徳島県護国神社は、JR牟岐線:文化の森駅から東へ1.7㎞のところに

鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:徳島県徳島市雑賀町東開21-1

 

 

 

昭和五十四年五月に奉納された狛犬。

 

    

 

右に手水舎。

 

 

 

 

 

徳島県護国神社公式HPの記事を転載します。

 

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御祭神

 

明治戊辰の役より幾多の事変並びに戦争等の国難に殉ぜられた徳島県

出身の英霊34,369柱を奉斎し、また相殿に徳島県出身の殉職自衛官の御霊

24柱を奉斎しています。

 

由緒・沿革

 

明治12年徳島市の眉山公園内に戊辰戦争からの戦没者を慰霊顕彰する

ために招魂碑を建立したのが当神社の創祀です。

明治39年徳島城跡地(徳島中央公園城山山頂)に移転し、

昭和13年には「徳島縣招魂社」として神社が建立され、

14年には内務大臣指定「徳島縣護國神社」と改称しました。

 

昭和20年の徳島大空襲ですべての建造物を焼失しましたが、

昭和33年戦後混乱期の社会情勢の中で官民一体となり、

県民挙げての奉賛により再建されました。

 

昭和53年には御創社百周年記念として境内整備事業が完工し、

昭和63年には御創建三十周年記念事業として社殿屋根銅板葺替工事が

行われました。

 

ところが、その城山山頂はもともと徳島市からの借地であり、原生林保護

区域にも指定されていたため車道整備などの開発ができず、

遺族・崇敬者の参拝も大変不便であったことから、平成になって再度移転

の話が持ち上がりました。

 

そのようななか現在地にお住まいになられていた女性篤志家から移転用地

(約2,700坪)の寄進を受け、遺族を中心に多くの県民からの奉賛を受けて、

平成15年本殿・社務所参集殿の新築、拝殿・手水舎・慰霊碑および境内諸

施設の移設等を完了、正面入口には石造りでは四国最大級の大鳥居が

竣工し、今の姿になりました。

 

 

 

    

 

 

 

 

社殿に向かって右に慰霊碑が建立されています。

 

 

比島戦没者の碑。

 

 

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太平洋戦争における比島戦没者の内、本県出身者の多くは首都マニラの

東部に位置する山岳地帯で散華されました。

昭和54年、徳島県遺族会が主催した第2回比島戦跡巡拝団によって

戦没地の山々が望めるアンッシポロの丘陵に鎮魂の碑を建立しました。 

しかし、時代の経過の中で碑の建立地周辺が市街化によって慰霊環境の

悪化が進んだため、鎮魂碑を平成16年に日本に持ち帰り、当護國神社境内

に再建立しました。

 

昭和54年1月 建立 徳島県遺族会青年部

 

                                          (碑文)

桜飛会徳島戦没者慰霊碑。

 

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表:

海軍甲種飛行予科練習生十二期前期 

昭和十八年四月 鹿児島海軍航空隊入隊

 

裏:

戦没者 15柱の御英霊の出身町、氏名 刻印

同期戦没者を悼み世界平和を祈念する

建立者 桜飛会徳島支部 同期生及び遺族

平成16年10月吉日

                                          (碑文)

 

硫黄島戦没者之碑。

 

 

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昭和52年3月14日

城山公園護国神社境内に 徳島県防衛教会 建立

護国神社の移転に伴い平成15年9月吉日 再建

                                          (碑文)

 

昭和天皇 憲皇太后 歌碑。

 

 

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憲皇太后 御歌                 

 

皇いくさの 道につくしし まこともて なほ国まもれ ちよろずの神

 

 昭和天皇 御製

 

國守ると 身をさずつけし ひとびとの 上をしおもふ 朝にゆふへに

 

昭和53年5月 創立5周年記念 徳島市傷痍軍人会 仝 妻之会

 

                                          (碑文)

 

ソロモン群島戦没者慰霊碑。

 

 

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裏面

 

昭和58年11月 徳島県ソロモン・ブーゲンビル会

昭和53年     ブーゲンビル島霊砂埋奉

 

                                          (碑文)

 

陸軍少年飛行兵 若鷲の碑。

 

 

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我が国が軍国日本として世界に君臨した昭和初期清純な青春のたぎる

血潮を一すじに祖国守護の若鷲として戦果の大空に愛機と共に活躍した

陸軍少年飛行兵は三軍の花とうたわれたのであるが惜しくもその半ば

悠久の大義に燃えつつ雄々しく翼と共に散華したのである

戦后志を同じくした者相集い少飛会を結成茲に記念碑を建立し永しえに

少飛の名をとどめんとするものである

 

昭和54年10月吉日 徳島県少飛会建立 会長 福岡博書

 

                                          (碑文)

 

関東軍防疫給水部隊呉支部戦友会。

 

 

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黒龍江千里の流れ今眠る 厚い氷にとざされて 

雪のシベリヤ 満州の中を?たてし

春を待つ 春を待つ

 

満州国黒河省孫呉縣鈴蘭ヶ丘 満州第七三一部隊六七三部隊

 

                                          (碑文)

 

