津野神社は、今津北小学校から東へ500m、田んぼの中に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:滋賀県高島市今津町北仰316-1

 

中央の森ではなく、その右の小さな林が津野神社。

 

 

 

 

 

 

拝殿に向かって右に手水舎。

 

 

 

手水鉢には、盃状穴が彫られています。

 

 

    

 

 

 

奉納時機不明の狛犬、平成以降のものです。

 

    

 

式内社 津野神社 近江国 高島郡鎮座

現社名 津野神社

御祭神 紀角宿祢・武内宿祢

旧社格 郷社

 

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津野神社 旧郷社

 

一、社格と所在

 

当社は今津町大字北仰字須美森に鎮座せる延喜式神名帳(908)記載の

国幣神社にして、旧川上庄二十二ヶ村の氏神なり。

往古角氏領有の角郷総社にて、のちに分地され、都農川上の二郷となり、

更に治暦年間(1065)善積郷を加えて三郷を川上郷平等院の庄園と

なせしより、現今当社を川上庄の総社と云ふ。

明治四年、旧川越県の時郷社となり。犬上県となりて村社に変更。

明治十四年上格出願により再び郷社に加列せらる。

 

一、祭神

 

始め紀角宿祢命を奉斉せしが斉衡年中(854)その父武内宿祢を配祀して、

旧角大明神と称す。

その後紀角氏の遠御祖第八代孝元天皇を配祀し、三神を相殿とす。

神社名鑑(1978)に所載す。

 

一、例祭 4月18日

 

当社の例祭起源は、古く神功皇后三韓征討の故事に始まり、紀兜を着用し

競馬を営むと伝ふ。

毎年4月上の申日を祭礼とせしが、逐次変遷し、大正2年の氏子紛争以来

日置津野両社二日の祭礼を一日とし、現行の隔年神輿一基の渡御式を

行ふこととなせり。

 

一、社伝由緒

 

景行天皇志賀の高穴穂宮に坐す時志賀の仰木に在りし武内大臣、西淡海

の屯田を賜はり其子紀角宿祢に所管せしめ、この地を角郷と云ふ。

宿祢この地に死し遺骸を角山に葬る。

一説に武内大臣命を奉じて越国角鹿に向ふ途中病を得しが、天地神祇に

祈りてこれを拂へり。

 

その子角宿祢を周防国都乃郡より呼び、この地を所管せしむ。

その途次志賀の仰木より従者となりて来る者、この地を北仰木と云へり

因りて今にその名ありと。

 

角宿祢の孫田鳥宿祢また周防国の国造たりしが、その曾孫角臣子高見、

族小鹿火宿祢と共に此の地に神殿を創建す。

これ当社の始なり。

神殿は元亀3年8月織田信純に焼かれ、神主は神体を奉じて宮谷に迯る。

この時総ての宝物記録を焼失す。

元禄十一年(1698)この地が堅田藩領となり堀田摂津守の崇敬を得て、

毎年献供を受く。

社殿は宝永元年(1704)と嘉永六年(1853)の再建なり。

拝殿は元禄二年と文政七年(1824)の再建なり。

 

一、境内社四社あり

 

厳島社。

祭神 市杵嶋姫命 田心比賣命を相殿。竹生島より神霊を遷し祀りて辨財天

と称し北仰一村の産土神なり。年記不詳。

天正年間(1573)とも云ふ。享和三年(1803)再建す。

 

田部神社。

祭神。大国主大神。年記不詳。石神なり。田の神と称し大将軍とも称す。

應仁乱後平ヶ崎田上森より遷座す。

 

稲荷社。

祭神 倉稲魂命。大田命 大宮姫命の相殿。年記不詳。

正徳年間(1711)彦根藩家臣宅より遷座せりとも云ふ。

北野社。祭神。菅原道真公。神主荻野正恵寛永年中勧請す。

 

                                    (境内説明文)

 

