富熊神社は、JR善通寺駅から南東へ3㎞、小さな丘の上に鎮座

されます。

 

 

 

鎮座地:仲多度郡まんのう町公文588-1

 

 

 

奉納年月不明の狛犬。

 

    

 

石段の途中に御神門があります。

讃岐と吉備では、この構成の神社がとても多い。

 

 

    

 

 

踊り場的に境内があります。

 

 

石段に向かって右に手水鉢。

 

 

 

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富熊神社

 

富熊神社は、文明六年 ( 1474 ) 大麻神社祠官の白玖伊義が

記した 櫛梨神社名跡図 にて十社のうちに数えられる古社

である。

祭神は吉備武彦命 ( 神櫛王の悪魚退治に従った武将 ) である。

 

当社の沿創建年数は 『讃岐国名勝図会 に縁起十三年(913)

と記される。

藩政時代には、公文の茶堂とともに、諸国からの金毘羅参詣客に

親しまれていた。

 

本殿裏の山中には、多くの古墳が残されており、さしば形の埴輪等の

貴重な文化財が出土した。

また、横穴式石室を利用して造られたとされる善住木食上人の

入定塔がある。

正面の参道には、金毘羅参詣道から移された丁石がある。

 

令和三年九月 まんのう町教育委員会

                               ( 境内説明文 )

 

皇美屋神社の御祭神、大伴武日連命(おおとものあtけひむらじものみこと)

と富熊神社の御祭神、吉備武彦命(きぼいたけひこのみこと)は、

『日本書記』によれば、日本武尊の東征に従ってます。

 

おおまかにいえば、『日本書記』の日本武尊の東征の物語は、

神櫛皇子の讃岐における悪魚退治と同じ構成になっています。

 

説明文に書かれてある「善住木食上人」は、全国を行脚しながら仏像を

彫られた木喰上人ではありません。

木喰上人は文化七年(1810年)に93歳で亡くなられていますが、

「善住木食上人」は、明治三年に84歳で入定されています。

 

本殿に向かって左に境内社が鎮座されます。

 

 

招魂社 ( 護国神社 )。

 

 

 

御社名不明の境内社。

 

 

 

 

 

丘の頂上には善住木食上人の入定塔があります。

境内社の後方にある道で向かいます。

 

 

 

 

 

香川県立図書館が得地経されている資料を、長いですが転載します。

入定の様子が詳しく書かれています。

 

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大字公文の公文山の富熊神社の裏に、善住木食上人の入定塔がある。

この塔は、明治三年十月十六日にこの地で入定寂滅した善住木食上人を

偲んで、信徒たちの手で建立されたものである。

 

善住木食上人は、寛政八年三月十一日に丹後国宮津に生まれ、

姓は松浦氏であったと伝えられている。

少年のころから武を好み、十四歳で家を出て、江戸・京都・大阪で武術を学び、

荒々しい生活を送った。

 

二十四歳の時、発心して仏門に入ろうと思い、讃岐の金毘羅大権現に詣で、

<神仏の教えを体得して多くの人を助け、神人不二の境地に達すること>を

神前に誓った。

 

それから阿波の箸蔵寺に赴き、ここで仏門に入って名を源心と改め、

高野山の高坂坊・大和の金剛山などで五穀を断って修行に努め、

各国の霊場を巡拝した。四度目の四国霊場巡拝の旅で江戸深川霊連寺の

泰山和尚の知遇を得、共に霊場巡拝を続けて霊連寺に入り、泰山和尚

から灌頂を受けた。

 

その後四国に渡り、金毘羅大権現の神前で、<神仏の像千体を刻むこと>

を発願し、<人家に宿せず、火食しない>誓いを立てて四国の霊場を巡拝し、

各地で神仏や仏像を刻んでこれを神社・仏閣や篤志家に寄進した。

 

その後、白峰時に錫(しゃく)をとどめて名を善住と改め、根香寺に近い

南条峰に小庵を営んだ。

以後、遠くは紀州の那智山や志摩の海で荒行を行い、庵にあっては、

高松藩大久保一学の依頼を受けて、根香寺の北にある「じょうが淵」で

雨を祈って法力を示した。

三十八歳の冬、南条峰の石室に入って入定を試みたが果たさず、

高野山に移って更に修行を続けた。

 