徳島船砲会 慰霊碑。

 

 

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表:

 

戦友よ父よ夫よ兄弟よ

墓標なき千尋の海にさまよへる御霊よ

此の地に帰りて安らかに眠り給はん事を心から祈る

 

裏:

 

大東亜戦争下広域海洋作戦における輸送船は祖国と前線を結ぶ大動脈

であり、戦争末期に至り頼みとする我が海空軍は壊滅状態に近く之が

護衛に任ずる船砲隊は僅かの火砲を以て敵潜敵機の猛攻に死守応戦

せるも、遭難せる船舶2568隻843万屯に達し、郷土出身の船砲隊勇士の

太平洋のわだつみ深く鎮まりたる者124柱を数ふ。

戦後30余年を経し今日に至るも、現地の墓参遺骨の収集は至難の業

にて痛恨の極みなり。

茲に亡き戦友の御霊の安らぎを祈念し、その勲功を讃へ氏名を刻し永く

平和の礎として碑内に安置せり

 

昭和58年3月20日 徳島船砲会  建立

 

                                          (碑文)

 

歩兵第四十三聯隊戦没者慰霊碑。

 

 

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右副碑:

 

歩兵第四十二連隊略史

明治31年3月24日 宮中に於て軍紀拝受

明治31年4月19日 日露戦争出征 旅順・清河城 撫順 転戦

明治42年9月9日  満州駐剳派遣 鉄嶺警備

大正9年9月26日  シベリア出兵 浦塩ブッセッカ警備

昭和7年2月23日  上海事変出征揚子江辛口上陸

昭和12年8月14日 支那事変出征羅店鎮南翔無錫転戦

昭和12年9月22日 満州派遣 虎林駐屯 満ソ国境警備

昭和20年4月7日  本土防衛のため四国に帰還

昭和20年8月15日 高知浦戸湾防衛中終戦

昭和20年8月18日 高知市仁井田実盛塚にて軍紀捧焼

歩兵第43聯隊戦友会建立

 

左副碑:

戦没英霊慰霊碑建立経過(細部略)

昭和51年8月21日 慰霊碑建立

昭和53年10月1日 満州第712部隊第3大隊戦没者慰霊標建立 グァム島

昭和56年2月8日  同上再建

平成元年11月11日 慰霊碑再建

 

                                          (碑文)

 

歩兵第62連隊第2大隊 戦友之碑。

 

 

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裏:

 

日支事変の勃発に伴い我が歩兵第62連隊は、四国4県の連隊の精鋭と

関東軍の一部で編成され第2大隊は徳島第43連隊が母体となり

昭和13年4月坂東町の兵舎で完了しました

 

昭和13年9月 河北省塘活に上陸し鉄道警備治安粛正のかたわら

蘇北作戦 宇学忠軍殲滅作戦第2次魯南 劉共作戦中原会戦と数百回の

討伐作戦をくりかえし 三年有余1日として休む暇なく戦いこの間軍司令官

から数々の賞詞を頂きその戦果と殊勲は燦然と輝きました 

 

大東戦争に突入するや昭和17年2月比島に前進●ンガエン湾に上陸

第1次総攻撃は挫折第2次バタアン総攻撃に参加要塞に立てこもる

米比軍7万との決戦は我が方が一発撃てば30発以上の応酬で

特にタニサイ河とアボアボ河の合流点での2週間に亘る死闘は

実は凄惨苛烈で十数回の肉弾突破をくりかえし、遂に敵の堅塁を抜き

米比軍壊滅の大きな端緒を作りました 

 

第2大隊の戦史に燦然たる光彩を放ち方面軍司令官から数々の賞詞を

頂き、バタアン戦争のその悲惨なことは大戦中でも全軍の中のワースト5の

内に数えられ苦難な戦いでは何人の筆をもってしても書き表すことは

出来ません 

 

更に5月から9月までレイテイ島サマール島の戡定作戦中に師団復帰の

命に依り数多くの尊い戦友の血で染め上げた比島を後にマニラ港を出帆

17年12月サイゴンに上陸 

第2大隊はハイホン附近の警備につき 18年4月ビンエン兵舎では5年目

にして初めて軍紀の下に集い苦難の中をよくぞ生き、残れたと戦友が

手を取り合ったあの感激が忘れる事が出来ません 

 

息つく間もなく大陸打通作戦の第1号策応作戦続いて明号作戦と実に

複雑多岐に亘り広範囲に展開する連隊は遠く国境まで拡がり、終戦の

大詔を知るよしもなく尚被害が続出し、連隊の歴史は8年半広大無辺の

大陸に酷暑瘴癘の南の地に転戦常に勇戦力闘秋本中佐以下380有余名

が壮絶な戦死を遂げ、病魔に斃れた戦友を思うとき感涙滂沱として頬を伝う

 

編成当時は主として徳島県人でした

其の後の補充は東北北陸甲信越の方々が主力で徳島県人の色彩は

薄くなっておりましたが、第2大隊発祥の地 ここ徳島縣護國神社の境内に

亡き勇士の鎮魂の意義を大きく含め戦友の碑を建立し、歩兵第62連隊

第2大隊の不滅の功績を永遠に伝うるものであります

 