『古事記』によれば、紀角宿祢(きのつののすくね)は武内宿祢の

第五子で、紀氏の祖です。

 

『日本書紀』によれば、

 応神天皇三年、百済の辰斯王(しんしおう)が位につき、天皇に礼を

 失することをした(何をしたのかは書かれてない) ので紀角宿祢・

 羽田矢代宿祢・石川宿祢・木菟宿祢を百済に遣わし、無礼を責めた。

 百済は辰斯王を殺して陳謝した。

 紀角宿祢らは阿花王(あくえおう)を立てて帰国した。

と書かれています。其の他の事跡は書かれていません。

 

拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。

 

 

社殿は式内社田部(たべ)神社。

 

式内社 田部神社 近江国 高島郡鎮座

現社名 田部神社(津野神社境内社)

御祭神 不明  

 

後方は、御社名不明。

 

 

本殿に向かって左に稲荷神社が鎮座されます。

 

 

本殿に向かって右に厳島神社が鎮座されます。

 

 

拝殿弐向かって右に遥拝所。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

阿志都弥(あしづみ)神社は、JR湖西線:近江今津易から北西へ1.2㎞、

今津宮の森公園という広い公園の東端に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:滋賀県高島市今津町弘川1707-1

 

 

 

大勢の氏子が、春の例大祭の準備をされていました。

 

 

社殿に向かって右に手水舎。

 

 

 

 

近畿地方ではよくみかける身代わり申(さる)。

幟に付けていました。

 

 

 

式内社 阿志都彌神社 近江国 高島郡鎮座

現社名 阿志都彌神社

御祭神 木花咲耶姫 (神吾田鹿葦津姫命、かむあたかあしつひめ)

      菅原道真

例祭   4月29日 例大祭

旧社格 郷社

 

滋賀県神社庁HPの記事を転載します。

 

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阿志都彌神社・行過天満宮 (アシヅミユキスギ)

御祭神

木花開耶姫命 菅原道真公

 

御由緒

 

阿志都弥神社は上古社殿の設なき時にこの霊地にあった桜樹に木花開耶姫命

を勧請して桜花大明神と称して祭祀を行っていたと伝えられている。

日本書紀推古天皇三十年に行われた新羅征伐の副将軍近江脚身臣が当地に

住んで崇敬した社である。

式内社であり、善積郷の総大社であった。

 

行過天満宮は陽成天皇元慶七年に菅原道真が加賀守となって赴任の途中に

阿志都弥神社に参詣して詠吟などして過ぎ行かれた由緒をもって道真の曽孫

菅原輔正朝臣が行過天満大神と称して長徳四年に勧請建立した。

当行過の名称については他に二説あるが省略する。

 

道真前記赴任の時真筆の十六善神画像(蓮糸織)及び法華経開結二経心経

阿弥陀経各一部を奉納されたが、建久二年海津村上尾山の海津天神社へ

阿志都弥神社と行過天満宮及び末社山王社紅梅社老松社の分霊に添えて

奉遷した。

 

天智天皇志賀に遷都後毎年当地産の鳥爪根を献上し、又刈安と云う草を

天皇御衣の黄色の染料として献上せしも戦乱のため、廃絶したが毎年例祭

には必ず鳥爪根を献饌している。

 

慶応二年孝明天皇御病気御平癒祈祷の命を奉じて当宮の神璽を献じ、

同三年明治天皇始め永世御宝祚御祈祷の命を賜って以来毎年九月に

生栗一籠(約二升)を当宮の神璽に添えて献上した。

同年七月以来天皇の撫物を神納になり毎年九月に金二両の御下賜金を

添えて新旧御取替になりしも明治四年に廃止になった。

 

足利将軍義満が朱印地を寄せたが、織田信澄が没収した。

金沢城主前田候、大溝藩主加賀中納言斎泰候、松平筑前守慶寧、

大聖寺藩主松平飛弾守利鬯の参詣あり。

 