高野におること五年、ひたすら五穀を断って山野に臥し、厳しい修行を

続けて木食上人と称せられるようになった。

四十三歳の春、備前岡山の帰命院の住職として迎えられ、やがて

丸亀藩主の帰依を得て那珂郡の公文の地に移り、嘉永三年の春、松ヶ鼻に

護摩堂を建てて毎日毎朝、水垢離(ごり)を取ってひたすら仏像を刻み続けた。

 

善住の護摩堂は金毘羅街道の傍らにあって、堂内に善住の刻んだ仏像が

所狭しと並べられていたので、参詣客の立ち寄ることが多かった。

善住はこの人々に茶を接待し、乞いに任せて祈祷を行い、人々に尊信された。

 

特に川辺村の竹下・金山村の都崎両氏などの深い帰依を受けたので境内も

次第に整備され、以後二十年間、この護摩堂を中心に教えを説いた。

 

明治三年の春、善住は護摩堂の後方の山の上の地を選んで入定しようと

したが、盗賊に妨げられて果たさず、同年秋、再び入定を決意してその業に

はいった。

五穀を断って蕎麦を常食としていた善住は、その蕎麦をも断ち、水を

飲みながらひたすら経文を唱えて身体の衰弱をはかり、次第に水の量を

減じて一物をも食わず、一滴も飲まない状態を続け、身体の衰弱するのを

待って入定室(この山に多かった横穴古墳の石室)に入り、鐘を振り

経文を唱えて死を迎えようとしたのである。各地から多くの帰依者が

駆けつけて入定室の近くに仮の通夜堂を設け、善住の振る鐘の音に耳を

傾けながら、経文を唱える善住の声に和してしめやかに経文を唱え続けた。

 

入定室からの鐘の音と経文の声は日が経つにつれて次第に低くなり、

幽かになって、遂に十月十六日、ぽつりと絶えてしまった。

帰依者の人々は善住の徳を偲びながら入定室を閉じた。

善住の死は、高野の大師そのままの見事な入定寂滅の最期であったと

伝えられている。

 

満濃町史 満濃町役場 昭和50年4月刊

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000158834

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

皇美屋 ( おうみや ) 神社は、JR善通寺駅から東へ2㎞のところに

鎮座されます

 

 

 

鎮座地:善通寺市与北町959

 

 

奉納年月不明の狛犬。

首が長い、大きな玉を以っている、というのは瀬戸内海沿岸では

良く見かけるタイプです。

 

    

 

 

 

明治三十八年九月に奉納された狛犬。

 

    

 

 

御神門の前に鳥居が建てられているのは珍しい。

 

 

    

 

 

参道の両側に御神木が聳えています。

 

    

 

右に手水舎。

 

 

 

手水舎の隣に境内社が鎮座されています。

左から荒神社、「賽ノ神社・山ノ神社」。

 

 

 

    

 

防火槽は、力士が担いでいます。

 

 

 

 

 

 

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祭神 大伴武日連命 ( おおとものたけひのむらじのみこと )

    神櫛皇子    ( かみくしのみこ )

    大己貴命    ( おおなむちのみこと )

 

由緒

 

天正年間兵火に罹り社伝子記録悉く焼失せしを以って創祀の年月等

定かならず。

社伝によれば、景行天皇の御宇、南海の悪魚討伐の為、神櫛王、

大伴武日、吉備武彦と共に当地に下り給ひし時、大己貴命及び国魂神を

祀りて皇美和の社と称し悪魚討伐を祈り給ひしに始まり、悪魚平定の後、

里人其の徳を欽慕して皇子及び大伴武日連命を配祀せりといふ。

 

文明六年白玖伊義が録せる櫛無神社名跡図の註に

 与北大宮大明神・・・大伴武日連神霊而爰初建社

とあり、名跡十社の一にして祭神は大伴武日連命を祭れる由見え、

諸社由来記にも

 与北大宮大明神者大伴武日連神也 神櫛皇子の左備神也

と記せり。

 

