箕島(みのしま)神社は、JR箕島駅から南へ100mのところに鎮座されます。

東へ400m行ったところには、かつて甲子園で一世を風靡した箕島高校が

在ります。

 

 

 

鎮座地:和歌山県有田市箕島117

 

参道の入口は、有田川の畔にあります。

 

 

参道は桜並木です。

 

 

 

右に手水舎。

 

 

 

天保四年三月に奉納された狛犬。

 

    

 

 

割り拝殿には、御輿が納められています。

 

 

 

境内に説明文はありませんでしたので、公式HPの記事を転載します。

 

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祭神 水主大神  (みぬしのおおかみ) 

素盞鳴尊(すさのおのみこと)

武甕槌神(たけみかづちのかみ)

経津主神(ふつぬしのかみ)

誉田別命(ほむたわけのみこと)、以上五柱の神を主祭神とする。

 

ご由緒   

 

ここ箕嶋神社は、古来より烏の杜と呼ばれ、当初は水主神社と称して

いましたが、牛頭天皇、祇園社、と名称が変わり、明治三年より箕嶋神社と

称するに至っています。

 

元仁元年(1224年)、この地方(古くは宮崎荘箕島村と呼ばれていた)の

領主である宮崎出羽守が祇園社(現、箕嶋神社)に神領三十石を寄進し、

天文四年(1535年)、宮崎城主藤原定茲(宮崎雲秀)が改めて造営し

ました。

 

紀伊続風土記には、

旧はわずかの小社なりしが、天文四年、宮崎城主宮崎雲秀が改めて造営す

と記されています。

 

また、古くは有田川下流北側に位置する箕島、港町も立神社を産土神と

しましたが、諸村と争論があったため、立神社から独立し、箕島を含めた

有田川下流北側の地域の産土神社となりました。

 

 

 

水主大神という神は聞いたことがありません。

水の神でしょうが、どういった神なのかはわかりません。

 

拝殿に向かって左に田中神社が鎮座されます。

 

 

千鳥破風 軒唐破風。

 

 

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田中神社   田中善吉考敦翁を祀る。

 

善吉翁は箕島の人。

元文元年(1736)紀州藩の命を受け、薩摩国(鹿児島県)にて砂糖製造の技術を

伝習して帰国後本邦発の白砂糖の精製に成功した。

更に善吉翁は薩摩の地に於いて櫨(はぜ)の実から木蝋を製造して収益を

挙げている事に着目し、櫨の良種を持ち帰り、自園に栽培して良結果を得た。

 

善吉翁は紀州藩の庶民福祉のために、この櫨の普及増殖を生涯の事業にせん

と決心し、爾来二十余年 にわたって自から労費をいとわず各地を奔走して

その普及に努めた。

 

善吉翁の没後、その恩恵に浴し遺徳を忍ぶ人々相議して藤並荘奥村(現吉備

)大顔神社 境内に祠宇を建て田中神社と号した。

その後明治四十三年、生地箕島神社境内に遷座されたものである。

 

                                    (境内説明文)

 

金刀比羅神社。

 

 

恵比寿神社。

 

 

拝殿に向って右に稲荷神社、御社名不明社が鎮座されます。

 

 

拝殿に向かって右前に境内社が鎮座されます。

左から、皇大神宮、川端神社、十方神社、船玉神社、祓戸神社。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

旦来(あっそ)八幡神社は、JR黒江駅から東へ2.7㎞の所に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:和歌山県海南市且来1316

 

 

 

 

 

海南市では標準的ともいえる割り拝殿です。

 

 

 

拝殿に向かって右前に手水舎。

 

 

 

 

境内の説明文は、内容がほとんど充実しておりませんでしたので、公式HPの

記事を転載します。

 

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御由緒

 

神功皇后は三韓から凱旋されるにあたり、皇子(応仁天皇)とともに、当地に

立ち寄られたときの行宮跡が当神社となった、という伝承がある。

「旦来」という地名も、皇后が「あした(旦)来よう」と約束し、都に帰られたこと

によるという。

 

中世の旦来八幡神社

 

社蔵の古文書には、正平9(1354)年の畠山尾張守の寄進状以下、43通の

田畑寄進状があり、中世にはすでに当旦来荘の鎮守であった。

当時は広大な神領と40もの末社を擁し、代々の武将や領主の深い信仰を

集め、ひときわ威光を放っていた。

 

