿 ( せんさく ) した。 ( 国の登録有形文化財 
 
翌年6堤長四十五間半 ( 88.7m  堤高十三間 ( 23.6m  の完成を見た。
竪樋、櫓は大正3 ( 1914年  に排水塔に改築された。
 
その後の嵩上げは明治38年に0.87m、昭和2年に1.5m、第三次は県営満濃用水改良
事業として昭和15年より開始したが戦争のため休止の憂目を見た。
水没する五毛地区33戸の立退きなどの協力により昭和34  1959年  3月に
6.0m、大望の竣工となり現況は次のとおりとなった。
 
  堤高     32.34m       貯水量  1540万
  有効水深   21.14m       灌漑面積 約4600ヘクタール
  満水面周囲  20km       総工費  543,327千円
  水面積    138.5ヘクタール
 
平成13年1月16日    満濃町
                                ( 池畔説明文 )
 
四国のあちらこちらに 「 弘法大師が杖で3回土地を突くと出来た。」 というため池が
あります。 満濃池は、その元祖のため池、とばかり思っておりました。
満濃池は、弘法大師が御活躍される100年以上も前に作られています。
 
また、貯水および洪水防止の目的で作られていますので、単なるため池ではなく、今でいう
遊水地・ダムのようなものですね。 
 
池の名前は満濃池、地名は 「 まんのう町 」、説明文では満濃町になっています。
平成の大合併で、満濃町と周辺が合併し、まんのう町になっています。
 
イメージ 7
 
イメージ 8    イメージ 9
 
イメージ 10
 
拝殿に向かって右に手水舎。
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 13
 
式内社 神野神社 ( 論社 ) 讃岐国 那珂郡鎮座 
現社名 神野神 
旧社格 -
 
---
 
神野神社と鳥居。
 
神野神社は、満濃池の守護神として奉斎され延喜式内讃岐二十四社の一つに
かぞえられた古社である。
祭神は、天穂日命 ( あめのほひのみこと ) 水波能売命 ( みずはのめのみこと ) 
四柱がある。
 
正治元年 ( 1199年 ) 212日、矢原庄司義宗によって再建以来、寛永5 ( 1628年 )
萬治2 ( 1659年 )、宝暦4 ( 1754年 )、文化元年 ( 1804年 )、文政3 (1820年 )
明治3 ( 1870年 )、等の池普請の度毎に社殿の造営が行われ、昭和28 ( 1553年 )
の満濃池拡大工事によって現在地に遷座したものである。 
 
社前の石造鳥居は、文明2 ( 1470年 ) の建造で、本町内最古の鳥居である。
 
昭和50年10月  まんのう町教育委員会   ( 註 ) 所在地 大字神野
 
                                ( 境内説明文 )
 
拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。御社名は不明です。
 
イメージ 14
 
イメージ 15
 
境内からの眺め。
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
 
以上。