神社考に

 与北皇宮大明神村社在与北村所祭大伴武日連命或云神櫛皇子、

 按三代実録貞観三年三月十一日 辛已伴宿善男奏云諸博士正六位下

 佐伯直豊雄疑云先祖大伴健日連公景行天皇御世随倭武命平定東国

 功勲蓋世賜讃岐国以為私宅健日連公之子健持大連公子室屋大連公之

 第一男御物宿祢之胤倭故連公允恭天皇御世始任讃岐国造

 倭故連公是豊雄等之別祖也云云・・・

 讃岐国下恐脱多度或那珂等字名に則神櫛王既為国造而又有賜以之理乎

 云々

と見ゆ。

 

当社に元久元年 ( 紀元1864 ) 奉納の木馬ありて、高7寸5分長7寸

俗に神櫛王子の御神馬と称せり。

天正年間社殿兵火に灰燼せしが後再建せられ、寛保元年本殿屋根葺替を

行ひ、同時に兵電、拝殿を建立す。今の拝殿これなり。

 

安政六年現本殿を再建、明治十九年兵電を改築せり。

藩主松平氏崇敬厚く 奉献御神酒 当国太主公 支政十一年 云々の

奉納札を存す。

明治四十二年十月九日 神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

 

                                  ( 香川県神社誌 )

 

西讃岐地方の豪族である佐伯氏 ( 弘法大師空海はその本流 ) の

祖である大伴武日連命 ( おおとものたけひのむらじのみこと ) が、

神櫛皇子 (かみくしのみこ ) の「 南海の悪魚退治 」 に吉備武彦と

ともに従った、 その第一男が允恭天皇の御宇、讃岐国造になった、

と書かれています。

 

『日本書記』によれば、大伴武日連命は、吉備武彦とともに

日本武尊の東征に従ってます。

『日本三代実録』によれば、大伴武日連命は、日本武尊の東征に従い、

功績により讃岐国を賜り、允恭天皇朝には子孫の倭胡連公が讃岐国造に

任じられたとあります。( 由緒書にも書かれています。)

 

おおまかにいえば、『日本書記』『三代実録』の日本武尊の東征の物語を、

神櫛皇子の讃岐における悪魚退治に書き換えた内容が皇美屋神社の

由緒になっています。

 

拝殿に向かって左前に境内社が鎮座されます。

 

 

日吉社。

 

 

御社名不明社。

 

 

明治三十六年九月に奉納された狛犬。

 

    

 

川添社。

 

 

御社名不明社。

 

 

荒神社。

 

 

西村社。

 

 

八幡神社。

 

 

石塔が集められています。

 

 

晦社。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

讃留霊王(さるれお)神社は、JR坂出駅とJR琴平駅のほぼ中間に

鎮座されます。

 

 

八坂神社から、東へ100mほどのところです。

 

 

鎮座地:丸亀市飯山町下法軍寺1459

 

讃留霊王神社全景。前方後円墳の上に造営されています。

 

 

前方部からの眺め。

 

 

後円部からの眺め、遠く向こうに讃岐富士が見えます。

 

 

 

本殿の後方に、古墳の後円部があります。

 

 

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讃留霊王神社由緒。

 

この丘は讃岐の代表的伝説の1つである悪魚退治のヒロイン

武殻(たけかいこ)王墳墓の地であり、王を祀る讃留霊王神社の

鎮まります丘である。 概要をのべよう。 

 

昔景行天皇の御代、南海に悪魚現れ、船をのみ、南海諸国の年貢を

略奪するなど、暴虐の限りなく官兵を派すも悉く亡ぼされた。 

天皇は、皇子日本武尊に討伐を命ず。

尊は、その子十五歳の勇士霊子を推す。

霊子命を奉し南海に赴き謀を秘めて悪魚に対す。

 

悪魚その軍船を一呑にするも動せず、火をもて腹の中を焼き、肉を割き、

悪魚の屍にまたがり福江の浦に漂着す。

時に一童子現れその捧くる霊水により毒気に倒れた軍兵皆蘇生す。

この伝説を史家曰く、日本武尊内海の賊を平け、その功を子に譲りたりしと。

 

