津野神社は、今津北小学校から東へ500m、田んぼの中に鎮座されます。
鎮座地:滋賀県高島市今津町北仰316-1
中央の森ではなく、その右の小さな林が津野神社。
拝殿に向かって右に手水舎。
手水鉢には、盃状穴が彫られています。
奉納時機不明の狛犬、平成以降のものです。
式内社 津野神社 近江国 高島郡鎮座
現社名 津野神社
御祭神 紀角宿祢・武内宿祢
旧社格 郷社
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津野神社 旧郷社
一、社格と所在
当社は今津町大字北仰字須美森に鎮座せる延喜式神名帳(908)記載の
国幣神社にして、旧川上庄二十二ヶ村の氏神なり。
往古角氏領有の角郷総社にて、のちに分地され、都農川上の二郷となり、
更に治暦年間(1065)善積郷を加えて三郷を川上郷平等院の庄園と
なせしより、現今当社を川上庄の総社と云ふ。
明治四年、旧川越県の時郷社となり。犬上県となりて村社に変更。
明治十四年上格出願により再び郷社に加列せらる。
一、祭神
始め紀角宿祢命を奉斉せしが斉衡年中(854)その父武内宿祢を配祀して、
旧角大明神と称す。
その後紀角氏の遠御祖第八代孝元天皇を配祀し、三神を相殿とす。
神社名鑑(1978)に所載す。
一、例祭 4月18日
当社の例祭起源は、古く神功皇后三韓征討の故事に始まり、紀兜を着用し
競馬を営むと伝ふ。
毎年4月上の申日を祭礼とせしが、逐次変遷し、大正2年の氏子紛争以来
日置津野両社二日の祭礼を一日とし、現行の隔年神輿一基の渡御式を
行ふこととなせり。
一、社伝由緒
景行天皇志賀の高穴穂宮に坐す時志賀の仰木に在りし武内大臣、西淡海
の屯田を賜はり其子紀角宿祢に所管せしめ、この地を角郷と云ふ。
宿祢この地に死し遺骸を角山に葬る。
一説に武内大臣命を奉じて越国角鹿に向ふ途中病を得しが、天地神祇に
祈りてこれを拂へり。
その子角宿祢を周防国都乃郡より呼び、この地を所管せしむ。
その途次志賀の仰木より従者となりて来る者、この地を北仰木と云へり
因りて今にその名ありと。
角宿祢の孫田鳥宿祢また周防国の国造たりしが、その曾孫角臣子高見、
族小鹿火宿祢と共に此の地に神殿を創建す。
これ当社の始なり。
神殿は元亀3年8月織田信純に焼かれ、神主は神体を奉じて宮谷に迯る。
この時総ての宝物記録を焼失す。
元禄十一年(1698)この地が堅田藩領となり堀田摂津守の崇敬を得て、
毎年献供を受く。
社殿は宝永元年(1704)と嘉永六年(1853)の再建なり。
拝殿は元禄二年と文政七年(1824)の再建なり。
一、境内社四社あり
厳島社。
祭神 市杵嶋姫命 田心比賣命を相殿。竹生島より神霊を遷し祀りて辨財天
と称し北仰一村の産土神なり。年記不詳。
天正年間(1573)とも云ふ。享和三年(1803)再建す。
田部神社。
祭神。大国主大神。年記不詳。石神なり。田の神と称し大将軍とも称す。
應仁乱後平ヶ崎田上森より遷座す。
稲荷社。
祭神 倉稲魂命。大田命 大宮姫命の相殿。年記不詳。
正徳年間(1711)彦根藩家臣宅より遷座せりとも云ふ。
北野社。祭神。菅原道真公。神主荻野正恵寛永年中勧請す。
(境内説明文)
『古事記』によれば、紀角宿祢(きのつののすくね)は武内宿祢の
第五子で、紀氏の祖です。
『日本書紀』によれば、
応神天皇三年、百済の辰斯王(しんしおう)が位につき、天皇に礼を
失することをした(何をしたのかは書かれてない) ので紀角宿祢・
羽田矢代宿祢・石川宿祢・木菟宿祢を百済に遣わし、無礼を責めた。
百済は辰斯王を殺して陳謝した。
紀角宿祢らは阿花王(あくえおう)を立てて帰国した。
と書かれています。其の他の事跡は書かれていません。
拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。
社殿は式内社田部(たべ)神社。
式内社 田部神社 近江国 高島郡鎮座
現社名 田部神社(津野神社境内社)
御祭神 不明
後方は、御社名不明。
本殿に向かって左に稲荷神社が鎮座されます。
本殿に向かって右に厳島神社が鎮座されます。
拝殿弐向かって右に遥拝所。
拝殿からの眺め。
以上。





















































































































































































































































