歩兵第62連隊第2大隊有志 昭和57年4月29日 建立

 

                                          (碑文)

 

慰霊碑。衆議院議員中曽根康弘。

 

 

海軍甲種飛行予科練習生 殉国の若鷲慰霊之碑。

 

 

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海軍航空戦力の増強を目的として、甲種飛行予科練習生制度が制定され、

強靭な肉体と精神力を兼備した心身共に優秀な青少年が求められ、

昭和12年9月1日、自ら志願した第1期生が横須賀海軍航空隊に入隊、

爾来16期生まで全国各地の航空隊において厳しい訓練の後、先の太平洋

戦争において搭乗員として参戦し救国の大義に殉じられた同郷の百余柱の

御霊の冥福と祖国の永遠の平和を祈念して、この碑を建立する

 

平成18年10月吉日 徳島甲飛会

 

                                          (碑文)

 

拝殿に向かって左に境内社の大国神社が鎮座されます。

 

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

切幡寺は、JR徳島線:阿波川島駅から北へ6㎞のところに在ります。

 

 

 

住所:徳島県阿波市市場町切幡字観音129

 

 

 

 

    

 

 

石段の途中の、何という建物かわからないのですが。

 

 

 

この建物の後方に奪衣婆(だつえば)。

 

 

死後最初に出会う奪衣婆衣服を剥ぎ取られ、懸衣翁(けんえおう)に

よって三途の川の畔の衣領土樹に衣服を掛けられます。

衣服が架けられた枝のしなりぐあいによって死後の扱いが決められます。

原田美枝子さん主演の『地獄』にも奪衣婆は登場しました。

 

この建物の右に、仏像が並んでいます。

左が弘法大師ということはわかりますが、仏像に詳しくないので右の3体は

わかりません。

 

 

忠魂碑。こちらの仏像は大日如来です。

 

 

 

右に手水舎。

 

 

本堂。

 

 

 

四国八十八箇所霊場会HPの記事を転載します。

 

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宗派 高野山真言宗

本尊 千手観世音菩薩

開基 弘法大師

創建 弘仁年間(810〜824)

真言 おん ばざらたらま きりく

 

切幡寺の歴史・由来

 

切幡山の中腹、標高155メートルに境内がある。国指定重要文化財である

大塔からの眺望はすばらしく、眼下には吉野川がゆったりと流れ、前方には

四国山脈の雄大な山々が連なる。

 

古く、この山麓に機を織る乙女がいた。

ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために

布切れを所望された。

乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。

 

大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。

乙女は、

 「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、

男の子が産まれればその子も咎を受ける。

どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがて

この地に来て産まれたのが私です」

といい、

 「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って

精進したい」

と願いを告白した。

 

大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて

灌頂を授けた。

乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩

に変身した。

大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して

自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向き

に安置して本尊にしたと伝えられる。

得度山、灌頂院、切幡寺それぞれの名称もこうした由縁による。

 

麓は、巡礼用具店などがならぶ門前町となっている。

「女人即身成仏の寺」として知られ、七色の光を放つ善女に憧れる女性

からの人気が高い。

 

 

 

 

本堂に向かって右に大師堂。

 

 

本堂に向かって左に境内社。

左は御社名不明、右は弁財天社。

 

 

 

以上。

金泉寺は、JR高徳線:板野駅から北東へ500mのところに在ります。

 

 

住所:徳島県板野郡板野町大寺字亀山下66

 

 

    

 

 

 

左に手水舎。

 

 

 

 

本堂。

 

 

四国八十八箇所霊場会HPの記事を転載します。

 

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宗派 高野山真言宗

本尊 釈迦如来(伝行基作)

開基 行基菩薩

創建 天平年間(729〜749)

真言 のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

 

金泉寺の歴史・由来

 

聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、金光明寺

と命名されたと伝えられる。

そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、

薬師如来の三尊像を安置して開基したという。

 

弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人

日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。

この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、

寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。

その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰

されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。

 

その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、

1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も亀光山

と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。

 

以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。

また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に

金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。

 

本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内

西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせた

と伝えられている。

すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。

いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。

 

 

 

大師堂。

 

 

弁天社。

 

 

多宝塔。

 

 

忠魂塔。

 

 

観音堂。

 

 

天満宮。

 

 

境内には、阿波における義経の活躍の説明板が掲げられていました。

絵はかなり劣化しています。

 

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阿波における義経軍の足跡

 

元暦(げんりゃく)二年(1185)、源義経は軍を率いて摂津国一ノ谷の合戦で

破れた平氏が拠点としていた讃岐国屋島を背後から攻めるために、二月

十六日、摂津国渡辺(大阪市)から阿波に向かって渡海しました。

 

折からの大風・大波のなか、五艘の船で阿波に渡った義経は、疾風の如く

阿波の地を駆け抜けていきました。

『平家物語』をはじめ『源平盛衰紀』『吾妻鏡』に描かれた義経軍の阿波に

おける足跡は、義経がたどったとみられる地域に数多くの伝承・説話を

残しています。

 

 

 