天平年中、行基法師は、魚霊堂を福江の浦に、王居館の地玉井の里に

法勳寺を建立し、悪魚の霊を追福した。

霊子長して武殻王は、この功によりこの国を賜り、民に養蚕の術を

教え給いしが、仲哀天皇の入年9月15日、齢百二十五歳て薨せられ、

居館を望む景勝のこの丘に葬り奉る。

 

南海の民廟を立て永く讃岐に留り給いしを祝き、讃留霊王大明神と称え

奉る。

王の子孫は祖先の業養蚕並に綾織をひろめ、年毎の調貢に綾公の姓を賜り、

永くこの地方に栄えた。 当地 綾野氏もその後裔と伝えられる。

 

後、弘法大師は魚霊堂を奉勳寺に遷し、王の墳墓の上に薬師如来などの

仏像などを納め荘厳なる供養を行う。

又、社伝によると桓武天皇の御代、神霊此の山に現れ給い、神託により

和気氏、王の墓前に社伝を造営すと伝う。

 

                                ( 境内説明文 )

 

讃留霊王は景行天皇~仲哀天皇の御宇の王子ですので、3~4世紀頃が

舞台です。

讃留霊王とされるのは、日本武尊の弟である神櫛皇子(かみくしのみこ)

もしくは日本武尊の王子である武卵王(たけかいこおう)で、記紀では

神櫛皇子と武卵王の事績は述べられていません。

親と後裔の士族が述べられているだけです。

 

御由緒に書かれている内容は、江戸時代に作られた十編の伝説の

ごく平均的な内容を書いています。

 

実は、讃留霊王神社が鎮座されるこの前方後円墳は、被葬者がどなたか不明です。

地方の豪族を葬った古墳であることは間違いないですけれど。

江戸末期に、隣に鎮座される八坂神社の境内社である讃留霊王社を、この古墳の

後円部に遷座した、ということでした。

 

だからといって、この古墳が讃留霊王のものではない、とは言えません。

被葬者は不明ですので、可能性はあります。

 

御由緒の書き出しで、「悪魚退治のヒロイン武殻王」と書いてあるのは、

おそらく「悪魚退治のーロー武殻王」の書き間違いですが、ヒロインである

可能性もとても低いですが、あります。

 

『日本書記』によれば、日本武尊は熊襲・伊豆芋を征伐した帰りに、

吉備の穴戸の海賊と山賊を退治しています。

 

その話が讃留霊王の悪魚退治のモデルであり、

吉備に寄った時に吉備穴戸媛と結ばれ、生まれた王子が武卵王、

日本武尊は讃岐の悪魚退治を我が子の武卵王の功績とした、

武卵王は悪魚退治の功績により、讃岐国造になった、

という物語も、江戸時代に作られた10編の中には含まれています。

 

矢塚伝説。

 

 

晩年、海が見える場所に住むことがいやになった讃留霊王は、

居城の城山から矢を放って、その矢が落ちた海の見えない場所に

館を建てることにしました。その矢が、突き刺さった石です。

 

方墳部分の隣に、法勲寺跡があります。

 

 

 

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寺名の由来

 

大無量寿径巻上の四句偈 「神徳無量功勲広大」による。

武殻王悪魚退治は薬師如来の威徳の法の勲であるとし、

これを彰するために建立。

 

寺の境内

 

日吉の丘陵の先端・大束川(逆さま川)の一町四方。

 

伽藍配置

 

南中門・正面講堂・東金堂・西に塔、の奈良法隆寺に似ている。

 

                                   ( 境内説明文 )

 

悪魚の霊を鎮めるためにつくられたお堂は、3つの説が存在します。

 ・魚霊堂 (志度町)

 ・行基菩薩が開基された無量寿院  ( 高松市)

 ・法勲寺 (丸亀市飯山町 )

 

 

 

 

以上。

八坂神社は、JR坂出駅とJR琴平駅のほぼ中間に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:丸亀市飯山町下法軍寺1528

 

八坂神社のすぐ近くには、武卵王(たけかいこおう)を葬った前方後円墳

の後円墳部に鎮座されえちるといわれる讃留霊王(さるれお)神社、

讃留霊王(さるれお)が退治した悪魚の霊を弔ったという法勲寺が

あります。

 

