JR伊予北条駅。
 
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かつては北条市でしたが、平成の大合併によって松山市に吸収されました。
 
松山市から瀬戸内海沿いに今治へ行くと、いつまで経っても今治市になりません。
松山市はどれだけ広いんだ?などと頭をかしげた頃、突然に今治市になります。
ああ、北条市は松山市の一部になったんだ、と実感します。
 
駅から2㎞ほど住宅街を歩いたところに、国津比古命神社・櫛玉比売命神社が鎮座
されます。
 
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横に広がる低い山です。
 

向かって左に国津比古命神社が鎮座されます。 右に櫛玉比売命神社が鎮座されます。

 
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二つの山が並んでいるのではなく、一つの細長くて低い山です。
 
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左に手水舎。
 
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手水舎の後方に、巨大な忠霊塔が建てられています。
 
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この石段で、秋の大祭において、神輿が大破するまで上段から何度も放り投げます。
奇祭として、テレビで何度か紹介されております。
境内には、神輿を放り投げる写真が掲げられています。
 
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神輿を壊す。神と人が一体となる。 ずいぶん荒っぽい神事である。
 
  静なる祭り 祈り 一願成就
  動なる祭り 解斎 神輿落とし
 
本来、祭りに使う道具は一度しか使いません。祭りが終わり、元の生活に戻る。
来年、新しい神輿を造るため、祭のしめくくりとして神輿を壊します。
 
御札を受け、神社に納める。 祭りは春祭に始り、新嘗祭に向かって進みます。
春に田植えをし、秋に収穫する。収穫と再生産の準備。 1年サイクルの行事。
 
三重県 伊勢神宮の式年遷宮。これは20年に一度の神嘗祭。
社殿・神宝を新しく造り替え、技術と伝統を伝えます。
 
天皇陛下が御即位されて初めて迎える新嘗祭、それが大嘗祭。
御一代に一度行われ、日本の精神がよみがえります。
大嘗祭が終われば、大嘗宮も取り壊されます。
 
神輿落としの神事は、日本文化の根幹にまで及びます。
神輿には、饒速日命を中心とした神々をお祀りしています。
 
神輿を壊すということは、
「 古代の歴史を、人としての生き方を、世の中の仕組みを見直し聞き直す。」
という先人からのメッセージ・暗号かもしれません。
 
                                           ( 境内説明文 )
 
石段を登り切ると、左に国津比古命神社、右に櫛玉比売命神社が鎮座されます。
 
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まずは国津比古命神社に向かいます。
 
楼門。
 
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愛媛県指定有形文化財 ( 昭和261127日 指定 )
 
国津比古命神社楼門。
 
この八脚門は、慶安二年 ( 1649 ) に市内の阿沼美 (あぬみ ) 神社に建立された
ものを元禄年間 ( 16881703 ) に、この地に移したものと伝えられるが、建立年に
ついては慶長十年 ( 1605 ) に初代松山城主加藤嘉明が建立したという説もある。
 
建築様式は、単層、入母屋造、本瓦葺、柱は円柱で、一部唐様を取り入れた和様建築
である。 入口の虹梁やその他の部分に後代の補修や改造の跡があるが、虹梁の
構造や蟇股などの彫刻に創建当初の技法を残し、全体に雄大で豪華な桃山建築の
面影を残している。
 
                                            ( 境内説明文 )
 
楼門の裏側は砲弾と御神額が置かれていました。
 
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石額。
 
高さ 1丈4尺  下幅 12尺  延宝九年八月 上鳥建造成就す。
額主 林六衛尉藤原信秀
石工 備前尾道住石屋伊兵衛
 
当神社入口にある石鳥居 ( 二の鳥居 ) は、延宝九年 (1681 ) 寄進された。
笠石は1本の石を湾曲に刻んだもので近郷にその例がなく、中央には束 ( 石額と束 )
を入れる口形の穴が残っている。
 
石額には 「国津彦命・櫛玉姫命 」 と刻まれているが、本来は国津比古命神社・
櫛玉比売命神社であり、石額名が違名であることから、取り除かれ神社で保管
されたものである。
 
