名鉄西尾線:堀内公園駅です。

 

 

桜井神社は、堀内公園駅から東へ700m、途中に堀内貝塚があります。

 

青マーク:堀内貝塚

赤マーク:桜井神社

 

 

 

鎮座地:愛知県安城市桜井町桜林17

 

道ばたに堀内貝塚の説明パネルがありましたので、掲載しておきます。

 

 

 

 

 

 

桜井神社は式内社です。小さな丘の上に鎮座されています。

創祀されたころのは、海岸線は今よりは近くにあったのでしょうね。

 

 

 

 

左に手水舎。

 

 

 

龍というよりもワニ。

 

 

 

 

大正九年十月に奉納された狛犬。

 

    

 

神牛は昭和五十八年の奉納です。

 

 

式内社 比蘇神社 三河国 碧海郡鎮座 論社

現社名 桜井神社

祭神 伊弉諾尊 伊弉册尊 菊理媛尊

配祀   天照皇大神 八幡大神

合祀   火之迦具土神 火産靈神 應神天皇 倭姫命 菅原道真

社格 県社

 

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桜井神

 

市指定史跡 三河三白山・桜井神社

昭和43年4月1日指定

 

三河三白山とは、上条白山媛神社、大岡白山神社、桜井神社の総称

です。

徳川家康の祖父松平清康は出陣にあたり、これらの神社に武運長久を

祈願したといいます。

家康もそれにならってこれらの三社に社領を寄進しました。

 

この神社の由来は、極めて古く、平安時代以前にさかのぼります。

「桜井天神」「神明社」「白山社」等と名乗った時期もあり、江戸時代

には、「桜井権現」とよばれ、現在は「桜井神社」と改称されています。

 

                                    (境内説明文)

 

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桜井神社本殿

 

市指定建造物 桜井神社本殿

昭和40年11月3日市指定

 

桜井神社は、平安時代の「神名帳」に従五位桜井天神と記載されている

古社であります。

東棟から、1527年(大永)に桜井城主松平親房が社殿

(当時、神明社)を造営し、 1610年(慶長15)に米津清右衛門親勝が

修築し、白山社としたことがわかります。

 

本殿は、流造で、切妻造、平入りの屋根に 向拝をつけ一流れにしたもの

です。

後流れと前流れが不均衡になるのを、曲線で巧みに均衡を保っている

ところに特色があります。

 

 

正面は三間、側面は一間、脇障子は板張りで、猪目懸魚の左右の

巻き込みが大きいのは、後年の修理によるものとされています。

蟇股などの随所に室町時代の神社建築の様式をとど める貴重な

建造物です。

 

 

                                      (境内説明文)

 

拝殿に向かって左前に、弁財天社 (厳島神社) が鎮座されます。

 

 

 

その左に、稲荷神社・山神が鎮座されます。

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

安城神社から東へ向かっています。

花ノ木町は、新実南吉の「花のき村と盗人たち」の舞台です。

通りには、カラーマンホールが沢山設置されていました。

 

 

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童話「ごんぎつね」などで知られる作家、新美南吉は昭和13年から5年間、

安城で教師として働くかたわら創作活動に励みました。

 

本マンホール蓋は、南吉が安城時代にのこした童話「花のき村と盗人たち」

の一場面を描いたものです。物語の内容は、花のき村を訪れた盗人たちが、

少年から信用された嬉しさに涙を流し、正しい心を取り戻しますが、実は

その少年はお地蔵様であったというもの。

 

物語の舞台とされる安城市花ノ木町周辺は現在、図書情報館などの複合

施設「アンフォーレ」(平成29年6月オープン)を拠点としたまちづくりが進行

中で、本マンホール蓋はその周辺に設置されています。

 

                             (マンホールカードの説明文)

 

新見南吉は愛知県半田市の出身で、記念館は半田市にあります。

「花のき村と盗人たち」は、青空文庫で読むことが出来ます。

 

 

 

半田市岩滑西町 新美南吉記念館 

 

 

 

半田市岩滑西町 新美南吉記念館 

 

 

 

南明治八幡社は、JR安城駅から南西へ600mの所に鎮座されます。

 

青マーク:安城神社・七夕神社

赤マーク:南明治八幡社

 

 

 

鎮座地:愛知県安城市花ノ木町13-2

 

本殿。

 

 

 

 

右に山車庫。

 

 

山車庫の左に手水鉢。

 

 

 

 

 

大正十二年四月に奉納された狛犬。

 

    

 

 

 

安城市観光協会 HPの記事を転載します。

 

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地域の方に「八幡さん」と呼ばれ、南明治中心市街地発展の象徴として鎮座して

います。区画整理事業により、本殿・神楽殿・社務所が新しくなりました。

 

 

 

南明治八幡社のHPには、御由緒は書かれてありませんでした。

愛知県神社庁にじゃ、北明治八幡社は記述されていましたが、南明治八幡社は

記述されていませんでした。神社庁に所属していないのかもしれません。

 