 

こうなると、讃留霊王(さるれお)は神櫛皇子(かみくしのみこ)ではなく、

武卵王(たけかいこおう)に違いない、と思われるかもしれませんが、

そう簡単には決着がつきません。

 

近くに土器川が流れています。

讃留霊王(さるれお)の後裔である綾氏は、土器川の周辺に讃留霊に

関連する神社が多く鎮座されています。

 

 

 

左に手水舎。

 

 

 

    

 

江戸時代後期に奉納された狛犬 ( 年が潰れて読めません )

 

    

 

    

 

御神門をくぐった右に手水舎。

 

 

 

 

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祭神 素戔嗚尊 (すさのおのみこと)

    稲田姫命 (いなだひめのみこと)

    脚摩乳神 (あしなづちのかみ)

    手摩乳神 (てなづちのかみ)

 

由緒

 

上代の神社は、その土地の氏族によって奉斎された天神地袛と言われる

自然神であると同時に祖先神であった。

氏神が産土神とも呼ばれる由縁であり、我々が「地に繋がり命に繋がる」

感覚の中で育んできた信仰である。

 

社伝によると、神代の昔、南海遊御の折この地に、暫くお泊りなされた。

尊は「此の地に安く居たり」と仰せられたことにより、この地名を

安居原(やすいがはら)と称した。

 

第十二代景行天皇の皇孫で、日本武尊の王子の武殻王(たけかいこおう、

さるれお)は、南海の悪意魚を征して後、讃岐の国造に任ぜられた。

その時王は、素戔嗚尊と深いご縁の或る地であるので、「出雲須加の神」

を迎えて当社のご祭神として奉斎した。

 

天平勝宝二年 (751)、社殿を再営し、当地の守護の氏神とされる。

 

                                  ( 境内説明文 )

 

 

拝殿に向かって左前に境内社が鎮座されます。

 

 

合祀神社。

 

 

二宮報徳神社。

 

 

水神宮。

 

 

拝殿に向かって右に集められた石塔や石祠。

 

 

 

    

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

機能的な飛び出し注意喚起。

 

 

坂元神社は讃岐富士の西麓に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:丸亀市飯山町西坂元187

 

 

 

明治六年に奉納された狛犬。

 

    

 

 

 

 

 

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輝く星の氏子われ-坂本神社由緒-

 

秋風そよぐ夕まぐれ、飯野の山は神さびて、星のまたたく宵なりき。

国持の里 鵜殿の越し、五の坪・倉前・馬倒し古き地名は今もなお

ここなしここに残れども、世の盛衰はいちじるしく。

高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。

 

南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。

父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば

召せとも応ぜず。

摂津・住吉また阿波内喰にあり。

一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。

 

薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。

飯山大権現また力山大明神とも称す。

その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。

祈れば必ず勇力を賜ると。

 

初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀

にもあり。

鷲住王もその跡も、遠い遙かの昔より、今に輝く天の星。

小さいながら私らも、これにつながり生きる星。

飯野の山を仰ぐ時、輝く星の氏子われ、氏子のわれらここに輝く。

 

昭和六十年六月吉日

                                              ( 碑文 )

 

 

御祭神は鷲住王。系図は、以下のようになります

 

景行天皇  神櫛別命(神櫛王)  千摩大別礼命  

 須売保礼命(讃岐国造)  鮒魚磯別王  鷲住王  秋津根王

 

西麓に坂元神社(鷲住王)、 東麓に一王子神社(秋津根王)、

この東には、神櫛王を祀る三谷神社・亀山神社、

神櫛王の王子を祀る讃王神社など、神櫛皇子系の祭神を祀る神社が

たくさん鎮座されています。

 

 

拝殿に向かって右に境内社が鎮座されます。御社名不明。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

 

以上。

一王子神社は、讃岐富士の東麓に鎮座されます。

香川県でたくさんの支店を持つスーパーマルナカの反対側から登れば、

近道です。

 

 

 

私はスーパーマルナカでサラダだけの軽い昼ご飯を取った後、参拝に向かったのですが、

道側からわからず、さぬきふじの登山道から向かいました。

 

 