源義経は、二月十七日、阿波に上陸しました。

普通では三日かかる航程を六時間ほどで阿波に渡ったと伝えられています。

このとき、板西(ばんせい、板野町)の近藤六親家が阿波に上陸した義経を

屋島まで道案内して、屋島攻略の立役者となったとされています。

 

親家は、『平家物語』(巻十一「勝浦付大坂越」)では、

「当国の住人、坂西(板西)の近藤六親家」と名乗っていますが、

『吾妻鏡』(文治元年二月十八条)には「近藤七親家」、

『源平盛衰記』(巻第四十二「勝浦合戦附勝麿並親家屋島尋承の事」には

「阿波耕住人臼井近藤六親家」と書かれています。

また、『平家物語』には「とし四十ばかりなる男の、黒皮威の鎧きたる」

と描かれています。

 

京都鹿ケ谷(ししがたに)の辺で、平清盛に捕らえられ殺された藤原師光

(もろみつ、僧、西光)の六男と言われています。

 

近藤六親家の先導を得た義経軍は、二月十七日の早朝、ただちに北に進軍

し、まず平氏政権下の阿波で最大の勢力を有した、田口成良(しげよし)の弟、

桜間介良遠(さくらまのすけよしとう、能遠)の城を攻め、敗りました。

 

その後、義経の一行は屋島に向かう途中、金泉寺に立ち寄り、休息をした

と言われています。

この時、折からの観音講に集まっていた村人の酒食を味わい、元気を養った

とされています。

 

こうした金泉寺のエピソードは、

『源平盛衰記』(巻四十二「金泉寺観音講附六条北政所の使義経に逢ふ事」

の他に、『平家物語・延慶本』(『平家物語・長門本』)にも見られます。

 

 

源義経軍は二月十七日、夜を徹して大坂峠を越え、翌十八日の午前四時頃

には、讃岐国引田に着き、白鳥などを経て、屋島に到ったようです。

『平家物語』は「阿波と讃岐とのさかいなる大坂越えといふ山を、夜もすがら

こそ越られけれ」(巻第十一「勝浦付大坂越」)と描き、大坂の山中で平氏の

使者を捕らえるエピソードなどが記されています。

 

                                      (境内説明文)

 

境内から眺めた仁王門。

 

 

 

 

 

以上。

徳島天神社は、徳島駅の前の道を1㎞ほど進んだ眉山(びざん)の麓に鎮座

されます。

 

 

鎮座地:徳島市眉山町大滝山21

 

 

 

昭和十七年に奉納された狛犬、月は読めませんでした。

 

    

 

拝殿に向かって左前に手水舎。花手水です。

 

 

 

 

拝殿の前には、道真公の銅像とラジオ体操の銅像が置かれています。

 

    

 

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天神社中興の記

 

当天神社は菅原道真公を御奉祀申し上げ、初代蜂須賀家政公が阿波藩の

学問の神様として徳島の中心であるこの聖地にお祀りした由緒ある神社で

古くから文教の祖神として広く崇敬されています。

 

毎年七月二十五日の天神祭は、徳島の夏祭りの中心行事として、古くから

県内は勿論、遠く県外でも知れ渡っています。

 

昭和二十年七へj月の徳島空襲で、社殿其の他は全焼し、その後仮殿の

ままで歳月を経てきましたが、昭和四十七年、四十八年と二ヶ年を要して

復興し、その後複数回に亘り改修し、現在に至っています。

 

特に昭和六十一年、天皇陛下御在位六十年奉祝記念行事として神前に

大鳥居を建立、みそぎ石の敷設をして、其の他を整備しました。

 

尚、アメリカ・サギノー市で、日米合同で日本式茶室を建設することに

なり、昭和六十年起工式、同六十一年落成と二回にわたり渡米し、日本

人として初めての神式による祭事を現地で行い、あ名家で大好評を得て

鷺の―市長により感謝状と名誉市民証等を贈られ、光栄に思っており

ます。

 

昭和六十二年十月吉日 滝本栄次郎

                                       (境内碑文)

 

拝殿に向かって左に、境内社が鎮座されます。

左:九人大明神、右:稲荷神社。

 

 

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九人大明神

 

徳島市のメインストリート新町橋筋の天神さんといえば誰知らぬ者は

いない。が、そこに九人大明神が鎮座しているのを知らぬ者は多い。

 

諸願成就、とくに商売繁盛、入学試験に霊験あらたかといわれる。

交通至便な天神さんにお詣りをした道すがら九人大名明神に祈願をして

みませんか。

 

阿波の狸奉賛会

                         (境内説明文)

 

眉山に住み着いていた母タヌキが、9匹の子ダヌキを育てていて、これは

立派だということでお祀りされたそうです。

 

 

 

九人大明神に左に、「姫宮さん」が鎮座されます。

「姫宮さん」は、鷹さ3mほどの巨大な陰石(女陰)で、その中央に祠が

祀られています。

 

 

 

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姫宮さん

 

全国にも珍しいこの姫宮さんは、日本有数の奇厳として母なるふるさと、

と親しみ慕われ、絶妙にして幽玄なる存在は他に例を見ない秘物であり

ます。霊験あらたかなりと伝えられています。

 

