伊佐爾波神社は、51番石手寺から52番大山寺へ向かう遍路道の途中に鎮座されます。
遍路道を逆にたどっていきます。
 
湯月城 ( ゆつきじょう ) があったところは、私が子供のころは、ここは道後動物園でした。
動物園が伊予市砥部町に移って、湯月公園になりました。
湯月公園の木々には、大きな花が咲いていましたので行ってみました。
 
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道路から眺めると花のように見えましたが、ナイロンのあかすりみたいなものを袋に詰めて
絵を描いて、木々にかけていました。
 
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湯築公園のすぐ隣が、伊佐爾波神社の参道です。
 
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高級旅館ふなや。
 
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御皇室の方々が松山に来られると、泊まられる旅館です。
御皇室の方々が道後に泊まられるのは、古代から同じです。
私が子供の頃は、純日本建築の落ち着いた旅館でしたが、いつの間にかビルディングに
なっております。
 
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長蛇の列で、参拝をあきらめました。
二日には伊予を離れなければならないので、参拝の列に入ると日が暮れてしまいます。
伊佐爾波神社は何度も参拝してきています。石段の麓からの遥拝で終わらせました。
 
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延喜式内社で、祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、三柱姫大神である。
社伝によれば、仲哀天皇神功皇后が道後温泉に来したの行在所跡に建てられた
神社で、湯月八幡とも呼ばれたという。
 
伊佐爾波という社名の起源は諸説あるが、古事記に
建内宿祢大臣 ( たけのうちのすくねのおおみ ) 沙庭 ( さにわ ) に居て、
神の命 ( みこと ) を請ひまつりき。是に大后、帰神 ( かむがかり ) して・・・
 
日本書記に
建内宿祢大臣に命 ( おは ) せて琴撫かしめ ( なでかしめ )、
中臣烏賊津使主 ( なかとみのいかつのおみ ) を喚して ( めして )
審神者 ( さには ) と為す。
 
とあり、これに神聖、清浄なという意味の 「 斎 ( い ) 」 が付いたもので、神功皇后に
関わる名称ともされる。
 
当神社は、河野氏が湯築城築城の鎮守として、今の地に移したといわれ、その後
加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の
祈願社となったという
 
現在の社殿は、松山藩松平第三代藩主定長、将軍から命じられた流鏑馬を成功
させたお礼として建立したもので、その様式は、大分の宇佐神宮、京都の石清水八幡と
並んで日本を代表する八幡造といわれる。
 
松山市教育委員会
                                        ( 参道説明文 )
 
伊佐爾波神社の前の道は遍路道になっており、52番大山寺に向かって行くと、左に
折れます。 すると道後温泉本館が現れてきます。
 
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「 千と千尋の神隠し 」 油屋のモデルの一つと言われています。
 
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上から眺めてみようと、湯神社の境内に上がりました。
 
湯神社の本殿後方に忠魂碑。
 
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境内から眺めた道後温泉本館。
 
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以上。