ノンアルコールビールをお昼に飲んだのは初めて。

ノンアルコールなのにビールを飲んだような、少し酔っぱらったような

状態になってしまいました。

 

昼間からお酒を飲んだことはないですが、ノンアルイコールビールも

昼間には飲まないほうが良いと思います。

( 欧州では会社の食堂で、ノンアルコールのビールやワインが飲めるのは

( 一般的だと思います。

( やつらが昼食後、仕事をしないのは、酔っぱらっているからなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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祭神 秋津根王

 

今からおよそ1500年前、履中天皇の皇后の兄にあたる鷲住王

(わしずみおう)が、阿波の国脚咋邑(あしくいむら)に住まわれた時、

野根王が生まれ、讃岐の富熊郷に移られて又、一王子がお生まれに

なった。この方を秋津根王と申し上げる。

 

王は民意を汲み飯山南麓をよく治められたので、里人は祠を建て

一王子神社として崇敬してきた。

今も残る秋常原の地名に遠き古が偲ばれる。

高木氏はその子孫と伝えられている。

 

亀山神社境外末社。

                               ( 境内説明文 )

 

脚咋(あしくい)」邑は、現在の徳島県宍喰(ししくい)町です。

 

略系図は、

景行天皇  神櫛別命(神櫛皇子 )─ 千摩大別礼命 

  須売保礼命 (讃岐国造)  鮒魚磯別王  鷲住王  秋津根王

 

神櫛皇子は、「 讃岐国造の祖 といわれています。

鷲住王については、『日本書紀』履中天皇の章に

 

二嬪恆歎之曰

「悲哉、吾兄王、何處去耶。」

天皇聞其歎而問之曰

「汝何歎息也。」

對曰

「妾兄鷲住王、爲人强力輕捷、由是、獨馳越八尋屋而遊行。

 既經多日、不得面言、故歎耳。」

天皇、悅其强力以喚之、不參來、亦重使而召、猶不參來、

恆居於住吉邑。自是以後、廢以不求

 

と記されています。

現代語訳;

 

 この二人の嬪は常に

 「悲しいな。私の兄は何処に行ってしまったのだろう」

 と嘆いた。天皇がその嘆きをお聞きになって

 「お前は何を嘆いているのだ」

 尋ねると、

 「私の兄の鷲住王は力が強く身軽くて一人で大きな家を飛び越えて

行ってしまいました。

それから日も経つのに、会って話こと出来ません。

それで嘆いています」

と答えた。天皇はその力が強いことを喜んで招喚したが鷲住王は

はせ参じなかった。

また重ねて使いを出しても、応じることはなく、

常に住吉(すみのえ)に居た。これ以後(天皇は) 招喚なかった。

 

鷲住王を祀る神社がいくつかあり、一王子神社と同じような由緒があります。

神櫛皇子系列のお社として、参拝しました。

 

拝殿に向かって左前に地神が祀られています。

五角形ではなく、四角形の石柱です。

御祭神名を確認すべきでしたが、暑くて暑くて、確認するのを忘れました。

 

 

この日はとても暑く、狛犬の写真もぶれてしまったので掲載できず...

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

三谷神社は坂出JCTから東へ2㎞。

亀山神社から更に1㎞ほど深いところに鎮座されます。

高低差はそれほどないのですが、道のりの坂が急できつかった。

 

 

青マークは亀山神社

赤マークは三谷神社

 

 

鎮座地:丸亀市飯山町東坂元3292

 

高さ10mほどの坂を登ったところに鎮座されています。

坂を上りきると、広々としていて驚きました。

 

 

参道の右に御神門。

 

 

 

    

 

御神門から振り返ると、かつての参道がありました。 

 

 

御神門をくぐります。

 

 

 

 

出雲地方でよくみかけるポーズの狛犬。

弘化四年の奉納です。

 

    

 

 

 

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祭神 

神櫛王     ( かみくしのみこ、神櫛皇子 )

五十河姫命  ( いかわひめのみこと、神櫛王の母君、景行天皇の妃 )

 

由緒

 

生駒記に

『城山神社今社地を失ふ。因て神号を会て不知也。

 一摩尼珠院境内小宮、一府中村印鑰大明神、一東坂本村三谷宮、

 此三所各勧請の由を云う。何れぞ是ならん。』

云々とあり。

 