旦来八幡神社と根来衆

 

正平8(1353)年、根来寺の暴徒が乱入し、剣、弓、矢、御筆の法華経等の

宝物、細川・石堂ら諸大名からの土地寄進状、その他神主の私物に至る

まで、一切が奪われた。

このため、鎮座年代については記録がなく、不詳である。

 

社殿について

 

この社殿の建立年次を明示する史料はないが、様式・技法より見て

桃山時代、16世紀終わりの建立と思われる。

その後の沿革も明確さを欠くが、形の整った彫刻など、ほぼ建立当時の

部材および形態を保っている。

社殿は、桃山期の様式を示す貴重な遺構で、和歌山県の指定文化財で

ある。

 

現在の旦来八幡神社

 

社殿は、平成の大改修により、檜皮葺屋根で色鮮やかな彩色をもつ、

一段と壮麗なものとなった。

現在も農業・学問・武芸・交通等の守護神として、尊崇される。

当神社の大祭渡御は、毎年10月の第2日曜日、古風かつ盛大に

行われる。

 

 

 

 

 

 

 

本殿に向かって左に境内社が鎮座されます。

左から厳島神社、須佐神社、住吉神社。

 

 

本殿に向かって右に姫神社が鎮座されます。

 

 

拝殿からの眺め。

 

582

585

以上。

宇賀部(おこべ)神社はJR黒江駅から東へ4㎞のところに鎮座されます。

 

 

 

 

 

狛犬は、出雲地方でよく見かけるお尻を突き出したタイプです。

奉納年月は不明。

 

    

 

割り拝殿。

 

 

53

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御祭神 宇賀部大神 (うかべのおおかみ)

      荒八王子命 (あらはちおうじのみこと)

      誉田別命   ( ほんだわけのみこと、八幡神)

     

御由緒

 

古記録は戦国時代の兵火で焼失して、由緒を尋ねる確たる典拠が無い。

一説には、神武天皇ご東征の砌、皇軍に随順することを肯じなかった名草戸半

(なくさとべ)の首級を祀るともいわれ、往古より頭の守護神として「おこべさん」の

愛称で広く親しまれてきた。

 

荒八王子命は、もと現在地の東方100mに、若宮八幡神社は南方約400m、

高倉山の中腹に鎮座していたが、宝暦四年(1754m)本殿新築に際して、此の地

に合祀された。

 

                                      (境内説明文)

 

 

本殿に向かって右に天神社(菅原道真命)が鎮座されます。

 

 

その右に太神宮(天照大御神)が鎮座されます。

 

 

その右に境内社が鎮座されます。

左から、祇園神社、弁財天神社、秋葉神社、多賀神社、三王神社、稲荷神社。

 

 

拝殿には、小野田少尉の書が掲げられています。

 

 

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不撓不屈 

 

強い意志を持って、どんな苦労や困難に出会っても、決して心がくじけないこと。

 

小野田寛郎 (平成二十六年一月十六日 九十一歳で死去)

 

大正十一年海南市名高に生まれる。(本籍地 小野田)

太平洋戦争に従軍し、最前線のフィリピン・ルバング島に派遣される。

終戦を知らされずに三十年、最後の一兵になるまで戦い抜いた元陸軍少尉。

 

帰国後は単身ブラジルに渡り、未開の荒野を開拓して立派な牧場主となる。

一方、日本では福島県に「小野田自然塾」を開き、青少年の健全育成に艇身

する。その間、著述に講演にと席の暖まる暇もない活躍を続ける。

 

若人へのメッセージ

 

人は一人で生きられません。

社会の中でいう切るには、ルールを守り、自制することも必要でしょう。

自らの心を鍛え、自分の行動に責任を持って逞しくのびのびと生き抜いて

下さい。

                                      (境内説明文)

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

宇賀部(おこべ)神社は、JR黒江駅から東へ4㎞の所に鎮座

されます。

 

 

鎮座地:和歌山県海南市小野田917

 

杉尾神社の記事で少し書いておりますが、このあたりには大蛇の退治

民話があり、退治された大蛇の頭を宇賀部神社、腹を杉尾神社、脚を

千種(ちぐさ)神社に祀った、とされています。

 

稲荷神社だから宇賀部という御社名になったのではなく、頭部を祀った

から宇賀部(おこべ)という御社名になったものと思われます。

別称(通称)は「おこべさん」「頭(こうべ)の宮」です。

 