拝殿に向かって右前に神楽殿。

 

 

 

    

 

拝殿に向かって左に神宮遥拝所。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

堺市が政令指定都市に移行した記念のマンホール。

南蛮船市の木ツツジ、市の花ハナショウブが描かれています。

 

 

多治速比売神社は、南海泉北線:泉ケ丘駅から菱へ1.5㎞、

荒川公園に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:大阪府堺市南区宮山台2-3-1

 

 

 

参道の途中、左右に梅園があります。まだ咲き始めです。

 

 

 

 

蝋梅も同じ時期に咲き始めていました。

蝋梅が咲いて、終わりかけた頃に梅が咲く、というイメージがあります。

気候変動の影響なのかな。

 

 

 

 

 

文政十一年八月に奉納された狛犬。

 

    

 

左の狛犬の後方に、水天宮が鎮座されます。

 

 

右に手水舎。

 

 

 

手水鉢の横に亀。

 

 

手水舎からの眺め。

 

 

 

天保十三年八月に奉納された狛犬。

 

    

 

本殿 (境内の説明板の写真です。)

 

 

式内社 多治速比売命神社 和泉国 大鳥郡鎮座

現社名 多治速比売神社

社格 郷社

 

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多治速比売神社

 

延喜式内社で、多治速比売命を主神として、素盞鳴命・菅原道真を併祀して

います。荒山(こうせん)の宮の名でよく知られています。

多治速比売命は、日本武尊の妃と考えられています。

また近世には天神あるいは高山天神とよばれていました。

 

明治40年に大庭寺の厳島神社、翌41年に太平寺の鴨田神社、翌42年に

伏尾の八幡神社、翌43年には平井の坂上神社、和田の八幡神社の計五社

が合祀されました。

 

本殿は、国の重要文化財に指定され、解体修理の時に天文8年と10年の

墨書が発見され、文政2年の棟札の写しには、天文12年2月に再建された

と書かれています。

天文8年から12年にわたって建てられたことが明らかになりました。

八つの蟇股と向拝の二つの手挟(たばさみ)にそれぞれ彫刻がありますが、

中でも手挟右面の芭蕉にカマキリの彫刻は大そう珍しいものです。

 

                                      (境内説明文)

 

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式内 多治速比売神社 由緒

 

御祭神 素盞嗚尊    (病気平癒の神)

      多治速比売命 (厄除・安産・縁結びの神)

      菅原道真公  (学問・技芸の神)

 

当神社は、延喜式内社で28代宣化天皇(530年)の頃の創立と伝えられて

いる。

明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、その後神仏分離

され、明治末期に小字にあった鴨田社・阪上社・八幡社・弁天社、など、

当境内に合祀された。

 

境内末社に天照社・住吉社大神社・春日社・熊野社・白山社・福石神・

稲荷社・水天宮など、祀られ総称して荒山(高山)の宮と呼ばれて厚い信仰を

得ている。

 

本殿は、重要文化財で、室町時代の優雅な建築様式を残している。

古くは二十町歩(約六万六千坪)の社有地があったが、戦後農地解放にて

半ば、昭和38年大阪府の泉北ニュータウン開発計画により太半がかかり、

社殿神域を大改築整備し祭礼日には隆盛を極めている。

 

                                      (境内説明文)

 

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式内社 鴨神社 和泉国 大鳥郡鎮座

現社名 鴨田神社

御祭神 加茂別雷神

旧社格 村社

      明治同41年1月多治速比売命神社へ合祀

 

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式内社 坂上神社 和泉国 大鳥郡鎮座

現社名 阪上神社

御祭神 阿智使主

旧社格 村社

      明治43年1月多治速比売命神社ヘ合祀

 

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本殿に向かって左に、境内社が鎮座されます。

 

 

左から、白山社、熊野社、春日社。

 

 

その左に、厳島神社が鎮座されます。

 

 

その左に、神宮遥拝所があります。

 

 

拝殿に向かって左前に境内社が鎮座されます。

 

 

稲荷神社。前に置かれた石は、陽石 (大)、陰石 (陰石)だと思います。

 

 

屋台の後方に福石が祀られています。

 

 

左が陰石、右が陽石。

 

 

陰石の上面には、盃条穴が多数彫られています。

どれも浅く、途中で投げ出した感じです。

 

 

陽石のトップには、溝が彫られてます。

 

 

福石のご利益は、五穀豊穣・商売繁盛・縁結び・子授け・夫婦円満、と

書かれてありました。

隣に福石に関する昔話が掲げられていました。

 

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福石にまつわる昔話

 

むかし、むかし和田村 (堺市和田) にたいそう夫婦仲のいいお百姓さんが

住んでいました。

二人は働き者だったので、どこの田んぼよりもたくさんのお米が取れて

いましたが、この家には貧乏神が住みついていたので、暮らしはいっこうに

楽になりませんでした。

 