特に恋結び・縁結び・子宝・夫婦円満に奇蹟的な効果があり、今や県内

は勿論広く県外からも崇敬者多く、徳島の名所の一つになっています。

 

眉山 姫宮神社

 

                                 (境内説明文)

 

本来の祈願内容は、陽石と同じく「子授かり」です。

転じて夫婦円満、縁結び、恋結び・・・。

 

こちらは夫婦磐。左が陰石、右が陽石。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

歩きの遍路道には、下のような案内シールが貼られています。

 

 

 

このシールの案内に沿って歩けば、間違いなく次の札所に辿り着けます。

このシールは「へんろみち保存協力会」によって貼られており、地図は

不用です。ただし、見落としたら道に迷ってしまいます。

まあ、慣れてくるとシールが張られそうな場祖はわかってきますけど。

 

「へんろみち保存協力会」は、遍路道の地図も発行しています。

この地図は、歩き遍路に特化しており、読み慣れるととてもわかりやすい

のでお薦めです。宿泊施設も全て掲載されています。

 

 

自働車の場合は、道路標識に寺の案内が書かれています。

とはいえ、こまやかには書かれておりませんし、途中で案内板が

無いこともありますので、カーナビが安心です。

 

極楽寺は、JR高徳線:阿波川端駅から北東へ1㎞のところに在ります。

 

 

住所:徳島県鳴門市大麻町檜字段の上12

 

地図には、「ドイツ村」・「第九の里」といった文字が見えます。

坂東は第一次世界大戦後にドイツ兵捕虜収容所がありました。

捕虜に対して極めて寛容的な対応をしたとされる収容所で、ドイツ兵は

徴兵される前の職業の経験を活かして、パン造り・ウイスキー造り・

野菜栽培・鍛冶・製靴等々の活動を行い、地域の人々に製品を販売して

おりました。

 

とはいえ、日本人とゲルマン人の間には当然ながら民族の壁があり、

トラブルもありました。

収容所の兵士たちと管理者・地域の人々との交流の様子は、映画

『バルトの楽園』(主演:松平健)で描かれています。

 

捕虜たちの楽団によって 『交響曲第9番 歓喜の歌』(第九)が日本で

初めて演奏された、というのも映画のテーマの一つになっています。

収容所跡地の一部 (1/3) が「ドイツ村公園」となっており、初めての

お遍路で立ち寄りました。

捕虜が作ったアーチ形石橋、収容所で亡くなった捕虜の慰霊碑などが

あります。

 

 

    

 

仁王門をくぐった景色。

 

 

右に弁天社。

 

 

その隣りに手水舎。

 

 

本堂。

 

 

 

四国八十八箇所霊場会HPの記事を転載します。

 

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宗派 高野山真言宗

本尊 阿弥陀如来(伝弘法大師)

開基 行基菩薩

創建 奈良時代(710〜793)

真言 おん あみりた ていせい からうん

 

極楽寺の歴史・由来

 

行基菩薩の開基と伝えられているが、弘仁6年(815)、42歳の弘法大師が

この地で三七日間『阿弥陀経』を読誦し、修法された。

その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して

本尊とされた。

 

この阿弥陀如来像は、尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達した

という。

漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮った

という故事から、「日照山」と号した。

 

その後、天正年間(1573〜92)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、

万治2年(1659)、本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。

 

三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門をくぐると極楽浄土を

イメージしたような庭園が広がる。

44段ほどの石段をのぼった正面に本堂がある。

 

その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。

大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれた

という由縁によるもので、安産祈願に霊験があるとされている。

 

弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年余り、高さが約31m、

周囲約6mもある霊木である。

触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。

鳴門市の天然記念物に指定されている。

千古の風雪に耐えてきた巨杉だけに、巡礼の折にはぜひ触れてみたい。

 

 

 

本堂に向かって左前に、弘法大師お手植えの長命杉が聳えています。

 

 

 

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大杉

 

寺歴によると、真言宗祖弘法大師が四国霊場開創の折、当山において

21日間修法を修せられ当山を末永く守護せよとの祈りをこめて、この地に

大師自らお手植えされたと記録されている。

爾来1000余年の風雪に耐え実に雄大となった大杉は、参詣者から長寿を

授かるといわれ、別名長命杉と呼ばれている。

 

                                      (境内説明文)

 

本堂に向かって右に観音堂。

 

 

本堂と観音堂の間に、大師堂へむかう石段があります。

 

 

 

 

 

境内から眺めた仁王門。

 

 

 

以上。

20年程前、歩きで88箇所を参拝し、2度目は別格20箇所を含めて

108ヶ所を歩きで参拝しました。

それから海外で働いたり、日本のあちこちで働いたりで、四国遍路からは

すっかり遠ざかっておりました。

 

今回、「別の用事」をしながら八十八箇所及び別格二十箇所を参拝すること

にしましたが、「別の用事」にかなりの時間を要するため、自働車で参拝すること

にしました。

また、時間の都合があり、「通し」ではなく「区切り」で巡拝しますので、札所番号

通りの掲載にはならないところがあります。

 