その民話の元となったと思われるのが『日本書記』にも記述されている

名草戸畔(なぐさとべ)の伝説です。

 

『日本書記』には、神武天皇の兄である五瀬命(いつせのみこと)が

亡くなられて竈山に葬られた翌月、

「軍は名草邑に着いた。そこで名草戸畔という女賊を誅された。」

とだけ書かれています。

 

宇賀部神社の宮司家(小野田家)には、名草戸畔の伝説が伝わっており、

境内に掲げられておりますので転載します。

 

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当社のご祭神に関する「名草戸畔」伝説

 

当社のご祭神は神明帳によれば、「迦具土神」(火の神)となっているが、

一説には「名草戸畔」の頭を祀るとも伝えられる。

 

名草戸畔は、名草山の東麓・吉原の地に本陣を構えた豪族の首長であった。

太田亮氏の『姓氏家系大辞典』にもあるように、「名草戸畔のことは厳然たる

事実であって、何らかの大事件が起こったことは、この地方の伝承で伺い

知ることができる」と記している。

 

時は日本の黎明期、各地には豪族が割拠して覇を競い合っていた。

日向では頭角を現した伊波礼毘古命(いわれびのみこと、後の神武天皇)

兄弟が、九州を勢力下に収め、行く行く各地を平定しつつ、一路、大和を

目指して攻め上ろうとした。

 

だが紀ノ国では、思わぬ抵抗勢力の反撃に苦汁を強いられる羽目となった。

「毛見ノ浜」に上陸した東征軍は、これを迎え撃つ名草戸畔の軍勢と死闘を

繰り広げた。

東征軍は皇兄の五瀬命(いつせのみこと)を失い、鎮魂の地には竈山神社が

創建された。

 

一方、名草戸畔はここを先途と勇戦奮闘したが、その甲斐もなくあえない

最期を遂げた。

そこで邑人は泣く泣くその頭を携え、小野田の里に身を潜め、高倉山の北麓

にあるこの小高い山に葬ったのが、「おこべさん」の由来だと言われる。

 

因みに、名草戸畔の腹部は、杉尾神社(高倉山の南麓、海南市阪井)に、

脚部は千種(ちぐさ)神社(海南市重根、しこね)に祀られていると言われて

いる。

                                   (境内説明文)

 

この伝説を、小野田少尉はその著作『生きる』の中で紹介されており、境内にも

掲げられています。

 

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「名草戸畔」について (小野田家口伝)  小野田寛郎

 

小野田家には、実は先祖代々伝わる一つの口伝がある。

小野田家の負けじ魂のルーツに関わる話しである。

今はもう、私がそれを継承する最後の一人になってしまった。

 

中身は古代の神武天皇にまで遡るが、ひとことで言えば、小野田家は

名草戸畔という首長の子孫だということだ。

名草戸畔は、『日本書記』にただ一ヶ所「神武に殺された」と出てくる。

 

私が聞いた口伝によれば、神武が全国を支配していく過程(神武東征)で、

他の諸族は次々に屈服したにもかかわらず、和歌山の名草の人々だけは

名草戸畔がリーダーとなって迎え撃ち、神武軍を撃退した。

それでやむなく神武軍は紀伊半島を迂回して熊野に入らざるを得なかった。

 

実はこのとき名草戸畔は戦死したのだが、土地の人々はその死を悼んで、

遺体を頭、銅、足の3つに分断し、それぞれ別の神社に埋めてお祀りした。

その頭を祀っているのが宇賀部神社(通称おこべさん)で、私の実家である。

神社といっても、実は小野田家の祖先のお墓でもあるのだ。

 

だから、名草の人々は最後まで神武に屈服したとは思っていない。

負けん気が露甥のである。

やがて神武が初代天皇として日本を統治するようになり、役人が此の地に

やってきても、結局治めきれなかったという。

 

こういうじゃ反骨精神は、今でも紀州人の中に流れているし、私も確実に

それを受け継いでいる。

ジャングルでの戦いやブラジルでの牧場開拓は、こうした私の負けず嫌い

の成せるわざだったかもしれない。

 

(最後の著書『生きる』より)

                                   (境内説明文)

 

続く。

千種(ちぐさ)神社は、JR海南駅から東へ4㎞の所に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:和歌山県海南市重根1125

 