天保十四年十二月に行過天満宮を阿志都弥神社に合祀した。

明治十四年郷社に列格、昭和十一年神饌幣帛供進神社に指定。

 

 

 

御社名の「あしづみ」神社は、御祭神の「かむあたかあしつひめ」由来

なのでしょう。

 

 

 

 

本殿の後方に白山(しろやま)神社が鎮座されます。

 

 

奉納時期不明の狛犬。

 

    

 

 

社殿前の狛犬は、明治六年十月の奉納。

 

    

 

式内社 小海神社 近江国 高島郡鎮座

現社名 白山(しろやま)神社(阿志都彌神社境内社)

御祭神 大山祇命 伊弉諾尊

 

御祭神からみて、白山(はくさん)神社です。

由緒は不明。

 

本殿に向かって右後方に稲荷神社が鎮座されます。

稲荷神社の参道。

 

 

 

 

稲荷神社の参道の近くに、御神木のスダジイが聳えています。

滋賀県指定自然記念物。

 

樹齢 1000年、 幹周 6.5m、 樹高 15m

 

 

 

拝殿に向かって左前に神輿庫。

 

 

 

 

以上。

今津町のマンホールには、中央に町の鳥:ヒバリ、その周囲に町の花:

ザゼンソウが描かれています。

 

 

JR湖西線:近江今津駅から住吉神社に向かう途中、「蓮如上人を助けた

お初のお墓」という案内板があり、寄ってみました。

 

泉慶寺。

 

 

お初のお墓は、お寺にくっついた墓地の端っこにあります。

右の大きな祠です。

 

 

 

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妙好人お初碑 由来 蓮如上人今津の難御旧跡

 

蓮如上人堅田の法難の頃、今津に逃れ給ひし時、宿の主人の娘お初、上人

の身代わりとなりて父の凶刃に掛かり法難に殉ず。

これが機縁となり、父、上人の御教化を被りて回心懺悔、空善坊と称し、

念仏の行者となる。

上人、この逆縁に嘆じて六字の名号を贈り給ふ。

 

                                     (境内説明文)

 

私は浄土真宗に関しては詳しくないのですが、ネットを検索してみたところ、

 

室町時代、第8代蓮如上人は、親鸞聖人の教えに従って布教活動を行い、

教えは、教えは急速に近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸に広まり、

本願寺は栄えた。

しかし比叡山を刺激し、寛正6年(1465)上人51歳の時、大谷本願寺は

比叡山衆徒によって破却された。

蓮如上人は難を避けられて近江を転々とされた。

 

ということでした。

蓮如が今津の宿に泊まったとき、延暦寺からの褒美を目当てに蓮如を殺そうと

したが、宿の娘が蓮如を逃がし、蓮如の身代わりに部屋に泊まっていたところ、

夜中に宿の主人に殺された、宿の主人は後悔して出家した、ということです。

 

高島市立図書館のHPに、「お初地蔵物語」が紙芝居的に掲載されています。

 

 

 

今津住吉神社は、近江今津駅から北東へ500mの所に鎮座されます。

赤マーク 住吉神社

青マーク 泉慶寺

 

 

 

鎮座地:滋賀県高島郡今津町大字今津289-2

 

に道路融雪装置の地下水が撒かれ、その地下水に鉄分が含まれており、

鉄分が参加して道路に付着していますので、道路全体が錆色です。

 

 

 

 

    

 

大正四年四月に奉納された狛犬。

 

    

 

左に手水舎。

 

 

 

 

 

 

 

    

 

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住吉神社

 

祭神 表筒男命 中筒男命 底筒男命

配祀 神宮皇后 天照大神 神直日神

 

由緒

 

弘安元年四月一日社殿を創建し、此の地に遷座す。

その後度々社殿を改築し、明治十二年五月、現社殿を造営す。

古来より海上守護神なり。

 

