日尾八幡神社は、桑原八幡神社の南2㎞ほどの所に鎮座されます。
 
49番 西林寺
  |  日尾八幡神社
|  桑原八幡神社
50番 繁多寺
51番 石手寺
|  伊佐爾波神社
|  還熊八幡神社
52番 大山寺
 
今回は、遍路道を逆方向に走って、4つのお社を参拝しています。
 
日尾八幡神社から還熊八幡神社へいく遍路道は、讃岐街道と呼ばれています。
還熊八幡神社の参道で国道196号線につながり、196号線は西条市まで、
ぐるっと高縄半島の海沿いを通っていきます。 国道196号線も、讃岐街道でした。
 
繁多寺へ向かう遍路道。
 
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日尾八幡神社。
 
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御神門。
 
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御神門の左に、忠魂碑と生目神社 ( いきめじんじゃ ) が鎮座されます。
 
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生目神社 
  御祭神:品陀和気命 ( ほむだわけのみこと、応神天皇 )
      藤原景道命 ( ふじわらのかげみち、源義家の家人、加藤氏の祖 )
  宮崎市の生目神社からの勧請。
 
忠魂碑と生目神社の間で、狛犬が何やら話し中です。
 
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石段には行列が出来ていましたが、伊佐爾波神社の1/4~1/5程度です。
八社最後のお社ですので、並んで参拝することにします。
 
石段を少し登ったところに手水舎。
 
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振り返ると、御神門の上には像が立っておりました。
 
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石段の左右には、境内社が鎮座されます。
 
奈良原神社。                      杉谷金比羅大権現。
 
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杉谷金比羅大権現は、天明 ( 1779年 ) 、旧杉谷町に建立され以来、土地の人々は
厚く信仰した。 昭和20年、大東亜戦争の空襲のため焼失し現在に至り、之を建立す。
 
白石貞一  昭和50年4月吉日
                               ( 境内説明文 )
 
それほど待たないで、拝殿に到着しました。
 
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御祭神
 
西玉殿     品陀和気命   ( ほむだわけのみこと、     応神天皇 )
        帯仲日小命   ( たらしなかつひこのみこと、仲哀天皇 )
 
中玉殿     多紀理昆売命 ( たぎりひめのみこと )
          狭依昆売命   ( さよりひめのみこと )
          多紀都昆売命 ( たぎつひめのみこと )
 
東玉殿     大帯姫命   ( おおたらしひめのみこと、  神功皇后 )
 
西玉殿側玉殿  健内宿祢命  ( たけのうちのすくねのみこと )
 
中玉殿     伊予比売神    ( いよひめのみこと )
        饒速日命   ( にぎはやひのみこと )
 
東玉殿側玉殿 猿田彦命      ( さるたひこのみこと )
 
当社は、今を去ること凡そ千二百余年前、天平勝宝  752  に宇佐より
勧請し久米八幡宮とし奉る。
 
人皇第46代孝謙天皇(746-58)の勅願所であって、社伝に、天皇は当国の僧
瑟明に勅して社廟を修造せしめられ、天平神護元年(765 )に工を起し
年に完成し、大神朝臣久米麿  三輪田の祖 )及び高市古麿  武智の祖 
を斎主とせられしとある。
 
その後、称徳天皇の神護景雲3年 ( 766 ) 2月には、勅使をもって神衣を奉納
せしめられ、又、光仁天皇宝亀7年 ( 776 ) 8月及び同9 ( 778  3月の
両度幣帛を奉らしめ給うなど、皇室の御崇信のきわめて厚かったことがうかがわれる。
 
中玉殿に奉斎する伊予比売命は、往古伊予比古命と申す神とともに、伊予国の地神
として、又、部族久米部神戸郷古矢野神山 ( 今の小野村大字小屋峠 ) に奉祀
されてあったが、 ( この二柱の神は御夫婦の神なりという )  中古洪水あり、
社殿崩壊流失のことがあって、神霊を同村平井谷明神ヶ鼻に遷座し奉ったが、
その後 ( 延喜十七年 ( 917年 ) とも云う )  再び出水のため、両御神体とともに
漂流し、伊予比売命の御神霊は、日瀬里 ( 今の久米字窪田 ) 龍神淵にて
引きあげ奉り、これを久米八幡宮に合祀するに至ったものである。
 