讃岐式社考に

『城山神社は城山の東西にあり、即ち東は阿野郡府中中村印鑰大明神

 西は鵜足郡東坂元村三谷宮なり

と云へり。

 

伝ふる所によれば、正平十七年細川清氏兵を起こして吉野麻に盡し、

鵜足、阿野の諸山に壘 ( とりで ) を築く。城山亦その時の要所たり。

細川頼之来つて清氏を攻む。

清氏城山の神体を奉じ南麓割古に移す。今此の地を八幡尾と云ふ。

 

天正の初年再び荒神林に移し、寛永十九年再建あり。

元禄十三年又北山に遷座す。即ち現今の鎮座地なり。

祠、後に一大封土を設け神櫛王の古像を埋む。

 

当社に知ろう尼神社の古額一面ありて往古より伝はれり。

三谷八幡宮の称は荒神林に遷座以後の名称なりと云へり。

 

宝暦十一年本殿改築、

天明八年拝殿改築、

明治十一年本殿改築、

同二十一年兵電、拝殿改築。

明治五年八月十二日村社に列せられ、

大正五年三月祖神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

 

                                 ( 香川県神社誌 )

 

『式内社調査報告書』によれば、

 現在の城山神社は、以前は東に鎮座されて印鑰大明神と称されていた

と書かれています。

西の鵜足郡の三谷神社については名にも書かれておりませんし、

三谷神社は式内社城山神社の論社でもありませんので、城山神社の

御神霊を勧請したのが三谷神社、ということなのだろうと思います。

 

御祭神の神櫛王 ( 神櫛皇子 ) は、城山神社の由緒では

悪魚を退治された功により讃岐国に封じられた

とだけ書かれています。

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

飯山町 ( はんざんちょう ) のマンホール

 

 

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マンホール蓋の右手にデザインされているのは、丸亀市飯山町の特産品

である「桃」。 その生産量は県下一を誇ります。

 

背後にそびえ立つのは、新日本百名山のひとつである「飯野山」です。

円すい形の美しい姿から、別名、讃岐富士と呼ばれています。

 

左手に描かれている、ひときわ大きな足跡は、飯野山に伝わる伝説の

大男「おじょも」の足跡です。

飯野山に登ると、今でも「おじょもの足跡」がついた大きな岩を見ることが

できます。

 

2005年3月22日の合併により、綾歌郡飯山町は丸亀市飯山町と

なりました。

マンホール蓋の下方には、町の木であったサザンカがあしらわれています。

 

                       ( マンホールカードの説明文 )

 

讃岐富士 ( 飯野山 )。

 

 

亀山神社は、坂出JCTから南東へ1㎞。山のふもとに鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:丸亀市飯山町東坂元1372番

 

 

 

 

    

 

 

 

右に手水舎。

 

 

手水舎からの眺め。

 

 

 

    

 

明治三十五年八月に奉納された狛犬。

 

    

 

 

 

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亀山神社

 

祭神 息長帯比売尊 ( おきながたらしひめのみこと )

    武内宿祢命   ( たけのうちすくねのみこと )

 

由緒

 

社伝によれば、武内宿祢の裔坂元公此の地に住し、和銅年間国造の命を

受けて宇佐八幡宮を坂元村西分の地に勧請セリと云ふ。

而して今も猶その地を八幡原と称せり。

郷名坂本は坂本公の采地なりしに起因す。

讃州府志には真時村より迎えて祀ると云へり。

 

その後、老に夢告あり、吾れ亀山に鎮座して郷内を守らむと。

村民畏みて坂本東分亀山の地に遷座し奉る。

亀山は菅原道真雨を城山に祈りし時、庶民此の地に参集して

伏拝せし地なり。

 

当社記録の存するものなけれども、元和四年八月改築、寛永十五年

九月造営、延宝五年十月改築、寛永五年十一月改造の棟札あり。

明治五年八月二重に碑村社に列せられ、同四十年十月二十四日

神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

明治四十三年皇子神社を合祀す。

 

                                 ( 香川県神社誌 )

 