北陸地方への上陸地は、今津・海津・塩津の三港にして、今津は京帰より

近人船舶発着多くして、出入りに船頭の参詣多し。

また、天正十一年豊臣秀吉北邦郡務の際、幣帛料を奉り海上安全を祈る。

 

更に文久二年金沢藩主前田中納言斉泰上洛の節白銀十枚を献る。

慶応三年六月十八日有栖川宮熾仁親王殿下の印染筆による「住吉宮」の

扁額を奉納せられ、現鳥居の額なり。

 

                                    (境内説明文)

 

 

本殿左後方に境内社が鎮座されます。

金刀比羅神社・稲荷神社。

 

 

本殿後方に境内社が鎮座されます。戦没者合祀社。

 

 

本殿右後方に境内社が鎮座されます。

八幡社。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

恵美酒天満神社は、山陽電鉄:飾磨駅から南西へ500mの所に鎮座され

ます。

 

 

 

鎮座地:姫路市飾磨区恵美酒14

 

 

 

 

右に手水舎。

 

 

 

右に厳島神社が鎮座されます。

 

 

厳島神社の社殿は、写真を撮るのを忘れました。またか・・・

厳島神社から眺めた拝殿。

 

 

 

    

 

平成十六年一月に奉納された狛犬。

 

    

 

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天満神社 (恵美酒宮)

 

もと「戎の神」を祭ったので恵美酒宮と呼ばれ、このあたりの町名の起源とも

なった。

のちに天満神(菅原道真)を勧請して合祀。

境内には狛犬・灯籠・力石など江戸期の石造品があり、寄進者名などが

刻んである。

神社の南方は江戸時代には船だまりになっていた。

対岸には姫路藩の米蔵が立てられ、飾磨津と城下を結ぶ高瀬舟が往来して

いた。

 

昭和63年3月 姫路市教育委員会・姫路市文化財保護協会

                                      (境内説明文)

 

恵美酒天満神社も、背因異界沿岸に多く鎮座される、菅原道真公が大宰府

に移動される際に留まれたという伝承を持つお宮の1つですが、境内の

由緒書には書かれておりません。

 

 

 

 

祭りの写真が絵馬殿に掲げられていました。

 

 

 

 

拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。

 

 

稲荷神社。

 

 

本殿に向かって左に稲荷神社が鎮座されます。

 

 

 

本殿の後方に藤棚があります。

 

 

 

本殿に向かって右に恵美酒神社が鎮座されます。

元は恵美酒神社が鎮座され、後に天満宮が勧請されたと由緒書に書かれて

おりました。

本殿に合祀ではなく、本殿は天満宮、恵美酒神社は境内社に移動、という

ことだったのです。

 

 

恵美酒神社の後方に、恵比寿様の像があります。

 

 

拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。

左から、遥拝所、引退した狛犬、猿田彦神社。

 

 

阿吽で、大きさがかなり違います。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

浜の宮天満宮は、山陽電鉄:飾磨易から南西へ1㎞の所に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:姫路市飾磨区須加40

 

とても広い御神域は、白い塀で囲まれています。

 

 

 

 

 

御神門をくぐった右に神馬舎があります。

御神馬舎が入口近くにあるのは珍しい。

 

 

 

その隣りに手水舎。

 

 

 

左に厳島神社が鎮座されます。

 

 

手水鉢はオオシャコ貝。

 

 

 

平成七年十月に奉納された狛犬は、参拝者を睨まないで、遊んでます。

 

    

 

厳島神社の隣りに境内社が鎮座されます。

稲荷神社(左)、住吉神社(右)

 

 

境内社から眺めた拝殿。

 

 

 

昭和期に奉納された狛犬。

 

    

 

 

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主祭神 菅原道真公  スガワラノミチザネコウ

 

由 緒

 