和歌山港。徳島港行きのフェリーです。

 

 

二時間半で徳島港へ。

 

 

まずは徳島ラーメンの有名店「光」で腹ごしらえ。

 

 

チャーシュー、スープがあっさりしているのが、徳島ラーメンの特徴。

おっさんの胃にも優しいです。

 

 

一番霊山寺は、JR高徳線:坂東駅から北西へ500mのところに在ります。

 

 

住所:徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126

 

お遍路道具一式は、駐車場の隣りにある納経所で揃えることが出来ます。

 

 

    

 

 

左に手水舎。

 

 

 

手水舎の後方に多宝塔。

応永年間(1394〜1428)の建造で、五智如来像が祀られています。

 

 

本堂。

 

 

四国八十八箇所霊場会HPの記事を転載します。

 

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宗派 高野山真言宗

本尊 釈迦如来

開基 行基菩薩

創建 天平年間(729〜749)

真言 のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

 

霊山寺の歴史・由来

 

四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。

この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、

「同行二人」の長い旅となる。

 

縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。

弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地

で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の

救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。

 

その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けて

いる霊感を得た。

大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と

似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・

霊山寺」と名づけられた。

 

このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから

四国八十八ヶ所の第一番札所とさだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと

伝えられる。

誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな銅造である。

 

往時は阿波三大坊の一つとされ荘厳な伽藍を誇った。

しかし天正10年(1582)、長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。

その後、阿波藩主・蜂須賀光隆公によってようやく復興したが、明治24年

(1891)には出火により本堂と多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。

以来、100年の努力で往時の姿となっているが、おおかたが近年の建物

である。

 

別格本山。

地の利を生かした寺観の配置は妙で美しく、お遍路さんに彩りを添えて

いる。

 

 

 

本堂に向かって左前に、不動明王が祀られています。

 

 

 

大師堂は修理中。

 

 

 

 

以上。

三船神社は、JR和歌山線:下井坂駅から南へ3.5㎞の所に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:紀の川市桃山町神田101番地

 

三船神社の旧鎮座地 (青マーク)は、三船神社(赤マーク)の参道入口から

南へ200mほどのところに在り、古宮が鎮座されます。

 

 

 

 

 

三船神社の参道。

 

 

 

 

 

参道の右に舞殿。

 

 

 

 

拝殿に向かって左前に手水舎。

 

 

 

本殿、国指定の重要文化財です。

 

 

 

 

本殿前の狛犬。

 

    

 

摂社、国指定重要文化財。

 

 

 

観光地でもなく、参拝者もいない神社で、このような素晴らしい社殿に

驚きました。

 

和歌山県神社庁HPの記事を転載します。

 

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主祭神 木霊屋船神 太玉命 彦狭知命 

配祀神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 三筒男命 丹生都比売命

      高野御子神 丹生神社 高野神社

 

本殿(国指定重要文化財) 

本殿(木造檜皮葺三間社流造 27,91㎡)

 

摂社・丹生明神社本殿(国指定重要文化財) 

摂社・丹生明神社本殿(木造檜皮葦一間社隅木入春日造 6,92㎡)

 

摂社・高野明神社本殿(国指定重要文化財)

摂社・高野明神社本殿(木造檜皮葺一間社隅木入春日造 6,92㎡)  

 

由来

 

当社は、人皇十代崇神天皇の皇女豊入日売命の創祀と伝えられ、

鳥羽法皇、美福門院の御信仰もあつく、古くから安楽川荘中の産土神として

祀られた社である。

 

『紀伊国神名帳』 には 「正一位御船大神」 と記され、神田浦垣に奉祀

されたのが初めといわれる。

本殿には木霊屋船神、太玉命、彦狭知命、摂社には丹生都比売命、

高野御子神が祀られ、明治の末ころから旧安楽川村四ヶ大字の各神社

祭神を合祀している。

 

現在の社殿は、天正のはじめころ社殿が焼失したのち高野山座主木食

応其上人により天正十九 1591) 年に本殿が再建され、摂社はやや

遅れて慶長 1599) 年の造営になるものである。

 

3社殿は全体に保存がよく、各所に種々の彫刻が施されたうえ極彩色に

いろどられ、和歌山県下における華麗な桃山時代の形式、手法を示す

社殿として価値のある遺構である。

 

昭和四十七月より2ヶ年にわたり、文化財保護法による解体復原

修理が行われた。

またその後、平成十五年よりヶ年にわたり、屋根葺替・塗装修理が

行われた。

 

 

 

御社名が三船、御祭神から、ベースは住吉神社なんですかね?