県道から小路に入っていきますのが、スマホで場所を確認しながら進めば

到着出来ると思います。4台程度停まれる駐車場があります。

 

 

 

右に手水舎。

 

 

 

左に地蔵堂。

 

 

 

地蔵堂からの眺め。

本殿の後方に、巨大な恩神木が聳えています。

 

 

 

昭和四十六年七月に奉納された狛犬。

 

    

 

 

御祭神

 

草野姫神    (カヤノヒメノカミ)

熊野速玉神   (クマノノハヤタマノカミ)

天照皇大神   (アマテラススメオオカミ)

八王子神    (ハチオウジノカミ)

猿田彦神    (サルタヒコノカミ)

須佐之男神  (スサノオノカミ)

大山須美神  (オオヤマツミノカミ)

市杵嶋姫神  (イチキシマヒメノカミ)

 

境内に説明文はなく、和歌山県神社庁HPにも記事はなく、御由緒は不明。

神武天皇東征の際、名草邑の女酋長名草戸畔(なくさのとべ)を殺し、その脚を

祀った、とされています。

 

杉尾神社のHPでは、当地の伝説を掲載しています。

 

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伝説

 

昔紀の川の河口に1匹の大蛇が川岸に流れつき、巽の方角をさして横たわって

いたといいます。

その大蛇は玉をくわえ腹部に金色に光る杉織状になった輪があり、立派な

足もあったと伝えられています。

 

これぞ神の化身と小野田に頭部、杉尾神社に腹部、千種神社に足、と3体を

埋め神として祭ったと言われています。

今でも神社地である玉輪山には大蛇の好物とする「たにし」があり、

夫婦であるとされている大蛇が生息しているとの言い伝えもあします。

 

 

 

脚がある大蛇なので、龍なのでしょうね。

 

 

本殿の後方に聳える御神木。

 

 

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海南市指定文化財 天然記念物 千種神社のクスノキ 平成十年七月指定

 

「行たら見てこら重根の宮の楠にまかれた地蔵尊」

と、昔、この辺りの人々にうたわれ、語り継がれてきたのがこのクスノキです。

樹高29m、枝張り東西24m、南北に25m、根周り15mにもなります。

 

「昔、このクスノキの下に石の地蔵さんを安置していたが、いつしか、この

クスノキの成長にともない、地蔵さんが幹の中に巻き込まれてしまった。

それで幹の下部がふくらんでいるのだ。」との言い伝えがあります。

 

現在、多少の技枯れ等は、発生していますが、風格のあるクスノキで、

大きな空洞もなく豊かに枝葉を茂らせ、樹勢の良い状態が保たれています。

また、千種神社は、昔、「百草(ももくさ)神社」と、言われていました。

百草が生い茂り、うっそうとした森林であったころの面影を残しているのが、

このクスノキだと考えられています。

遠くからもこのクスノキは良く目立ち、この地のシンボルとなっている名木です。

 

平成十二年二月一日 海南市教育委員会

                                        (境内説明文)

 

本殿に向かって右に鎮座される恵比寿神社。

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

杉尾神社は、JR海南駅から東へ4.5㎞の所に鎮座されます。

 

 


鎮座地:和歌山県海南市阪井1858

 

十三神社を参拝した際に、一眼レフを落として壊れてしまいました。

以降の撮影を諦めて帰ろうかと思いましたが、スマホで撮影することに

しました。

 

スマホをカメラとして使うのは、恥ずかしながら初めてのことです。

横方向に細長い画面は、そのまま使います。

縦方向に長い写真はBlogには掲載出来ない (勝手に倒れてしまう) です

ので、短く加工することにします。

 

 

 

 

手水舎は、拝殿の左前に在ります。

手水舎の千生には、祓社が鎮座されます。

 

 

 

 

奉納年月不明の狛犬、昭和後期と思われます。

スマホのカメラが露出過多になってしまいましたが、修正方法がわかりません。

 

    

 

 

 

本殿前の狛犬。一対ですが、向かって右の狛犬の写真は失敗しました。

 

 

杉尾神社公式HPの記事を転載します。

 

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御祭神 

<東本殿> 大山祇神(おおやまづみのかみ) 

<西本殿> 誉田別命(おんだわけのみこと) 

<境内社> 八坂神社・皇大神社・蔵王神社・金毘羅神社・厳島神社

         ・秋葉神社・弁財天社・天神社・金本稲荷神社

御由緒

 