元、宮町にあってその町名の起源となったが、江戸時代初頭に当地に移設

されたという。

当時神社の南は松林で近くまで海が迫っていたようで、榊原正邦の飾磨江亭

八景詩の中にも、『菅祠青松』と題して詠まれている。

 

境内には、灯籠・狛犬・常夜灯等江戸期の石造品があり、漁業関係者の銘が

多く見られる。

力石は恵美酒神社の宮のものと同型で、同一人の奉納品。

 

秋祭りには(十月八・九日) 「屋台の台場さし」 で名高い。

 

                                       (境内説明文)

 

瀬戸内海沿岸(中国側と四国側、両方)には、菅原道真公が太宰府に赴任する

際に立ち寄られた天満宮が非常に数多く鎮座されますが、浜の宮天満宮も

その1つです。しかし、そのことは由緒には書かれておりません。

 

秋祭りの写真が境内に掲げられておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本殿に向かって左に、境内社が鎮座されます。

 

 

手前から、恵比酒(えびす)神社。

 

 

 

金刀比羅神社。

 

 

    

 

秋葉神社。

 

 

 

神明神社。

 

 

    

 

貴船神社。

 

 

拝殿に向かって右前に御神木が聳えています。

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

津田天満神社は、山陽電鉄:西飾磨(にししかま)駅から南東へ900mのところ

に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:姫路市飾磨区構912

 

広い御神域。

 

 

 

公園から参道が始まっています。

 

 

 

 

右に手水舎。

 

 

 

手前の縁に薄く盃状穴が彫られています。

深さ3㎜くらい。彫っている途中であきらめたのでしょう。

 

 

右に厳島神社が鎮座されます。

 

 

手水舎の後方に御神木が聳えています。

 

 

 

 

 

    

 

淳和二年に奉納された狛犬。

 

    

 

割り拝殿。

 

 

主祭神 菅原大神 

配祀神 津田大歳明神 加茂別雷大神 

 

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津田天満神社と文化財

 

延喜元年(901) 太宰権師に左遷された菅原道真(菅公)が、「津田の細江」

で船のとも綱を敷物の代わりとして休息したことから、後に氏宮に菅公を

主神として祀ったという。綱敷天神ともいう。

 

永仁六年(1298)、嘉吉三年(1443)の社殿再建を伝え、往時は社地広大で

あったが、天正八年(1580)羽柴秀吉の英賀保(あがほ)城攻めで焼失し、

現在地に再建されたという。

 

当社東方の試案橋西のたもとに観光小憩伝説地があり、大正十三年の

石標と昭和三十七年安置の菅公坐像がある。

境内には淳和二年(1802)の狛犬、文政十年(1827)の石灯籠、文政十三年

(1830)の手洗石があり、境内南の公園に文化十年(1813)の鳥居がある。

 

紙本著色北野天神縁起 三巻  国指定重要有形文化財 (絵画)

                     昭和三十四年十二月十八日付け指定

 

永仁六年(1298)前出羽守藤原親泰の奉納で、同系統の絵巻では最古の

貴重なもの。奈良国立博物館に寄託。

 

津田天満神社太鼓 二個    姫路市指定重要有形文化財 (工芸品)

                    昭和四十五年三月三十日付け指定

 

嘉吉元年(1441)の朱書銘があり、全部木製で、もとは太鼓樽と称する酒器

と考えられるが、当社御輿の霊代(たましろ)として保存されてきた。

 

平成十六年三月 姫路市教育委員会・姫宇治市文化財保護協会

 

 

                                     (境内説明文)

 

 

 

 

 

拝殿には絵馬が奉納されています。

 

 

 

 

 

 

本殿前からの眺め。

 

 

拝殿に向かって左前に境内社が鎮座されます。

左:稲荷神社、右:海神社。

 

 

拝殿に向かって左に山部赤人神社が鎮座されます。

 

 

 

昭和四十四年四月に奉納された狛犬。

 

    

 

神輿庫。

 

 

 