「どうかここから出ていってもらえんやろか。」

「阿保ぬかせ。昔から住んどる貧乏神じゃ、

 山ほど米があるのに誰が出ていくかい。」

 

いくら二人が頼んでも聞き入れてもらえません。

とうとう夫婦は力ずくで追い出そうと、貧乏神に飛び掛かりました。

ところがこの貧乏神は、そこらのやせ細った貧乏神と違って栄養満点で

丸々と太っていたので、どうにもかないませんでした。

 

そこで女房は、着物をさっと脱ぐなり、七色もあざやかな波模様の腰紐を

貧乏神の前に突き出しました。

さすがに貧乏神も目がくらみ、力が抜けてしまいました。

神様も色香には弱かったのでしょう。

この隙に二人は貧乏神を抑え込んでしまいました。

 

「俺も好きで貧乏神に生まれとうはなかった。何の因果か。

 来世は福の内と言われる神様に埋まる変わるでな。ほなさいなら。」

 

と言って丸い石となって消えていきました。

其の後、この福石のおかげでお百姓さんはみるみるうちに村一番の

長者になりました。

夫婦はこの福を自分達だけが授かったのではもったいないと思い、

この福石を多治速比売神社に寄進したということです。

 

今でもこの石は、福石として大切に祀られています。

 

福石社神事

 

境内末社の福石社の神事で、「福石おこなひの式」といわれる。

板木 (はんぎ) で作られた御札を柳の枝日本でススキの穂、

榊の葉と共に挟み、神前に供える。

これを「牛王杖 (ごうずえ)」と称し、祈祷後、家に持ち帰り、苗代田

の水口に挿し立てておけば、イナゴなどの虫害を防ぐことが出来る

という農業神事である。

 

                                (境内説明文)

「あざやかな波模様の腰ひも」というのが、何か性的なことがらを示して

いるのでしょうが、よくわかりません。

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

JR東海道本線:刈谷駅前のマンホール。

 

 

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市制施行70周年記念事業として一般募集したデザインをもとに製作した

マンホール蓋です。

上部には夏の風物詩となっている万燈祭と全国でも有数の来場者数を誇る

刈谷ハイウェイオアシス、下部には市の花であるカキツバタと名産品である

スイカをデザインしました。

万燈祭は、万燈と呼ばれる高さ約5メートル、重さ約60キロにも及ぶ巨大な

張子人形を笛や太鼓の音に合わせ若衆が一人で担ぎ舞い踊る様子から

「天下の奇祭」と呼ばれ、愛知県の無形民俗文化財に指定されています。

このカラー蓋は、市内の公園や駅前広場などに設置しています。

刈谷市の名所巡りと併せて探してみてください。

 

                            (マンホールカードの説明文)

 

マンホール広告。

 

 

 

刈谷市の花:かきつばたが描かれています。

 

 

JR東海道本線:安城駅に移動しました。

 

駅前のマンホール。

 

 

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童話「ごんぎつね」などで知られる作家、新美南吉は昭和13年から5年間、

安城で教師として働くかたわら創作活動に励みました。

本マンホール蓋は、南吉が安城時代にのこした童話「花のき村と盗人たち」

の一場面を描いたものです。物語の内容は、花のき村を訪れた盗人たちが、

少年から信用された嬉しさに涙を流し、正しい心を取り戻しますが、実は

その少年はお地蔵様であったというもの。

物語の舞台とされる安城市花ノ木町周辺は現在、図書情報館などの複合

施設「アンフォーレ」(平成29年6月オープン)を拠点としたまちづくりが進行

中で、本マンホール蓋はその周辺に設置されています。

 

                             (マンホールカードの説明文)

 

新見南吉は愛知県半田市の出身で、記念館は半田市にあります。

「花のき村と盗人たち」は、青空文庫で読むことが出来ます。

 

 

 

半田市岩滑西町 新美南吉記念館 

 

 

 

半田市岩滑西町 新美南吉記念館 

 

 

 

安城市の七夕祭りが描かれています。

安城市は、平塚・先代と並んで三大七夕祭りに数えられるのだそうです。

 

 

自動販売機にも。

 

 

 

通りの並木にも七夕祭りの残り火が。

 

 

安城神社は、JR安城駅から南西へ1㎞、安城市民会館の隣りに鎮座

されます。

 

 

 

鎮座地:愛知県安城市桜町18-40

 

 

 

参道の左に手水舎。

 

 

 

手水舎からの眺め。

 

 

 

昭和五十七年十月に奉納された狛犬。

 

    

 

安城神社は、護国神社です。

1800余柱の英霊。

郷土の偉人、伊豫田与八郎命 中川覚衛門命 柴田助太夫命が」祀られて

います。

 

本殿に向かって右に七夕神社が鎮座されます。

 

