あなたの世界を形作るもの。
『私たちは死の心配によって生を乱し、 生の心配によって死を乱している。』
そういったのはモンテーニュであったか。
ところが昨今、
ヒトの死は、本人が乱そうと考えることすら出来ないほど、
医療は発達した。
つまり、
本人が死に向き合うという、おかしな言い方かもしれないけど、
責任を果たすことが出来ない。
そのくらい、脳みそが働かなくても、
生存することができる。
認知症の人の話ね・・・。
と思った方。違う、違う。
そんな、低俗な話をしているわけではない。
今や、認知症の人の脳みそが働いていないと思っている人は、
その無知という、困窮状態にある。
そうではなくて、
看取りの話。と言うか。
今や、最期の死の心配や、生の心配は、他人に委ねられており、
言うなれば、
『私たちは、親の死の心配によって、親の生を乱し、
親の生の心配により、親の死を乱している』
いや、介護家族の批判をしているわけではない。
そんなことも、する気は無い。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●
僕のじいさんは、糖尿病で入院。
いわゆる、老人病院に入った。
僕は高校生だったので詳しく病状はわからなかったけど、
数ヵ月後、亡くなった。
へぇ。糖尿病って亡くなる病気なんだ。
びっくりした。
だって、じいさん、お見舞いに行ったときに、
『退院して、刺身と日本酒。飲みてぇなぁ~。』
と言っていたから。
江戸っ子を絵に描いたようなじいさんで、
情に厚く、仁義を通す。
粋で華がある人だった。
今、思うと、自慢のじいさん。
その時は何も感じていないんだけど。
んで、なくなるなどと思わないから、寝耳に水。
死亡診断書を見た。
『糖尿病』による、
『褥そう』による、
『菌血症』と、書いてあった。
親族一同、
『おいおい。死ぬときに、「金欠」かよ。』
『金欠症って…。違う!?菌血症?へぇ。』
なんて、笑っていたのだけど、
(もちろん、当の本人は、亡くなって空から見ながら、
『違う、違う、結構苦しかったんだから、笑うところじゃないだろう(怒)』
となっていたに違いない。
んで、僕は医学部志望だったから調べるよね。
『敗血症の軽いやつ。』
と、どこかの本に書いてあったわけ。
ねえちゃんが獣医学部にいたから、動物の基礎医学かなあ?
そもそも、
『菌血症』が死因になるとは考えにくく、
『敗血症』で血液が固まっちゃったりしたんだろうなあ。
ということがわかった。
すると、
『じいさん、自分が死ぬって思っていなかっただろうなあ。』
と思ったわけ。
昏睡状態になってから、
3日間。抗生物質が効かない。
糖尿病だから、抗体も弱く、尿毒症かもしれない、敗血症かもしれない。
そんなことはわからないけど、こりゃあ、やばい。
となってから、3日間。彼は、自分の死を覚悟していたかというと、
多分、そんな時間すら与えられなかったかと思う。
しかし、
亡くなってからわかったこと。
尻に、ぼっかりと、穴が空いている。
ほら、あるでしょ?
テレビの裏に、そのテレビを持つためにある穴。
重いものを持つための陥没。
ちょうど、人差し指から小指までが入るような穴。
僕は初めて、褥そうってものを見た。
骨が見えていて、痛そう。
不謹慎かもしれないけど、
既に動かなくなったじいさんの尻を見て、
『持ち上げて、移動するための、穴』のように感じた。
不可逆的に生物学的な死を迎え、その一線を越えた、
粋でもなく、華も無い、その体。
死ぬ準備すら出来なかった(少なくとも、僕にはそのように感じられた)
その体は、客観的な生への執着も無く、ぽっかりとそこにあるだけだった。
『理不尽な死』
僕は、死への免疫が無く、畏怖やら、恐怖やら、尊厳やら、すら、
感じる暇も無いほど年を取ると死ぬ。ということを、感じた。
そこに、あったのは、無。である。
母がぽつりと言った。
『誰かが、体を動かしてくれれば。』
(体位交換ですよね?)
彼の死が理不尽なものであったならば、
生きながらえたその先にあったのはなんだろう?
最期の晩酌?食事?
それとも、遺された家族に伝えること。
ばあさんとの時間?
一体彼がやりたかったことはなんだろう?
●●●●●●●●●●●●●●
慢性疾患で徐々に命を閉じていく中で、
急性疾患(DICとかね)にかかる。
死へのスピードは、時間差攻撃で降りかかり、
本人は準備が出来ず、周りも準備が出来ない。
たくさんの方の人生を閉じていく中で、
自分のじいさんの時のように、人の死に『無』で居たくない。
そんな思いで、やってきたのだ。
●●●●●●●●●●●●●●●●
そのような中、
昨日、かみさんのばあさんが、命を閉じた。
糖尿病で、療養病院(笑)に入院。
納棺だったのだけど、
葬儀屋が、
『湯灌は、上半身だけにしてください。』
『お着物に着替えますので、一度、外に出ていてください。』
・・・明らかに、おかしい。
問いただすと、
『腕、足、お尻、包帯でグルグルなんです。』
僕がじいさんを亡くして、20年。
同じような状況で、(かみさんの)ばあさんを亡くす。
僕がどのように感じたか?