当八幡宮は、その後、文治年中  11851189  右大将源頼朝によって再興せられ、
更に承久の頃  12191224  河野通信により社殿の改築がなされたが、
応永年中  13941427  炎上して建造物はもとより社宝旧記の類悉く烏有に
帰したことは惜しみてもなおあまりあることである。
 
更に永享年中  14291440 河野氏によって再び社殿が修復されたが、
天正十三  1585  河野氏滅亡に伴い当社も一時大いに荒廃した。
 
しかしながら、慶長  1603  加藤嘉明公勝山に御引き移りの節、新たに
築かれた城の固めとして城山の四方にあたる近郷の八幡宮八社を選び定められ、
各社に武運長久を祈願せられて以来、世にこれを八社八幡と称するようになった。
 
而して当社もその中の一社に数えられ歴代藩主をはじめ、広く世の人々の益々厚く
崇敬するところとなった。殊に久松定行公以来治封二百有余年にわたる松山藩歴代の
藩主がいかに当社を深く崇敬せられたかうかがわれる
 
当社往古は久米八幡宮と号し、中古は日王八幡宮といい、後に日尾八幡宮と改称した。
 
                                ( 境内説明文 )
 
松山の南部に鎮座される椿神社には、伊予豆比古命 ( いよつひこのみこと ) と
伊予豆比売命 ( いよつひめのみこと ) という御夫婦神が祀られています。
中玉殿の御祭神:伊予比売神 ( いよひめのみこと ) と同じ神といわれています。
 
 高市古麿武智の祖 」 と書かれてありました。
越智氏の一族が新居浜市の高市郷に移り住んで高市の名乗ったのですが、中予
( 愛媛県中央部 ) に多い「 武智 」 という苗字は 「 高市 」 が転訛したものなのですね。
ちなみに、「 高市 」 という苗字も、中予には多く、友人や先輩・後輩など周囲に居ます。
 
八社の多くが、拝殿の横にお神酒をいただける場所があり、 「 御自由にどうぞ 」 と
書かれてありました。 参拝を終えた方々が 「 うまい、うまい。」 と何杯も戴いている
姿を横目にしながら、
「 直会 ( なおらい ) じゃなくて、宴会になってるじゃないか。」
と心の中でつぶやきつつ、この後の参拝の為に我慢しておりました。
 
八社を廻り終えましたので、御神酒を戴く事にしました。
拝殿の横に座ってらっしゃる巫女さんに御神酒をお願いすると、杯に少しだけついで
くださいました。 
 
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拝殿に向かって右に、境内社が鎮座されます。
 
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手前は天満神社、奥は東道後神社です。
 
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御祭神 天御中主大神   ( あめのみなかぬしのおおかみ )
    天照皇大神  ( あまてらすおおみかみ )
    月夜見大神  ( つきよみのおおかみ )
合祀  後藤信正翁    ( ごとうのぶまさおう )
 
御祭神三柱の大神の御神徳を日・月・星の三光になぞらえ、御社号を三光神社と申し上げ、
古きより脳の守護神とし、殊に神経痛や中風除の神として崇敬されております。
 
このたび、神社の改築を期に、併せて日尾神社氏子内の温泉守護神としてお祭りし、
社号を東道後神社と御改称申し上げ、氏子一同並びに広く御信仰者の一層の御崇敬を
深め、永く三柱の崇高なる御神徳をお称えするものです。
 
昭和四十九年三月吉日 
                            ( 境内説明文 )
 
この付近は温泉や湧水がいくつか有ります。
 
帰ろうとしたら、本殿のすぐ右にお社が鎮座されていることに気付きました。
 
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 天照皇大神。
 
本殿の左にも、お社が鎮座されるはずですので廻りますと、春日大社が鎮座されて
いました。
 
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八社八幡の御由緒を読んでおりますと、六番 朝日八幡神社・八番 勝山八幡神社は
加藤嘉明公が定めたことになっており、その他六社は源頼義の命により河野親経
が定めたことになっています。 
元の松山八社八幡を加藤嘉明公が再編したということはわかりました。
 
お正月、土手に菜の花が咲いていました。
 
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以上。