 

 

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七夕神社由来

 

祭神 猿田彦大神

    天宇売命

 

御神徳

 

猿田彦大神は天孫降臨の時、天八街に待ち抑えて啓行をされ、天孫を高千穂

峯に導かれてから、天宇売命に送られて伊勢の五十鈴の川上に来られ、ここ

を中心に広く国土を開拓指導された地主の神で、皇大神宮が此の地に鎮座

されたのは天上からの幽契によると古書に伝えられて居ります。

 

大神は古来、物事のはじめに災害を祓い、万事最も古い方へ導き給うとされ、

特に地祭方除災除建築移転開業商工業の反映豊産開運に御神徳●●●●

であるとともに、このニ神端本朝に結びの神とされています。

                                          (碑文)

 

安城史の七夕祭りは、この七夕神社の祭事のようです。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

国道1号線を西へ向かいます。

橋の上から眺めた矢作川と矢作神社の御神域。

 

 

橋を渡った袂に、出合之像があります。

 

 

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出会之像  太閤伝説 日吉丸と小六

 

日吉丸 (後の豊臣秀吉) は、尾張国中村 (今の名古屋市中村公園) の木下

弥兵衛 (弥助) と妻のお仲の子で、八歳の頃から奉公に出されましたが、

十二歳の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。

 

家に変えることも出来ず、東海道を東へ下る途中、空腹と浸かれで矢作橋

の上で前後不覚で根て居ました。

ここに海東郡蜂須賀村 (今のあま市) に住む小六正勝 (後の蜂須賀小六)

という野武士の頭が、手下を連れてこの付近を荒し、矢作橋を通りかかり

ました。

 

通りざまに眠りこけている日吉丸の頭を蹴ったところ、日吉丸は

「頭を蹴り、一言も挨拶をしないのは無礼である、詫びて行け。」

ときっと睨みつけました。

 

小六は子供にしては読経があると思い、手下にするからその初手柄を見せよ

といいました。

日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、

邸内に入り扉を開けて、小六たちを不生き入れました。

 

目的を果たし逃げようとしたとき、家人が騒ぎ出しました。

日吉丸はとっさに、石を抱え井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」

と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行に

ついたといいます。

 

史実とは異なりますが、日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と

武将蜂須賀小六の人間的側面を語る物語として、今もなお私達の心に

一期続け、乱世の時代劇を垣間見る挿話となっています。この伝説を語り

継ぐため、ここに石彫を建立鵜するものです。

 

                                    (説明文)

 

石像に向かって左に、明治天皇御駐蹕の碑が建立されています。

 

 

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明治天皇御駐蹕の碑

 

旧笹屋こと寺田又次郎は、今の矢作町大字矢作字市場の矢作川堤防上

に在りました。

明治元年九月二十八日及び十二月十六日の二回、明治天皇がここで

御休憩されました。

この碑は紀元 (皇紀) 二千六百年記念に建てられたものです。

 

                                    (説明文)

 

名鉄:矢作駅から西へ700m、矢作川の土手の隣に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:愛知県岡崎市矢作町字宝珠庵1

 

矢作神社の鳥居。

 

 

入った左に、表忠記念碑が建立されています。

表忠碑は、日露戦争で散華された英霊に対して建立されます。

 

 

 

参道に向かって左に手水舎。

 

 

 

 

 

左に秋葉神社が鎮座されます。

 

 

参道をはさんだ対面に、陶器の日本武尊像が建立されています。

 

 

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日本武尊陶像

 

日本武尊は、その生涯を東奔西走し、日本の国を平定開拓された英雄で

あります。

『日本書記』によりますと、景行四十年 (四世紀頃) 東夷が反乱を起こした

ので、日本武尊を東方に派遣しました。

 

此の地 (三河国蓬里、よもぎのさと、」現矢作町) 出東夷と対戦したとき、

川の鳴かずにあった良質の矢竹でたくさんの矢を作り、突破したという

伝承があります。

後この川を矢作川と、また里の矢を矢作と解消しました。

 

この陶像は、皇紀2600年 (昭和15年) を記念して建立されたものです。

 建立   昭和十五年 (1943年)

 

                                     (境内説明文)

軍艦矢矧 ゆかりの神社 石碑。

 

 

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初代軽巡洋艦「矢矧 (やはぎ) 」 奉納模型

 

大正七年 (1918) 全世界を襲ったスペイン風邪。

死者は世界全体で2000万から4500万、日本では内地だけでも50万人

近くと言われる。

当時第一次世界大戦 (1914年7月~1918年11月) の歳ちゅうで、派遣

された軍隊が、パンデミック (世界的大流行) の原因となった。

 

日本の最初期軽巡洋艦「矢矧」は、南洋群島占領作戦に参加、大正七年

十一月、役目を終え、シンガポール港で交代艦「千歳」を待つ事3週間。

十一月二十一日・二十二日、帰朝を前に艦長の半舷上陸許可を得る。

(ここでスぺ院風に羅患)