次回に続くのである。
人間は、物事それ自体によってではなく、
彼らがこれに関していだいているところの
考えによって苦しめられている
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そういったのはモンテーニュであったか。
ところが昨今、
ヒトの死は、本人が乱そうと考えることすら出来ないほど、
医療は発達した。
つまり、
本人が死に向き合うという、おかしな言い方かもしれないけど、
責任を果たすことが出来ない。
そのくらい、脳みそが働かなくても、
生存することができる。
認知症の人の話ね・・・。
と思った方。違う、違う。
そんな、低俗な話をしているわけではない。
今や、認知症の人の脳みそが働いていないと思っている人は、
その無知という、困窮状態にある。
そうではなくて、
看取りの話。と言うか。
今や、最期の死の心配や、生の心配は、他人に委ねられており、
言うなれば、
『私たちは、親の死の心配によって、親の生を乱し、
親の生の心配により、親の死を乱している』
いや、介護家族の批判をしているわけではない。
そんなことも、する気は無い。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●
僕のじいさんは、糖尿病で入院。
いわゆる、老人病院に入った。
僕は高校生だったので詳しく病状はわからなかったけど、
数ヵ月後、亡くなった。
へぇ。糖尿病って亡くなる病気なんだ。
びっくりした。
だって、じいさん、お見舞いに行ったときに、
『退院して、刺身と日本酒。飲みてぇなぁ~。』
と言っていたから。
江戸っ子を絵に描いたようなじいさんで、
情に厚く、仁義を通す。
粋で華がある人だった。
今、思うと、自慢のじいさん。
その時は何も感じていないんだけど。
んで、なくなるなどと思わないから、寝耳に水。
死亡診断書を見た。
『糖尿病』による、
『褥そう』による、
『菌血症』と、書いてあった。
親族一同、
『おいおい。死ぬときに、「金欠」かよ。』
『金欠症って…。違う!?菌血症?へぇ。』
なんて、笑っていたのだけど、
(もちろん、当の本人は、亡くなって空から見ながら、
『違う、違う、結構苦しかったんだから、笑うところじゃないだろう(怒)』
となっていたに違いない。
んで、僕は医学部志望だったから調べるよね。
『敗血症の軽いやつ。』
と、どこかの本に書いてあったわけ。
ねえちゃんが獣医学部にいたから、動物の基礎医学かなあ?
そもそも、
『菌血症』が死因になるとは考えにくく、
『敗血症』で血液が固まっちゃったりしたんだろうなあ。
ということがわかった。
すると、
『じいさん、自分が死ぬって思っていなかっただろうなあ。』
と思ったわけ。
昏睡状態になってから、
3日間。抗生物質が効かない。
糖尿病だから、抗体も弱く、尿毒症かもしれない、敗血症かもしれない。
そんなことはわからないけど、こりゃあ、やばい。
となってから、3日間。彼は、自分の死を覚悟していたかというと、
多分、そんな時間すら与えられなかったかと思う。
しかし、
亡くなってからわかったこと。
尻に、ぼっかりと、穴が空いている。
ほら、あるでしょ?
テレビの裏に、そのテレビを持つためにある穴。
重いものを持つための陥没。
ちょうど、人差し指から小指までが入るような穴。
僕は初めて、褥そうってものを見た。
骨が見えていて、痛そう。
不謹慎かもしれないけど、
既に動かなくなったじいさんの尻を見て、
『持ち上げて、移動するための、穴』のように感じた。
不可逆的に生物学的な死を迎え、その一線を越えた、
粋でもなく、華も無い、その体。
死ぬ準備すら出来なかった(少なくとも、僕にはそのように感じられた)
その体は、客観的な生への執着も無く、ぽっかりとそこにあるだけだった。
『理不尽な死』
僕は、死への免疫が無く、畏怖やら、恐怖やら、尊厳やら、すら、
感じる暇も無いほど年を取ると死ぬ。ということを、感じた。
そこに、あったのは、無。である。
母がぽつりと言った。
『誰かが、体を動かしてくれれば。』
(体位交換ですよね?)
彼の死が理不尽なものであったならば、
生きながらえたその先にあったのはなんだろう?
最期の晩酌?食事?
それとも、遺された家族に伝えること。
ばあさんとの時間?
一体彼がやりたかったことはなんだろう?
●●●●●●●●●●●●●●
慢性疾患で徐々に命を閉じていく中で、
急性疾患(DICとかね)にかかる。
死へのスピードは、時間差攻撃で降りかかり、
本人は準備が出来ず、周りも準備が出来ない。
たくさんの方の人生を閉じていく中で、
自分のじいさんの時のように、人の死に『無』で居たくない。
そんな思いで、やってきたのだ。
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そのような中、
昨日、かみさんのばあさんが、命を閉じた。
糖尿病で、療養病院(笑)に入院。
納棺だったのだけど、
葬儀屋が、
『湯灌は、上半身だけにしてください。』
『お着物に着替えますので、一度、外に出ていてください。』
・・・明らかに、おかしい。
問いただすと、
『腕、足、お尻、包帯でグルグルなんです。』
僕がじいさんを亡くして、20年。
同じような状況で、(かみさんの)ばあさんを亡くす。
僕がどのように感じたか?
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彼らがこれに関していだいているところの
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