拝殿に向かって右に力石が奉納されています。

これらは平成のものです。

 

 

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

蛭子神社は、山陽電鉄:平松駅から北東へ900mの所に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:兵庫県姫路市大津区天満1083

 

 

 

右に手水舎。

 

 

手水鉢には、多くの盃条穴が彫られています。

 

 

この春に四国八十八箇所・四国別格二十箇所を参拝した際に、盃状穴の確認

も行いましたが、寺域では一個も見つける事が出来ませんでした。

四国の札所は金廻りがいいからか、

 

 石段・参道はコンクリート製に替えた、もしくはコンクリートを上から塗った。

 手水鉢は新品に替えている。

 石灯籠は新品に替えている。

 

といったことがあって、なんでもかんでも新品になっており、元々は盃状穴のある

石造物があったかも知れないのですが見つからないのです。

 

一般的な神社はお金がないから、まだ昔の物が残っていますが、時間の問題。

本州の神社も、それほど遠くない時機に様々な物が新しく取り替えられ、盃状穴

が彫られた石造物も消えていくでしょう。

 

何よりも、現在でさえ、彫られた盃状穴の存在を殆どの人々は気づいておりません

から、当然何のために彫られたか、現在祭祀が行われているのか、などといった

事は分かりません。

 

盃状穴は子授かり、再生、転じて五穀豊穣のために彫られたこと。

現在見られる盃状穴は、江江戸末期~明治に彫られている。

ということだけが分かり、どのような神社(地位、位置など)に彫られたのか、

いつ頃彫られたか、神事はされるのか、といった事はほぼ何も分かりません。

 

盃状穴について書かれた論文はいくつかありますが、

「どこそこに盃状穴が彫られている石造物があった」

ということだけを報告しているばかりで、とても論文の体をなしていません。

まともな研究なんて、存在していないのです。

すでに、盃状穴は民俗の研究対象にはならなくなっています。

 

 

   

 

 

 

昭和二年八月に奉納された狛犬。

 

    

 

 

兵庫県神社庁HPの記事を転載します。

 

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主祭神 事代主命

配祀神 大乙貴命 素盞鳴命                    

 

祭礼

                

211日の祭礼には、境内に鯛やき、たこ焼、おでん、うどん等の模擬店と

餅ほりで賑わう。

また5月5日は子ども相撲、10月21日秋祭り宵宮では民俗文化財の

「天満力石の力持ち」が屋台練りの休憩時に行われ、若者が力石を担ぎカを

競い合い、うまく肩に石が乗れば一勢に拍手と喚声がわきおこる。

 

由 緒

 

天満村は自然堤防(砂堆)の上に立地し、往古は海辺の村であったが、

新田開発や企業の埋立てで海から離れてしまった。

 

当神社の記録を江戸期の古文書から給うと村には四つの神社が存在し、

その内の一つで恵美酒神社又は恵美須社、蛭子祠と呼ばれていた。

 

「村西にあり、境内東西二十間半、南北二十間半(別の文書では一反畝余)社

は縦三尺、横三尺七寸、瓦葺き、勧請年月相分かり申さず、平日の御灯、

神供、献備、祈念は宮守が勧め、祭礼の節は氏宮等覚院に相頼み候」とある。

 

また、松林の中にあった様である。萬延元年(1860)の再建奉加帳には小豆島

田井、家嶋海津、淡路大崎、紀州塩津浦、讃州引田浦、阿州長原浦の名が

見え瀬戸内東部の各地から浄財が集まった事が知れる。

 

明治になって合祀令により村北の荒神社を合祀。

現在の社殿は昭和51年(1976)に再建された。

 

 

 

 

 

拝殿には、どういう場面なのかわからない絵馬が奉納されています。

 

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

道の両側から飛び出そうとする坊や。

 

 

    

 

武大(ぶだい)神社という御社名は初めて聞きました。

地図で検索すると、姫路市の西部:網干区・大津区に7社が鎮座されて

います。

 