 

十一月三十日、シンガポール港を出発しマニラに向かうが、患者頻発

激増。

乗務員総数471名ほぼ全員羅患史。4日には帰還兵1名死亡する。

 

十二月五日、マニラ入港。

副艦長以下セントポール病院に送院されるが、死者数48名の大惨事

となる。

 

大正八年一月八日、マニラ港出港。

一月二十五日、佐世保到着、同三十日、呉帰着。

九年九月七日、艦名と所縁ある (軽巡洋艦には川の名称が付けられた)

当社の分霊を「艦内神社」として奉斎する。

 

意義尾、乗務員の崇敬篤く、大正十年・十一年・十四年には、艦長以下

全員の正式参拝がある。

奉納された模型は、大正十年四月五・六日の参拝を記念し、乗務員に

よって製作され、同年十月の寄贈されたものです。

 

 

                                  (境内説明文)

 

日本におけるコロナ禍の始まりである、横浜港のクルーズ船を思い出し

ました。

 

 

大正八年十月に奉納された狛犬。

 

    

 

向かって左端に矢竹やぶ、右端に御神木が聳えています。

 

    

 

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矢竹やぶ

 

景行天皇の御代に、日本武尊が東方征伐の時、皇紀百七十五年頃、

素戔嗚尊をお祀りして、ここで矢竹をお作りになったので、矢矧神社

とよばれるようになったと云われています。

ここの竹はその時の名残で、「矢竹やぶ」と呼ばれています。

 

                                 (境内説明文)

 

 

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矢作神社 由緒

 

第十二代景行天皇の御代に、日本武尊が東夷御征伐の時、軍神として

素戔嗚尊をお祀りし、広前で矢を矧ぎ給いしため、社号を矢作神社と

称えた。社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。

 

永保三年 (1083) 源義家が陸奥守として奥州へ行く途中、日本武尊の

故事にならって参拝されたと伝えられる。

その後、建武二年 (1335) 新田義貞が足利尊氏との戦いで、戦勝を神前

に祈願した折り、社畔の石が鳴動した。

これは神のご加護が有ると信じて戦い、遂に勝ちを収めたといわれて

いる。伝えて 「うなり石」 として拝殿の西南に在る。

 

天文年中 (1532~54) 岡崎城主松平廣忠は祀田20石を置いたが、

当社は中古より矢作端改築毎に、城主及び普請奉行から奉幣寄進する

のが例であったという。

 

第一次世界大戦後、帝国軍艦矢矧の艦長以下船員一同の崇敬篤く、

艦内に矢作神社の分霊を奉斎して大祭を執行し、また兵員一同正式

参拝も行われ、軍艦矢矧の模型を奉納されている。

 

中古、牛頭天王と称したが、維新後旧名の矢作神社に復した。

明治五年九月十七日郷社となり、明治四十年十月には神饌幣帛料

供進神社に指定せられた。

秋葉神社には加具土命を奉祀す。

 

                                 (境内石碑碑文)

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

矢作橋駅。

 

 

駅前交番。

 

 

以上。

伊賀八幡宮から南下しています。

この通りには、ボーリングのピンのような石の人形が置かれています。

何のキャラクターかわからないのですが、岡崎市は花崗岩(御影石)の産地

であり、日本3大石品生産地の一つだそうです。

(他の2つは、香川県庵治町・牟礼町、茨城県真壁町)

 

 

 

岡崎城には、岡崎東照宮 (龍城神社) が鎮座されますので、参拝する予定

でしたが、順番待ちの参拝客を見てあきらめました。

岡崎城のさわりだけを紹介いたします。

 

 

 

大手門をくぐると、石の展示がされていました。

 

 

岡崎市のキャラクター:オカザえもん。ゆるキャラとは一線を引きます。

誕生日は姿勢記念日の1972年7月1日。身長180cm、体重60kg。

岡崎市内でときどき見かけます。

 

 

本多平八郎忠勝公像。

 

 

 

岡崎城天守。

 

 

20年前に放映されたNHK「連続テレビ小説」『純情きらり』に出演された

寺島しのぶさんの手形。

岡崎市は、『純情きらり』のロケ地だったそうです。

 

 

新田白山神社は、愛知環状鉄道線:岡崎公園駅から北東へ400mの

住宅街に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:愛知県岡崎市康生町345‐1 

 

 

 

左に手水舎。

 

 

 

 

正座をしているせいか、哀愁が漂っています。

 

 

手水舎から眺めた拝殿。

 

 

 

一対目の狛犬は、昭和十一年十月奉納。

 

    

 

二対目の狛犬は、昭和五年十月奉納。

 

    

 

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新田白山神社

 