 

社殿からの眺め。

 

 

 

以上。

 

 

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調月大歳神社の由来

 

主祭神 大歳神

 

配祀   大山津美神(素戔嗚尊)  大市姫神 大気津姫神 市杵嶋姫神

      芝原明神  若宮八幡宮  春日天神 春日稲荷大社 吉仲御庄

 

主祭神・大歳神は弥生の太古、素戔嗚尊と櫛稲田姫の第五子三男として

出雲でお生まれになり、西日本・九州の倭国統一にあたり父・素戔嗚尊を

支えて果敢に貢献されました。

 

父神の崩御後、饒速日(にぎはやひ)と改名し、北九州から物部族を率いて

讃岐・播磨を経て河内に東遷し日本(ひのもと)を命名されました。

更に大和から東北地方まで統合し、日本王朝・大和王国を築かれ、日本

建国の祖となった覇王です。

 

稲作や農業開発にも尽力された功績を称え、穀物神としても知られています。

西日本では多数の大歳神社、大和では大神神社、大和神社に祀られ、

大物主神、奇甕玉(くしのみかたま)尊、賀茂別雷(かもわけいかづち)大神、

日本大国魂(おおくにたま)大神、事解之男(ことさかお)尊など、別名で全国

各地で祀られています。

 

また天照魂神として伊勢天照御祖神社や各地の天照魂神社に祀られ、

諡号は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で、大歳御祖皇大神として祀る

神社もあります。

 

配祀神・大山津美神は大山祇神とも書かれ、大歳神の父・素戔嗚尊

(須佐之男命)の別名です。

大市姫神は素戔嗚尊と娶(みあ)い市杵嶋姫を生んだ母神です。

市杵嶋姫神は銚子の口の氏神・厳島神社の祭神で、明治四十三(1909)年

当社に合祀されました。

大気津姫神は市杵嶋姫と異母姉妹で、ともに素戔嗚尊の御子神です。

 

                                    (境内説明文) 

 

大物主神、奇甕玉尊、賀茂別雷神、日本大国大神、事解之男尊

大歳神の別名であり、素戔嗚尊崩御後は饒速日命と名を変えた・・・?

大山祇神は素戔嗚尊の別名・・・?

大気津姫神は市杵嶋姫と異母姉妹で、ともに素戔嗚尊の御子神・・・?

 

この由緒書きは、『日本書記』『古事記』に書かれる神々の系譜とは

全く異なる記述内容です。

 

和歌山県神社庁HPの記事を転載します。

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調月の大歳神社祭神は大市姫命で素盞鳴命の御子で兄神は大国主命、

弟は五十猛命の妹神、次に宇迦の御魂神を生し給える事と『古事記』に

書いてある。
『神名帳』に伊勢国安農郡にある大市神社と同神である、故に大歳神を

負えるなり。

大歳神とは市比売神にて御名は天照大神より賜った名なり、大は称名、

年は田寄にて、穀を取収る事なり、大歳は五穀の事に大なる功座の神様

である。
大歳神は御父神の勅を奉じて、筑紫の国より五穀を播き始め、全国限なく

播種し終り、当地に鎮り給う、当地最古の神である。

天皇の朝紀の男磨呂宿稗調月は、当郷にきたり開拓し調月郷と名づけ

耕作の道を教え、五穀豊作を祈らんが為、即位11年当地今山

(今日の今上谷)称名ごろさわに、大歳明神を祭り、当地より千数百年、

其の後神亀726)年正月聖武天皇古野より当社へ御祈願あり、

以来天平年間、行基菩薩の発願により神殿其の他を建立する。

天平年間行基菩薩は、元は金屋谷にありし大日寺を今日の寺前に移した。
又、大日寺の昔の瓦の巴のところに揚羽の蝶に下に月の模様がある。
蝶月すなわち調月なるべしとある。

釣鐘の築鐘は、今から約700余年前建治1277)年鋳造で、鎌倉時代

の物にて県文化財に指定されている。
鐘の銘に

 「紀州吉仲御庄大歳宮の鐘なり 建治三年鎌倉時代丑九月十四日、

大工河内国平重永」

とある。

寛治1090)年後白河法皇熊野大社参拝の御時、当社へ臨幸あり、

又平清盛熊野社参拝下向途次、当神社へ参拝したりと、古文書高野山

下附の書巻物に明記されている。

 

 

 

 

境内に掲げられた由緒書きよりも、多少整理された内容になっています。

とはいえ、納得できる内容ではありません。

 

由緒書きの誤りの一部を指摘すれば・・・

 

『古事記』によれば、須佐之男命は、大山津見命の子の足名椎(あしなづち)と

その妻の手名椎(てなづち)が、八岐大蛇に娘の櫛名田比売(くしなだひめ)を

食われてしまうと泣いていたため、八岐大蛇を退治し、櫛名田比売を妻に

します。

櫛名田比売との間に八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)が生まれました。

その後、大山津見神の子である神大市比売(かむおおいちひめ、=大市姫)

との間に大年神と宇迦之御魂神が生まれます。

 

八島士奴美が大山津見命娘の木花知流比売(このはなちるひめ)を妻として

生んだ子は、布波能母遅久奴須奴 (ふはのもぢくぬすぬ)。

 

布波能母遅久奴須奴が、淤迦美(おかみ)神の娘である日河比売(ひかわひめ)

を妻として生んだ子が、深淵之水夜礼花(ふかふちのみずやれはな)。

 

深淵之水夜礼花が、天之都度閇知泥(あめのつどへちね)を妻として

生んだ子が淤美豆奴(おみづぬ)。

 

淤美豆奴が、布怒豆怒(ふのづの)の娘である布帝耳(ふてみみ)を妻として

生んだ子は、天之冬衣(あめのふゆきぬ)。

 

天之冬衣が、刺国大(さしくにおお)の娘である刺国若比売(さしくにわかひめ)

を妻として生んだ子が、大国主神(おおくにぬしのかみ)。

 

つまり、大国主神は須佐之男命の来孫(らいそん、耳孫 じそん)

であり、五代後の後裔です。

 

神社の伝わる由緒は、かならずしも『記紀』に沿っているわけではなく、

その神社の伝承が書かれており、だからこそ面白く、各地の神社を巡る

楽しみの一つです。

 

この由緒書きに書かれている内容は、本当に神社に伝わっているもの

なのだろうか?