当神社は、杉尾明神・八幡宮を主祭神とし、一村の氏神にして社殿美麗なり。

奥付けに建久年(1190~1191)鎌倉時代初期に書かれたものを、永禄年中

1558~1570)室町時代に書き写したとあります。

 

元亀年中(1570~1573)室町時代末期の棟礼があり、その銘によると

 「二品任助親王とありこは仁和寺、第20世門跡(厳島御室)、即ち後伏見

  天皇八世皇孫にして伏見院貞敦親王の御子、後奈良院御猶子なり」

とありますので、崇敬者は高貴身分の方にまで及んでいたことが伺いしれます。

 

又慶長年(1596~1615)江戸時代初期に書かれた祭事の記録あります。

其巻末には

 「去年大守浅野候より検地ありて神事の料なし困りて略式を新にす」

とあり、赤穂浅野家との深い関係もうかがい知ることができます。

 

伝説

 

➀古くから(おはらさん)お腹の神様として「しゃもじ」をお供えして祈願する

  風習があります。

「しゃもじ」はすくって使うものであることから、「救われる」意味があると

されています。

 

由来については、昔紀の川の河口に1匹の大蛇が川岸に流れつき、巽の

方角をさして横たわっていたといいます。

その大蛇は玉をくわえ腹部に金色に光る杉織状になった輪があり、立派な

足もあったと伝えられています。

 

これぞ神の化身と小野田に頭部、杉尾神社に腹部、千種神社に足、と3体を

埋め神として祭ったと言われています。

今でも神社地である玉輪山には大蛇の好物とする「たにし」があり、

夫婦であるとされている大蛇が生息しているとの言い伝えもあします。

 

②氏子区域の道場山を向かいに杉尾神社あたりを北山と言い、古くは桜の

名所で桜村と言われていました。

その道場山から浅野家に嫁いでいた娘がありました。

 

しかし嫁ぎ行く前夜はげしい腹痛におそわれ、うわ言に

 「北の山に埋もれている古い器があるから、その器で亀の川の水を汲み

杉尾神社に供えてほしい」

言いました。それで言われた通りにすると、不思議にも激痛がおさまり無事

赤穂に嫁ぐことができたということです。

それ以来お腹の神様としてさらに崇敬され今にいたります。

 

いづれにしても説は沢山ありますが、

 「お腹痛けりゃ杉尾のお宮、腹のくろいのはなおりゃせぬ」

という俗歌が残っている通り、いくら霊験あらたかなお腹さんでも、さすがに

腹の黒い者は直せないということです。

 

 

 

「小野田に頭部」とあるのは、小野田に鎮座される「宇賀部神社に頭部」という

ことです。宇賀部神社は、あの小野田少尉の実家です。後に参拝致します。

 

説明文では、この地の大蛇を成敗したことになっていますが、小野田の宇賀部

神社の言い伝えでは、神武天皇の軍に殺された名草邑の首長名草戸畔(なくさ

とべ)の頭・腹・脚を3つの神社で祀っています。

戸畔(とべ)というのは女酋長のことです。

 

『日本書記』には、五瀬命が亡くなられて竈山に葬られた翌月、

「名草邑の名草戸畔という女賊を誅された」

とだけ書かれています。

 

 

 

拝殿に向かって左に恵比寿社が鎮座されます。

 

 

 

拝殿に向かって右に境内社が鎮座されます。

左から、皇太神社、天神社、不明。

 

 

その隣りに皇太神社が鎮座されます。

 

 

その奥に鎮座される境内社。

左から厳島神社、金刀比羅神社、不明。

 

 

本殿に向かって右に八坂神社が鎮座されます。

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

十三神社は、JR海南駅から東へ14㎞の所に鎮座されます。

 

 


鎮座地:和歌山県海草郡紀美野町野中493

 

 

駐車場の端に頌魂(しょうこん)神社が鎮座されます。

頌魂神社は護国神社です。頌魂とは「魂を称える」という意味です。

 

 

 

 

境内へ。

 

 

左に手水舎。

 

 

 

割り拝殿。

 

 

 

 

本殿前の狛犬。

 

    

 

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十三神社 由緒沿革

 

十三神社の御祭神は、国常立尊外十二神で、延暦三年(784)創建と伝えられ、

史実として平安後期の康治二年(1143)の神野真国庄絵図に、現在の野中の

上の五条旅所の辺に十三所大明神と記され、神野庄の産土神として信仰され

ていました。

 