                                          ( 境内説明文 )
 
尾道は石工で有名であったことは、昨年の尾道旅行で知りました。
松山にも送られたのですね。
この説明文には「 備前尾道 」 と書かれていますが、尾道は備後国です。
この説明文は、取り除かなければなりません。 ( 冗談です。)
 
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砲弾。
 
この砲弾は、明治3738年役戦利品で、陸軍大将より奉納されたものである。
     大       中      小
径    21.8cm    14.5cm   13.5cm
長    85.0cm    40.5cm   42.5cm
重量  135.5kg    26.0kg    27.6kg
 
                                          ( 境内説明文 )
 
参道に向かって左には神楽殿。
 
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右には金比羅宮。
 
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金刀比羅宮の前には井戸があり、眞名井の井戸と名付けられています。
 
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日毎の大神饌として奉った御神水。深さ 14m。           ( 境内説明文 )
 
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式内社 伊豫國風早郡國津比古命神社 旧社格は県社。
 
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国津比古命神社のいわれ
 
主神  天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
( あまてるくにてるひこあめのほあかりくしだまにぎはやひのみこと )
相殿  宇麻志麻治命  ( うましまじのみこと、饒速日尊の皇子 )
     物部阿佐利命  ( もののべのあさりのみこと、宇麻志麻治命の後裔 )
     誉田別尊     ( ほむだわけのみこと、応神天皇 )
 
国津比古命神社は、古墳の上にお祀りされています。
昔、風早の郷に魂を感じた人がいました。
その人たちはこの魂を国魂として素朴にお祀りしていました。
 
やがて日本の国を一つにまとめるときが来ました。
大和朝廷は氏姓制度のなかに国造などを定めました。
 
風早の郷には、物部阿佐利という方があてられ、この方は元々風早に祀られていた
国魂を敬い、なおかつ自分の祖先である神様をも合わせてお祀りし、
櫛玉饒速日命神社と呼ばれるようになりました。
後に物部阿佐利命を一緒にお祀りし、国津比古命神社と元の社名になりました。
 
頭碑八幡宮 ( かぐひはちまんぐう ) と呼ばれた時期もありましたが、享保年間
(17161736 ) に元の社名に戻りました。 物部氏、風早氏の氏神として
発展し、河野家の崇拝厚く、戦火より焼失した社殿が再建されました。
 
寛保元年 ( 1741 ) 松山藩主の松平定喬は毎年代官を参拝させました。
渇水のため雨乞いの神事が行われ、その折、奉納された扁額が現存しています。
 
明治四十二年、社格が県社になり、現在の拝殿内部は昭和四十六年に改修され、
昭和六十二年に境内地拡張・斎館の整備などが行われました。
 
                                          ( 境内説明文 )
 
国津比古命神社の対面に鎮座される櫛玉比売神社の御祭神は、
天道日女命 ( あめのみちひめのみこと )、御炊屋姫命 ( みかしじやひめのみこと )
 
先代旧事本紀によれば、饒速日尊は天上にいるとき、天道日女命を妻とし、お生まれに
なったのが天香語山命 ( あめのかぐやまのみこと ) です。
その後降臨されて三炊屋姫命を妻とし、お生まれになったのが宇摩志麻治命です。
 
饒速日尊の六世孫が物部氏の祖といわれる伊香色雄命 ( いかがしこおのみこと )
その四世孫が物部阿佐利命だそうです。
物部阿佐利命は、応神天皇の御代に風早国造に任じられています。
 
国津比古命神社には饒速日命と後裔、櫛玉櫛玉比売神社には饒速日命の后神が
祀られているのですね。
 
境内には 「風早の総氏神 」 という旛がたくさん立てられておりました。
 
風早郷または風早国というのは旧北条市とだいたい重なる、
「 風早の総氏神 」 というのは、「 旧北条市の総氏神 」 と考えてよいです。
 
と宮司がおっしゃっておりました。
 
続く。