当神社は、永禄九年 (1566) 徳川家康公が厄除開運祈願のため、上州の

新田 (現在の群馬県) より勧請されたものです。

上州の新田は、源氏である新田氏の縁の地であり、家康公が征夷大将軍

になる志を既にこの時期に偉大ていたことがうかがわれます。

 

江戸時代は岡崎城内の白山郭内にあり、岡崎城主の産土神として崇敬

されていました。

例祭は、腸内から獅子や御御輿が繰り出され、拝殿では子供たちによる

巫女の舞が奉納されます。

 

また、殊に有名なのが、夏越の神事で、六月三十日夕方、厄除け祈願祭

と茅野輪くぐり、自然ン石鳥居くぐりが、樹齢600年である御神木の大楠前

で斎行されます。

自然石鳥居くぐりは、全国でも珍しく、例が無いと云われています。

 

家康公二十五歳の厄除け祈願の時、病んでいた水疱瘡がこれにより完治

したという故事に習ったもので、毎年氏子を始め大勢の崇敬者で賑わい

ます。

尚、自然石鳥居の後方に扇形に彫刻された石があり、その要の穴から

鳥居越しに岡崎城天守閣を望む事が出来ます。

 

岡崎城に隣接し、家康公の産湯井の約400m、ニ十七曲にもあたる岡崎市

の中心部に鎮座する神社です。

 

                                      (境内説明文)

  

最後の「二十七曲」は、岡崎市HPに説明がありました。

 

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徳川家康公が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年

1590)8月。

同年10月には、豊臣側の田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備に

とりかかりました。

慶長6年(1601)に藩主となった本多家が城下町整備を引き継ぎ、矢作川

に初めて橋をかけ、菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れました。

変更が重ねられた東海道は、慶長14年(1609)以降、まちの防衛と街道筋

の伸長のために曲がりくねり、「東海道岡崎城下二十七曲り」と呼ばれる

街道となりました。

 

城下の道は、外敵には城までの距離を伸ばし、間道を利用して防衛する

ことができる屈折の多い道が常で、岡崎はその典型。

これが二十七曲りです。

吉政は10年かかって二十七曲りの城下町を造ったといわれていますが、

徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄

えていきました。

二十七曲りは、欠町、両町、伝馬通から籠田町を抜け、連尺通、材木町、

田町、板屋町、八帖町、矢作橋とつながっており、現在のまちなかに、

二十七曲りを示す碑を見つけることが出来ます。

 

 

 

本殿に向かって右に西観社が鎮座されます。

西国二十三箇所観世音菩薩を祀っているようです。

 

 

御神木と秋葉神社。

 

 

御神木の前に自然石を鳥居としています。

小さな鳥居をくぐって祈願をするというのは時々見かけますが、自然石を

鳥居に見立て、くぐって祈願をする、という野は見たことがありません。

 

 

秋葉神社。

 

 

平成十年十二月に奉納された狛犬。

 

    

 

 

白山神社の拝殿からの眺め。

 

 

以上。

岡崎天満宮は、名鉄:東岡崎駅から北東へ1.2㎞、岡崎市役所から北へ600m、

丘の上に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:愛知県岡崎市東蔵前町字火打山13

 

 

 

参道の左に神馬像。

 

 

大正十四年九月奉納の狛犬。

 

    

 

 

 

石段を登った左に手水舎。

 

 

 

石段の左右に神牛像。狛神牛です。

 

   

 

拝殿はもう一つ石段を登ります。左右に狛犬、奉納月日は不明。

 

    

 

石段に向かって左には、鷽 (うそ) の奉納場所が在ります。

 

 

 

天満宮には、鷽の取り替え神事をするところが有ります。

前年の災厄や凶事を嘘 (うそ) とし、本年の吉運を願って、新しい (うそ)

鷽に替えることで幸運を願います

 

お正月に参拝したため、参拝客が多く、拝殿・本殿を撮るのはやめました。

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御由緒書

 

御祭神 道臣命     病気平癒の神様

      菅原道真公 学業の神様

 

御由緒

 

建保二年第八十四代順徳天皇の御代、今から760余年前、宮中に夜毎

怪光物が現れ、また、皇女は非常にお悩みになられました。

勅命により、内裏の在番の武士本間重光というお方が、弓術を以って

怪光物を射落とされたところ、其の体は野狐でありました。

 

其の後皇女の御病気は益々重くなられ、宮中では医薬・まじないなど

色々と施されましたが、少しも良くなりません。

 

天皇はとても御心配に成られ、勅命により、本間三郎重光というお方は、

御自分の領地である当地 (参河国菅生郷北野里) 御社殿を造営なされて

建保五年八月二十三日に野狐を射落とされた弓弦を御神体としてお祀り

し、伴天神道臣命を勧請なされ、皇女の病気平癒を御祈願なされたところ、

大神様の御神徳により、皇女の御病気はすみやかに御回復なされました。

 