その後天正二年(1574)に伊予の国人、河野道直・秀道父子が、長曾我部元親

と交戦し、軍敗れて当地神野庄上ヶ井に落着した際、河野氏の氏神大三島

神社の大山祇神を合祀することとなり、十三の神様一柱を大山祇神社と入れ

替えたものと思われます。このとき天正十七年正月二十六日でした。

 

建物は天正年間の始め頃、十二・三年かけて建てられたものと思われますが、

以来十三神社大明神と尊称し奉利ましたが、明治維新後十三神社と

改めました。

 

                                      (境内説明文)

 

拝殿には、神事の写真が掲げられています。

 

 

左から、八幡神社、丹生神社、本殿。

 

 

本殿に向かって右に鎮座される境内社、御社名不明。

 

 

その右に鎮座される恵比寿神社。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

野上八幡宮は、JR海南駅から東へ7㎞のところに鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:和歌山県海草郡紀美野町小畑625

 

 

 

御神木の楠木。

 

 

 

 

石段の途中、左に高良社。重要文化財。

 

 

 

 

    

 

随神門。

 

    

 

    

 

御神額は、後一条天皇の御揮毫。

 

 

    

 

拝殿に向かって左に神馬像。

 

 

神馬像からの眺め。

 

 

拝殿前には、慶安三年四月に奉納された灯籠。

 

    

 

 

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野上八幡宮の御由緒

 

野上八幡宮の由緒は古く、神功皇后三韓遠征よりご帰還途中紀伊

衣奈浦に着き、難波に船を進ませる途中、三年間頓宮の跡といわれています。

の後金明天皇(1400余年前)、応神天皇の霊を勧請し、八幡宮を建立され

ました

 

ついで一条天皇永延元年(987年)に山城国石清水八幡宮の別宮となり

後一条天皇万寿二年1025)に阿波国司に宣して、紀伊国三分の一をもって

本殿、末社に至るまで十九中門、回廊、神楽殿等二十二屋を御造営され

ました。

 

これより放生会その他の神事一切石清水八幡宮に准じて行うべしとし、熟田

二百十町を以って神領とし、神宮その他の役職を定め、当宮の隆盛は石清水

八幡宮と並び称され、紀伊国の大社の一つとして定められました。

 

遠世の野上庄、現代の四野上(野上町・海南市三野上野地区)が東寺の神領

で当宮を中信にして庄園統治が行われました。

 

その後、幾多の兵乱にもまぬがれましたが、天文十年(1541)根来の衆徒が

突然来襲し放火奪掠を極め、この為社殿を始め財宝、文書に至るまで、悉く

灰塵となり、神事祭礼皆廃絶しました。

 

その後十六年を経て弘治三年(1557)本殿、若宮社の再建に着手し、元亀元年

(1570)完成しました。

続いて天正元年(1573)には拝殿、また武内、玉重社も再建されました。

 

秀吉の時代になりますと、社領が没収されたが浅野幸長が紀州に封ぜられ、

三石の地を社領とpして寄進し、鳥居、御輿を再建されました。

徳川幕府となって徳川頼宣が紀州に封ぜられ、たびたび社参し、神具、鳥居、

石灯籠、絵馬等寄進されました。

 

元々石清水八幡宮の庄園として開発されたところで、境内建物も室町時代

末期から桃山時代初期の建築工風で重要文化財指定の社殿の他、神輿庫、

宝蔵、舞殿、中門、長庁、鐘楼、御供所、鳥居二基、その他多くの末社が

造営され、現在よく古制が維持されています。

昭和三十二年から三年にわたり解体修理を行い、現在に至っています。

 

                                     (境内説明文)

 

 

 

 

本殿の左後方に忠魂碑が建立されています。

 

忠魂碑の後方に鎮座される境内社。

 

 

左から、恵比寿社、祇園社。

 

 

本殿の後方に境内社が鎮座されます。

左から、倉稲魂社、愛宕社、太神宮、春日社、住吉社、天満社、

稲荷社、熊野社。

 

 

本殿の右後方に今木神社が鎮座されます。

(仲哀天皇・日本武尊・神宮皇后・皇大神)

 

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

丹生(たんじょう)神社は、和歌山電鉄貴志川線:貴志駅(タマ駅長)から東へ

1.5㎞の山腹に鎮座されます。

 

 