 

割り拝殿からの眺め。

 

 

以上。

大年神社は、JR和歌山線:岩出駅から南へ3㎞、調月小学校の西側に

鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:紀の川市桃山町調月(つかつき) 1110番地

 

御神域は白い塀で囲まれています。

 

 

 

鳥居をくぐった右に手水舎。

 

 

 

参道の両側に御神池。

 

 

    

 

割り拝殿を抜けると広い境内。

 

 

    

 

 

狛犬の奉納時期は不明です。

 

    

 

本殿は、小石をぎっしり積んだ塀で囲まれています。

このような塀は初めて遭遇しました。

 

 

 

いつもなら、ここで御祭神や御由緒を記述するのですが、今回だけは先に

境内社を参拝する事にします。

というのも、この大歳神社の御祭神や由緒などは、独特の記述が掲げられて

いるからです。

 

本殿前の石段を降ります。

本殿に向かって左に、仏像が祀られた祠があります。仏像名は不明。

 

 

 

本殿に向かって右に、境内社が鎮座されます。

 

 

左から、赤根天狗。

 

 

開運大楠大明神。

 

鐘楼。

和歌山県指定文化財の梵鐘:建治三年(1277年) 鋳造 が吊られています。

 

 

 

 

鐘楼の前に、梵字が彫られた石塔祀られています。

 

 

 

読みづらいですが、梵字の始まりの文字、「あ字 (あじ)」 だと思います。

格好よく彫ったつもりでしょうが、下手ですね。

梵字に慣れていない人が書いた文字を、忠実に彫ったのかもしれません。

阿字は、全ての梵字の中で基本となる文字で、「大日如来」を表す重要な

文字です。大日如来を祀っているということなのでしょう。

 

稲荷神社。

 

 

続く。

大国主神社は、和歌山電鉄貴志川線:貴志駅から南へ400m、

貴志川の畔に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:紀の川市貴志川町国主1番地

 

左は貴志川の川原に降りる道、右が参道。

 

 

 

 

 

車輪が付いた船が、左に置かれています。神事に使われるのでしょうね。

 

 

 

拝殿に向かって右前に、二階建ての舞殿があります。

 

 

拝殿に向かって左前に手水舎。

 

 

 

 

 

狛犬の奉納年は不明、八月は読めました。

江戸末期~明治初期と思われます。

 

    

 

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由緒書

 

御祭神 大国主命 天照皇大神 少昆古那命 権大神 

      市杵島比売大神 (境内社)

 

貴志川左岸にある陽向山に鎮座する大国主神社は、通称「おくにっさん」と

呼ばれ、「縁結びの神」・「福の神」として古来より上下の崇敬甚だ厚く、

『続風土記』によると、大国主命が八十神等の危難から逃れる為、紀ノ国

大家昆古神 (伊太祁曽神社) のもとへ赴く途中、当地に立ち寄られた事を

由緒として祀られたのが始まりとされ、本国に大国主命を祀る所多きも、

当社其の本宮なるべしとあります。

 

また、『紀伊国名所図会』には、嵯峨天皇神のお告げにより弘仁九年

818年)当神社を御造営になり、畏くも遥々行幸あそばされ、境内に白槇を

お手植えになられたとあり、健久宇六年(1195年)年源頼朝により

社殿再建がなされたとあります。

 

御鳥羽上皇 御歌

 

 ふたまたや 又二股の 川中に しるしの鳥帽子 われは立ておく

 

明治時代に合祀された権大神は、貴志谷を開拓した鎌倉時代の貴志正平を

農耕の神としてお祀りしています。

 

鎌倉時代から続く大飯盛物祭は、神社近くの国主淵に住む龍蛇の鎮魂の為、

約六千個の餅を取り付けた鷹さ5m、幅3mの大きな握り飯に見立てた盛物を

神社に奉納する神事で、天下の奇祭として有名です。

 

 

                                       (境内説明文)

 

 

拝殿に向かって左に、厳島神社が鎮座されます。

 

 

 

本殿に向かって右後方に、忠魂碑が建立されています。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

貴志駅には「いちご神社」・「おもちゃ神社」・「ねこ神社」が鎮座されており、

ねこ駅長のミュージアムもあります。

参拝しようと思いましたが、十代・二十代の若者ばかりがたくさんおりました

ので、2010年に新築された「ねこ型駅舎」の撮影だけして、そこそこに帰って

参りました。

 

 

以上。