拝殿に向かって右に境内社が鎮座されます。

 

地神。

 

 

 

皇子神社。

御祭神は、神櫛皇子 ( かみくしのみこ ) 之王子です。

 

 

 

平成二十四年鳩居月に奉納された狛犬。

昭和後期の狛犬のデザインが、更に簡略化されています。

 

    

 

集められた灯籠・祠等。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

横潮神社は、JR坂出駅から南東へ1㎞、小さな山の中腹に鎮座されます。

 

 

福江というのは、讃留霊王 ( さるれお、日本武尊の王子もしくは弟 ) が、

悪魚を退治した ( 海賊を成敗した ) のちに上陸した場所です。

衛星写真で見る平地のほとんどは、当時は海で福江町は海岸でした。

 

 

 

鎮座地:坂出市福江町3丁目5

 

讃留霊王 ( さるれお ) 伝説について、再度書いておきます。

 

 景行天皇二十三年、巨大な悪魚が南海の海に現れ、人や船を飲み込んで

 大暴れしていた。

 景行天皇に悪魚退治を命じられた王子は兵士を率いて、讃岐で悪魚と

 対峙したが、王子と兵士たちは船ごと呑み込まれてしまう。

 

 王子が悪魚の腹を切り裂いて外に出てきた。悪魚は死んだ。

 兵士たちは悪魚の毒気にやられて半死状態であったが、そこに現れた

 童子が持っていた清水を兵士たちに与えると、兵士たちは生き返った。

 この清水は八十蘇(やそば)の清水と呼ばれた。

 

 王子は讃岐に留ったので讃留霊王と呼ばれた。讃岐国造の始祖である。

 讃留霊王は仲哀天皇八年、125歳で薨じられた。

 

八十蘇 ( やそば、青マーク ) の清水と福江 ( 福江 ) の位置関係は

下記です。

 

 

現在の平野は海でしたから、海沿いに2㎞ほど離れたところにあります。

この童子 ( 横潮大明神 ) を祀った神社が横潮神社です。

 

横潮神社の入り口にある地蔵さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

天保十四年十一月に奉納された、頭でっかちの狛犬。

 

    

 

 

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乃ち横潮明神は、讃留霊王に安庭水 ( やすばのみず ) を教え給ひ、

白雲となりて此の所に止まり給ひし故、祠を建てて之を祀ると伝えられる。

 

八十蘇水 ( やそばのみず ) は長寛二年八月崇徳天皇崩御の砌、

二旬に渉りて天皇の尊骸を浸し奉りて宣下の来るを待ちし所と伝えられ

霊水としてその名高く、一に野沢井の水とも云ひ、今西庄にあり。

 

                               ( 香川県神社誌 )

 

 

本殿に向かって左後方に境内社が鎮座されます。 御社名不明。

 

 

 

拝殿に向かって右に境内社が鎮座されます。

左:若宮社、右:日本武尊社。

 

 

若宮社。

 

 

日本武尊社。

こちらでは讃留霊王は、日本武尊の王子の武卵王 ( たけかいこおう )

とされていますので、父君がまつられているのでしょう。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

 

以上。

四十三神社は、琴電:栗熊駅から南へ1.5㎞、岡の上に鎮座

されます。

 

 

 

 

鎮座地:丸亀市綾歌町栗熊東 2848-1 四十三神社

 

 

 

 

奉納時期不明の狛犬。首が長い、独特のデザインです。

 

    

 

 

 

    

 

 

御創建の詳細は不明です。

 

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祭神 神櫛王とその臣四十二神

 

由緒

 

口碑には、鵜羽葺不合尊 ( うがやふきあえずのみこと ) の御跡を

慕って、神櫛王とその臣四十二神が、宇閇 ( うえ ) 地方に来住して

この地方を開拓されたが、その徳を讃えて四十三神として、お祀り

したのが当社であると伝えている。

 

                                 ( 綾歌町史 )

 

この神社では、讃留霊王 ( さるれお ) を神櫛皇子 ( かみくしのみこ )

しているものと思われます。

臣下四十二人という数字は、このお社独特のもので、他のお社の

伝承や、数多くある讃留霊王伝説では見られません。

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。