鎮座地:紀の川市貴志川町北918

 

 

 

 

広い駐車場の端に忠魂碑が建立されています。

 

 

忠魂碑に向かって右の境内社は、御社名不明。

 

 

拝殿へ。

 

 

 

左に手水舎。

 

 

 

 

奉納時期不明の狛犬、江戸時代末期~明治始めのものと思われます。

 

    

 

土間拝殿。

 

 

 

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丹生(たんじょう)神社

 

丹生神社は丹生都媛命(にうつひめのみこと)他十宇八柱を祭神とし、承平五年

(935年) 郷士藤原宗重が紀伊国伊都郡天野常磐の丹生都姫神を勧請し、当地

の霊岸山の小社を営み、産土神としたのが起源である。

高野山よりは寺領として特別の帰敬を受けたとされている。

 

正嘉元年(1257年)十二月十日高野山の寺僧の報賽に依り拡張し、本殿・幣殿

の建立を始め、文応元年(1126年)十二月十日に完成し、この時境内に丹生寺

も同時に建立されたとなっています。

 

元亀三年(1572年)室町時代に更に境内拡張社殿修復され、文禄四年(1595年)

高野山木食応其(もくじきおうご)上人(1537~1608年)によって神饌料八石、

御輿一台、それに神殿修復及び宝蔵を建てると共に丹生寺へも八石を寄進され

ました。

 

その後嘉永五年(1852年)高野山より永代大神楽料として耕地八反及び参道

馬場の寄進があり、

文久二年(1862年)丹生寺僧坊を焼失、

明治維新に際会、神仏分離の命を受け再建計画中止、

明治六年(1872年)に村社となり、

明治四十年(1907年)四月神饌幣帛料供進神社に指定された。

 

その後町村合併により昭和三十年(1955年)貴志川町東貴志地区の守護神、

平成十七年(2005年)紀の川市となり、現在紀の川詞貴志川町東貴志地区の

護神として祀られています。

 

                                       (境内説明文)

 

「紀伊国伊都郡天野常磐の丹生都姫神」というのは、官幣大社の丹生都姫神社

のことです。

一般的に丹生の読みは「にう」ですが、こちらは「たんじょう」。

 

拝殿に掲げられた神武天皇の絵馬。

 

 

拝殿に向かって右に八坂神社が鎮座されます。

八坂神社に向かって左に鎮座される小祠は御社名不明です。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

本山寺(もとやまじ)は、JR本山駅から南東へ1㎞のところに在ります。

 

 

 

住所:香川県三豊市豊中町本山甲1445

 

境内を囲む塀は無く、八十八箇所札所としては珍しく五重塔が聳えている

という、少し変わった景色のお寺です。

 

仁王門は鎌倉時代のもので、重要文化財です。

 

 

 

    

 

 

 

本堂は国宝です。

 

 

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国宝 本山寺 本堂

 

瀬戸内沿岸地方の折衷様建築を示す。

鎌倉時代の建物で、寄棟造り本瓦葺き、屋根の線がなだらかで美しい。

桁行五間、梁間五間で、堂内は外陣、内陣(広く)後陣(狭く)を自由に

おさめている点が極めて巧みで、これが平面的特徴である。

仏壇および厨子も当初のもので、建築的にもすぐれている。

 

                                       (境内説明文)

 

四国八十八箇所霊場会HPの記事を転載します。

 

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宗派 高野山真言宗

本尊 馬頭観音

開基 弘法大師

創建 大同2年(807)

真言 おん あみりとう どはんば うん ぱった そわか

 

本山寺の歴史・由来

 

四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔

が目印。

天暦3年(950)の建立でしたが損傷が激しく明治43年に再建されました。

また、本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一のもの。

頭上に馬頭をいただく観音様で、祀られている本堂のそばには馬の像が控えて

います。

 

大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基。

当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立した

という伝説が残ります。

 

およそ2万平方メートルの広大な境内には国宝の本堂はじめ、仁王門、五重塔、

鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、

大寺として栄華を極めた当時を偲ばせます。

 

天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ

脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去した

ため本堂は兵火を免れたといわれます。

この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれています。

その後、「本山寺」と名を改め、今に至ります。

 

 

 

 

 

大師堂。

 

 

薬師堂。

 

 

 

馬の像が奉納されています。20年前には無かった。

たぶん、本尊が馬頭観音だからなのでしょうね。

 

 

 

 

 

以上。