 

御祭神は、6社が素戔嗚尊、1社が彦狭知命(ひこさしりのみこと)でした

から、基本的に素戔嗚尊を祀る神社なのでしょう。

 

今回、最も東に鎮座されている長松の武大神社を参拝致しました。

 

 

 

鎮座地:姫路市大津区長松403

 

 

 

右に手水舎。

 

 

 

拝殿は、瓦にこだわっています。

 

 

 

鯉を追いかける狛犬。

 

  

 

昭和三年十月に奉納された狛犬。

人面タイプの個性的なデザインです。

 

    

 

このようなユニークなデザインは、令和や平成作では、決して見ることが

出来ません。

昭和40年以降は手塚治虫のジャングル大帝レオみたいなのが主流になり、

昭和60年代以降はデザインがどんどん簡略化されていきます。

 

 

 

拝殿は姫路では珍しくない土足OK、土間拝殿的なもの。

 

 

兵庫県神社庁HPの記事を転載します。

 

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主祭神 素盞鳴命  スサノオノミコト

配祀神 荒神さん                     

 

由緒

 

古代の瀬戸内海は、大きく、朝日山、山戸山の麓は海であった。

縄文時代より気候の変化で徐々に海は後退し、海面の低下で揖保川や

大津茂川の土砂が流出して、沖積地平野が生成された。

この第一砂堆の海岸に今も少し残っている道が室海道である。

この砂堆に字名、惣利に当社を誰が何時祀ったのか不明である。

 

一坪ほどの地に荒神社の祠が建立されていたが、海が後退するにつれ、

第二、第三砂堆が形成され、開拓と共に人口も増えて第三砂堆に移り住み、

元禄年間(1688~1703)に荒神社を80坪の敷地に移築建立した。

 

荒神さんは太陽信仰で、農耕神として五穀豊穣を願い崇められていた。

昭和3年(1928)に御大典事業として廣峯神社より素盞鳴命の分霊を勧請し

祀り武大神社と改称、荒神さんと合祀した。五穀豊穣、子孫繁栄、疫病を

防ぐ神様である。

 

神社形成は非常に均整がとれた本格的な構造建築で、百数戸でこれ程の

社を建立した先人達の苦労が忍ばれる。

唐破風や千鳥破風の下に鶴で長と松をあしらって長松の村章をつけている。

向拝殿、拝殿、本殿の蟇股の龍は飾磨の名彫刻師三代目(松本義廣)の

力作である。

 

 

拝殿にはプロペラが奉納されています。

 

 

『平家物語』の一場面、平敦盛vs熊谷直実 (須磨)

 

 

拝殿に向かって右に力石が奉納されています。

自然石タイプ。説明文は有りませんでした。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

網干署前にあった看板です。

ユニークな看板やポスターが多い、兵庫ならでは。

 

 

陽気な飛び出し坊や。

 

 

大江神社は、山陽電鉄:平松駅から南西へ600m、住宅と住宅の間の小路を

抜けた所に鎮座されています。

 

 

 

鎮座地:姫路市網干区大江島541

 

参道。

 

 

 

 

 

明治二十九年に奉納された狛犬。

 

    

 

土間拝殿。

 

 

主祭 天児屋根命 

配祀神 武甕槌命 経津主神 姫大神 倉稲魂命 事代主命 

      素盞男命 大己貴命               

 

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由 緒

 

大江島は、もとは島であったという。「生い島」から転じたという。

平安時代は摂関家の「大江島荘」あり、この付近が中心地だった。

鎌倉時代に入ると、神護寺福井庄の南部域開発が進み、大江島庄は荘園の

実体を失い、福井商の東保に含まれた。

 

天正十五年(1587)の「豊臣秀吉知行方目録」に「大江島村」とみえる。

江戸時代に入ると諸領主の変遷があったが、寛文十二年(1672)に幕府領と

なり、明治に至る。

 