皇女は大神様に感謝をなさる為に、御自身尼僧になられ、一生大神様に

御奉仕なされました。

 

其の後、元禄三年今から280余年前、江戸湯島天神の別当菅原信祐

●●●方が九州の大宰府天満宮の菅相極飛梅の木で作られた菅公の

御神像を守像なされて大宰府より下向の砌り、岡崎の本陣中根甚左衛門

方に一宿なされました。

 

夜中御神像信祐の枕元にお達になり

 「一此処に昔より神の社がある。我を勧請せよ」

という不思議な神夢を見られました。

翌朝、御神像を守像なされて神夢の神社を尋ねられて、当神社に来られ

ました。

 

当神社の氏子等、この不思議な事に尊敬し、俄に社殿を改築して、吉日

良宸を選び定めて九月ニ十五日に御遷座祭を斎行し、菅原道真公を

合祀奉斎して社名を岡崎天満宮とする。

 

以来毎年九月二十五日を例大祭日と定め、祭礼日を変える事なく

例大祭を斎行しております。

また、学業の神様・病気平癒の神様として広く県外からも御神徳を

授かりに来られる参拝者が多数あります。

 

岡崎天満宮

                              (境内石碑 碑文)

 

建保二年は1215年です。

道臣命(みちのおみのみこと)は、天忍日命(あまのおしひのみこと)の後裔

で大伴氏の祖です

 

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岡崎天満宮

 

もちょは総持寺の鎮守として祀られていましたが、1690年、菅原道真公を

合祀して天満宮に改めました。

社務は総持寺が掌握していましたが、明治維新により分離されました。

 

祭礼は9月24・25日で、かつては花火の奉納があり、大変な賑わいを

見せていました。

境内には約千本の梅の木があり、季節になれば馥郁 (ふくいく) たる香り

が漂い、人の波が続きます。

 

                                    (境内説明文)

 

「馥郁 (ふくいく) たる」とは、良い香りが漂っている様。

 

 

 

拝殿に向かって右に、境内社に向かう道が在ります。

 

 

御社名不明。

 

 

拝殿に向かって右前に英霊神社(招魂社)が鎮座されます。

 

 

英霊神社の車線には、「金的中」の額が多数掲げられています。

「金的中」は、五穀豊穣や無病息災を願う神事として矢を射って、最初に

中央の1寸8分の的を当てた人のことらしいです。

 

 

その奥に御鍬神社が鎮座されまうs。

 

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

岡崎市のマンホールには、岡崎城、乙川、五百石船が描かれています。

 

 

市の花:サクラ、市の鳥:ハクセキレイ、乙川・矢作川で打ちあげられる

花火が描かれています。

 

 

鎮座地:愛知県岡崎市欠町字石ケ崎52-1

 

名鉄:東岡崎駅から東へ2㎞の住宅街に鎮座されます。

 

 

 

 

 

石段の途中に手水舎。

 

 

 

境内に進むと、左に祓い所があります。

 

 

 

奉納年月不明の狛犬、昭和初期と思われます。

 

    

 

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御祭神 

 

五男三女神         (主祭神)

 正勝吾勝々早目天之忍穂耳命

                (まさかつあかつかちはやのおしほみみのみこと)

 天菩卑命         (あめのおひのみこよ)

 天日子根命       (あまつひこねのみこと)

 活津日子根命      (いくつひこねのみこと)

 熊野久須昆命      (くまのくすびのみこと)

 多紀理昆売命      (たぎりひめのみこと)

 市寸島比売命      (いちきしまひめのみこと)

 多岐都比売命      (たぎつひめのみこと)

後世奉祀する祭神

 大日靈女命        (おおひるめのみこと) 天照大神

 大已貴命         (おおあなむじのみこと) 大国主命

 若宮大権現       (わかみやだいごんげん) 信康公

 築山神明宮       (つきやましんめいぐう)  築山五前

 

御由緒

 

当神社の創立は不詳であるが、往古より紀伊国熊野の里に居住した清和源氏

の流れを汲む鈴木一族が、源平の戦に加わり戦利無く、難を逃れて三河国

碧海郡桜井町に渡り住む。

 

其の後一族が別れて額田郡桜井村に移住すも、此の時日頃より崇敬する

熊野権現 (五男三女神) を同村義路美の森中に奉斎し、奥宮を同村北方の

山頂に祀る。

以来鈴木一族の氏神として尊崇されてきたが、村の発展と住民の増加等の

永い年月のすえ、欠町の鎮守として崇められてきた。

 

明治五年村社に列し、明治四十二年に神饌芸泊供進む神社の指定を受ける。

昭和四年に御鍬神社を本殿下陣に合祀し、昭和九年に欠町広見西通りより

欠町石ケ崎に移転遷宮をし、築山神明宮を本殿下人に合祀する。

 

築山殿の首塚は、今も境内の西側に老杉に囲まれて三百有余年の間、

静かに奉斎されております。

 

