国道1号線を西へ向かいます。
橋の上から眺めた矢作川と矢作神社の御神域。

橋を渡った袂に、出合之像があります。

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出会之像 太閤伝説 日吉丸と小六
日吉丸 (後の豊臣秀吉) は、尾張国中村 (今の名古屋市中村公園) の木下
弥兵衛 (弥助) と妻のお仲の子で、八歳の頃から奉公に出されましたが、
十二歳の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。
家に変えることも出来ず、東海道を東へ下る途中、空腹と浸かれで矢作橋
の上で前後不覚で根て居ました。
ここに海東郡蜂須賀村 (今のあま市) に住む小六正勝 (後の蜂須賀小六)
という野武士の頭が、手下を連れてこの付近を荒し、矢作橋を通りかかり
ました。
通りざまに眠りこけている日吉丸の頭を蹴ったところ、日吉丸は
「頭を蹴り、一言も挨拶をしないのは無礼である、詫びて行け。」
ときっと睨みつけました。
小六は子供にしては読経があると思い、手下にするからその初手柄を見せよ
といいました。
日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、
邸内に入り扉を開けて、小六たちを不生き入れました。
目的を果たし逃げようとしたとき、家人が騒ぎ出しました。
日吉丸はとっさに、石を抱え井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」
と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行に
ついたといいます。
史実とは異なりますが、日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と
武将蜂須賀小六の人間的側面を語る物語として、今もなお私達の心に
一期続け、乱世の時代劇を垣間見る挿話となっています。この伝説を語り
継ぐため、ここに石彫を建立鵜するものです。
(説明文)
石像に向かって左に、明治天皇御駐蹕の碑が建立されています。

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明治天皇御駐蹕の碑
旧笹屋こと寺田又次郎は、今の矢作町大字矢作字市場の矢作川堤防上
に在りました。
明治元年九月二十八日及び十二月十六日の二回、明治天皇がここで
御休憩されました。
この碑は紀元 (皇紀) 二千六百年記念に建てられたものです。
(説明文)
名鉄:矢作駅から西へ700m、矢作川の土手の隣に鎮座されます。


鎮座地:愛知県岡崎市矢作町字宝珠庵1
矢作神社の鳥居。

入った左に、表忠記念碑が建立されています。
表忠碑は、日露戦争で散華された英霊に対して建立されます。


参道に向かって左に手水舎。




左に秋葉神社が鎮座されます。

参道をはさんだ対面に、陶器の日本武尊像が建立されています。

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日本武尊陶像
日本武尊は、その生涯を東奔西走し、日本の国を平定開拓された英雄で
あります。
『日本書記』によりますと、景行四十年 (四世紀頃) 東夷が反乱を起こした
ので、日本武尊を東方に派遣しました。
此の地 (三河国蓬里、よもぎのさと、」現矢作町) 出東夷と対戦したとき、
川の鳴かずにあった良質の矢竹でたくさんの矢を作り、突破したという
伝承があります。
後この川を矢作川と、また里の矢を矢作と解消しました。
この陶像は、皇紀2600年 (昭和15年) を記念して建立されたものです。
建立 昭和十五年 (1943年)
(境内説明文)
軍艦矢矧 ゆかりの神社 石碑。

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初代軽巡洋艦「矢矧 (やはぎ) 」 奉納模型
大正七年 (1918) 全世界を襲ったスペイン風邪。
死者は世界全体で2000万から4500万、日本では内地だけでも50万人
近くと言われる。
当時第一次世界大戦 (1914年7月~1918年11月) の歳ちゅうで、派遣
された軍隊が、パンデミック (世界的大流行) の原因となった。
日本の最初期軽巡洋艦「矢矧」は、南洋群島占領作戦に参加、大正七年
十一月、役目を終え、シンガポール港で交代艦「千歳」を待つ事3週間。
十一月二十一日・二十二日、帰朝を前に艦長の半舷上陸許可を得る。
(ここでスぺ院風に羅患)
十一月三十日、シンガポール港を出発しマニラに向かうが、患者頻発
激増。
乗務員総数471名ほぼ全員羅患史。4日には帰還兵1名死亡する。
十二月五日、マニラ入港。
副艦長以下セントポール病院に送院されるが、死者数48名の大惨事
となる。
大正八年一月八日、マニラ港出港。
一月二十五日、佐世保到着、同三十日、呉帰着。
九年九月七日、艦名と所縁ある (軽巡洋艦には川の名称が付けられた)
当社の分霊を「艦内神社」として奉斎する。
意義尾、乗務員の崇敬篤く、大正十年・十一年・十四年には、艦長以下
全員の正式参拝がある。
奉納された模型は、大正十年四月五・六日の参拝を記念し、乗務員に
よって製作され、同年十月の寄贈されたものです。

(境内説明文)
日本におけるコロナ禍の始まりである、横浜港のクルーズ船を思い出し
ました。

大正八年十月に奉納された狛犬。

向かって左端に矢竹やぶ、右端に御神木が聳えています。

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矢竹やぶ
景行天皇の御代に、日本武尊が東方征伐の時、皇紀百七十五年頃、
素戔嗚尊をお祀りして、ここで矢竹をお作りになったので、矢矧神社
とよばれるようになったと云われています。
ここの竹はその時の名残で、「矢竹やぶ」と呼ばれています。
(境内説明文)

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矢作神社 由緒
第十二代景行天皇の御代に、日本武尊が東夷御征伐の時、軍神として
素戔嗚尊をお祀りし、広前で矢を矧ぎ給いしため、社号を矢作神社と
称えた。社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。
永保三年 (1083) 源義家が陸奥守として奥州へ行く途中、日本武尊の
故事にならって参拝されたと伝えられる。
その後、建武二年 (1335) 新田義貞が足利尊氏との戦いで、戦勝を神前
に祈願した折り、社畔の石が鳴動した。
これは神のご加護が有ると信じて戦い、遂に勝ちを収めたといわれて
いる。伝えて 「うなり石」 として拝殿の西南に在る。
天文年中 (1532~54) 岡崎城主松平廣忠は祀田20石を置いたが、
当社は中古より矢作端改築毎に、城主及び普請奉行から奉幣寄進する
のが例であったという。
第一次世界大戦後、帝国軍艦矢矧の艦長以下船員一同の崇敬篤く、
艦内に矢作神社の分霊を奉斎して大祭を執行し、また兵員一同正式
参拝も行われ、軍艦矢矧の模型を奉納されている。
中古、牛頭天王と称したが、維新後旧名の矢作神社に復した。
明治五年九月十七日郷社となり、明治四十年十月には神饌幣帛料
供進神社に指定せられた。
秋葉神社には加具土命を奉祀す。
(境内石碑碑文)


拝殿からの眺め。


矢作橋駅。

駅前交番。

以上。