此の地には滝位転大明神(三社大明神)があったが、明治四十一年1908)

に村内の稲荷神社、恵美須神社、春日神社、金刀比羅宮が合祀され、

四十五年大江神社に改称されたという。

 

現在の社殿は棟札から明治三十九年(1906)上棟。

京二条東新地多門町の大仏師の作になる享保五年(1702)の神像一対と

姫路茶町の大仏師作になる天保十五(1844)の神像一体が伝わる。

境内には文久(1862)銘の玉垣がある。

 

平成十六年三月 姫路市教育委員会

 

                                     (境内説明文)

 

拝殿には絵馬が奉納されています。

 

 

 

 

 

社殿に向かって右に稲荷神社が鎮座されます。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

 

以上。

姫篠のマンホールには、市の花:鷺草、揖保川が描かれています。

 

 

現役のポスト。

 

 

 

網干神社は、山陽電鉄:網干駅から南へ800mの所に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:兵庫県姫路市網干区新在家436

 

 

 

右に手水舎。

 

 

 

 

奉納時期不明の狛犬、明治期と思われます。

 

    

 

瓦のデザインは凝っています。

 

    

 

 

 

    

 

 

主祭神 事代主神

配祀神 住吉の神 大国主神 塩竈の神 稲荷の神                  

 

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網干神社 由来

 

網干神社は、五柱の鎮守神を祀る。

五柱とは、

従来から此の地にあった事代主紙と側に祀る住吉神、(いわゆる戎神社の二柱)

北西にあった大国神と側に祀る塩竃神(「いわゆる大国神社の二柱)

 これは十九世紀初頭の暴風雨で塩田南岸に打ち揚げられた神を塩田の鎮守

 として祀ったもの、

さらに東にあった脇坂候陣屋鎮守の稲荷神(いわゆる宇賀神社の一柱)

である。

 

内務省令によりこの三祠五柱の神を一殿宇に合わせ祀ることになり、

明治四十二年三月から十月以上かけて本殿(五神殿)・幣拝殿・瑞牆・玉垣を

建設、明治四十三年五月に落成した。

 

これを機にその由緒を忘れぬようあらましを記録したものである。

 

令和二年十二月 網干新在家自治会

                                    (境内説明文)

 

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新在家と網干神社

 

「網干」の初見は文治二年(1186)「源頼朝書状」、当地は鎌倉・室町時代は

神護寺領福井庄にあって、瀬戸内海船運で栄ていた(兵庫北関入船納帳)。

信長禁制に網干、秀吉近世に網干郷、家康禁制には網干三箇村とあり、

慶長国絵図に「あほし(網干)」肩付の「新在家」「沖ノ浜(興浜)」「小浜

(余子浜)」三箇村がみえる。

 

正保年間(1644~48)まで三箇村は網干一村扱い、明暦四年(1658)龍野

藩主京極家野丸亀転封に際し、興浜・余子浜が龍野藩領から丸亀藩領、

新在家は幕府領とされて分村し、寛文十二年(1672)脇坂家龍野藩領となり、

維新に到る。

興浜・余子浜も寛文十二年に余子浜が幕府領とされて分村した。

 

新在家は塩浜の開拓、揖保川流域の物資集散地として栄え、地内に四十町余

の町場が形成されたといい、龍野藩蔵屋敷も設置(現網干小付近)された。

 

新在家の鎮守、網干神社は明治四十二年(1909)内務省令で地内の戎神社・

大国神社・宇賀神社を合祀して成立、なかでも戎神社は孝養を尽くし、財を

なした新在家の甚次郎が宝暦十年(1760)に社伝を建立したと伝えられている。

 

令和二年十月 姫路市教育委員会

                                      (境内説明文)

 

社殿に向かって左後方に土俵、姫路は相撲が盛んなところなのだそうです。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。