                                        (境内碑文)

 

社殿に向かって左にある築山御前首塚へ向かいます。

途中、御神木が聳えていました。

 

 

築山御前首塚。

 

 

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築山御前首塚。

 

築山御前は、関口刑部少輔義広殿の御息女瀬名姫で、今川義元の養女と

なり、家康公の御側室になられました。

長男の岡崎三郎信康公は、織田信長公の御息女徳姫を御正室に迎へられ

ましたので、母と嫁とは全くの仇敵となってしまいました。

 

徳姫の父信長公は、今や隆々の精力を有し天下を治めんとして居り、徳姫も

父の権威を背景に我侭の振る舞いもあり、家康公も信長公を恐れ浜松城に

移っても築山御前を迎えようとはせず、築山御前の怒りは火の如く燃へ、

信康公と徳姫を離開させようと狂乱に近き挙動もあったと思われる。

 

されど生害に値するほどの罪悪であっただろうか。

十二条の罪条により、天正七年八月二十九日築く山御前は浜松西来寺にて

御生害なされました。

 

其の後岡崎城代石川伯耆守菅生投村祐博寺境内に築山御前の御首を埋葬

し、築山神明宮を勧請する。

其の後正保三年、水野大監物殿欠村石ケ崎に御移しして現在に至る。 

 

戦国の世とはいへ、信長公の権威を恐れ我が妻我が子を亡くした家康公の

心中いかならん、あまりにもむごく悲しい出来事である。

当神社の氏子一同築御前の御霊がやすらかれと、御首塚を改築する。

 

昭和ご樹二年十月十八日 八柱神社 宮司 伊奈麻古登 氏子一同

 

                                        (境内碑文)

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

愛知県岡崎市朝日町 若宮八幡宮

 

岡崎市の中心地は、JR岡崎駅ではなく名鉄:東岡崎駅でした。

そこを流れる矢作 (やはぎ) 川。大きな川です。

東岡崎駅から東へ1㎞のところに、若宮八幡宮は鎮座されます。

 

 

 

 

鎮座地:愛知県岡崎市 朝日町字森畔12番地

 

住宅街の奥に鳥居が見えます。

 

 

石段を2回折れて境内へ。

 

 

 

鳥居をくぐった右に手水舎。

 

    

 

 

手水舎からの眺め。

 

 

 

大正十年十二月の奉納された狛犬。

 

    

 

 

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御由緒

 

御祭神 仁徳天皇

岡崎三郎信康公

 

当神社の創立年月日は不詳であるが、往古より竝栗 (なぐり) 天神と言い

仁徳天皇を奉斎する神社であった。

 

その後、天正七年九月十五日、徳川家康公の御長男岡崎三郎信康公は

織田信長の御口難により、遠州ニまた白にて御歳二十一歳をこの世の果と

自害なされ、御首は信長方へ実験の上、上岡崎へ御差戻しとなった。

 

いかに戦国の世とは言へ、家康公は涙をこらへ清水万三郎に仰せ付け

当地に奉埋する。

その後、岡崎城内には種々の怪異変化が度び重なり、諸人等は恐れ入り、

信康公の御霊を当神社に合祀する。

 

当時は信長の権力により、公には出来ず社名を菅生八幡宮と改める。

その後若宮八幡宮と改め、明治五年村社となる。

 

若宮八幡宮

                                     (境内説明文)

 

家康公・信康公ですが、信長。公は付けていません。そりゃ、そうだろうな。

 

種々の怪異変化は怨霊となった信康公のたたりとされ、仁徳天皇を祀る

天神に合祀、当時の地名 (東大阪市周辺) の菅生 (すごう) と、元々の

御祭神である仁徳天皇を示す若宮八幡宮から、菅生八幡宮と称され、

後に若宮八幡宮と改称されています。

 

仁徳天皇の仁徳をもって鎮まって戴きたい、ということなのだろうか?

 

信康公の首塚は、本殿に向かって右に在ります。

 

 

 

本殿に向かって左に境内社が鎮座されます。御社名は不明です。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

天気予報では、朝5時頃から9時頃まで雪が降るということでしたので、

カメラを持って参拝しました。

降雪量は少ないです.。

今冬、最初で最後の雪かな。

 

 

 

 

拝殿。

 

 

 

境内社:日向社。

 

 

 

祈祷殿。

大きさや社殿の配置は、拝殿とそっくりです。

拝殿は千鳥破風・唐破風。祈祷殿は千鳥破風だけです。

 

 

境内社:狭井神社の参道の隣にある池。

 

 

境内社:厳島神社。

 

 

狭井神社。

 

 

展望台から眺めた桜井市。遠くに耳成山が薄らと見えます。

 

 

境内社:久延彦 (くえひこ) 神社の遥拝所から眺めた三輪山。

 

 

久延彦神社から眺めた桜井市。

 

 

以上。