自分にとってタイトルの内容で一番必要だったのが 4年前に始まったコロナ騒動の流れから

 

最終的に『ワクチンを打つ、打たない』というところまで 

子供をメディアの洗脳に一切汚染させなかったことでしょう。

 

 

 

奴隷マスクの着用、非着用や 添加物に汚染されたジャンクフードから 自分以外に家族まで遠ざけることは

メディアや大企業の嘘に気付いている意識の高い人でも 手を焼いている問題ではないでしょうか?

 

 

 

 

 

私は子供と極めて良好な関係にあり 反抗期というのは一切ありませんが

親として、というより 個人的に言いたいことは言うようにしています。

 

 

 

もちろん、このスタンスというのはそれぞれなので ここで書く以外の考えを否定するつもりは一切ありませんし

むしろ、一般的には自分よりも寛大な人が多いだろうと感心しているくらいです。

 

 

 

 

言いたいことや主張というのは たとえば子供が小さい時に

『ウチはディズニーランドには行かんから 行きたかったら他所の家族が行くときに 一緒に連れて行ってもらいな。

それ以外ならどこでも連れて行くわ』

と先に断言したり

 

 

『見たい映画があれば 一人で行ってくれ』と 幼稚園児の時でも私が見たくもない子供向けの映画のために お金と時間を使うのはまっぴらごめんと主張してました。

 

(今なにかと、子供の誘拐が囁かれているので、目を離すのは危険な時代なのかなと思うこともある。 

ちなみに、映画館では入口の前で係に付き添いと言い 席に着くことを確認してから退場し あとで迎えに行っていた。

運動会も興味がないので、一度も見に行ったことがない)

 

 

 

 

子供をコントロールしようなどという考えは間違ってもありませんが 大きくなっていくに従い

↑で書いたような主張は 言い方によっては仲違いの元になってしまいますが 

 

 

今後も”コロナの嘘”みたいな空気が発生した際に 絶対的に間違った方へ進むことだけは阻止するために 

普段から子供に舐められないように心掛けてることがあります。

 

 

 

 

それは、会話の中で少しでも沸いた疑問に対し 絶対に『なぜ?』と聞くクセを習慣付けるよう言い聞かせており

 

私自身、その問いかけに必ず 『なんとなく』ではない 納得のいく回答を出すようにしているからです。

 

 

 

 

たとえばですが、先日は子供が友達とゲーセンの隣のボーリングに(大きくなってから)始めて行ってきたそうで

 

『ボーリングおもろかったわ~。』という流れから 『今度またボーリング行かん?』と聞かれた際に

 

『いや、ええわ』 と私は即断りました。

 

 

 

そこでまた即座に子供は『なんでなん?』と聞き返してくるので

『ボーリングは自分がこの世で最も興味のないものやからや』と本音を返しました。

 

(もちろん同等それ以上に興味のない分野はある。)

 

 

 

ここで

 

また『なんでなん?』と聞いてくるのですが 

これを習慣付けるために 小さい頃から何百回言い続けてきたか分からないほどです。

 

 

 

 

人が納得するもしないも 全て理由次第なんです。

 

 

 

 

これを有耶無耶にしたまま会話を終わらせるのは 人間社会の可能性の芽を全て摘み取ってしまうレベルのことだと思ってます。

 

 

 

当然、相手との会話の流れによっては 聞いてはいけないこともあるのですが その空気を読むのはもっと高度で幼少期には判別できませんから 

 

とりあえず自分の疑問に思ったことは 反射的に『何故?』と聞くように言い それから聞くべきこと聞いてはいけないことを教えてきました。

 

 

 

 

で、その『なぜボーリングに興味がないか?』を自分はいきなり聞かれたのですが 

そこで『なんとなく』とか『下手だから』と返したら 舐めていた自分の親父と変わらないので 漠然と頭の中にあった理由を言葉にしました。

 

 

 

 

私はそれを 『スパイスカレー』で例えたのですが

スパイスカレーを美味しく作るには

 

具材とスパイスの相性(路線)

 

具材の分量 油(脂)の量

 

最終的な塩分の濃さ

 

スパイスの分量(どれくらい効かすか)

 

路線に対し とろみ(粘性)をどれだけ出すか

 

というポイントを押さえれば 自分なりに美味しいカレーができる訳です。

 

 

 

それはどんな料理を作るにも 食材同士の相性と分量が重要で

『再現性』に最も大事なことです。

 

 

 

つまり、私がボーリングに興味がないのは 『再現性』のポイントが分からないから なのです。

 

 

 

 

全てガーターというわけではなく 投げればたまにストライクも出せば 残ってる半端なピンを全て倒すこともある。

 

けど、ストライクを出しても なぜ自分がストライクを出せたのかが分からない。

 

 

再現しようと思っても 料理を再現するような明確なポイントが体に残っていないし どれだけ狙っても最後は平均的なポイントでゲームが終わる。

 

 

 

プロはそのためのポイントを押さえ 体に染み付かせ 極限まで再現性を高めているのだろうけど  自分にその意欲はない。

 

 

だからどれだけ狙って投げているようで その狙いは本質的には外れており 

結局、素人同士のゲームは絶対的なセンスによる『運』だけで行われているのだと。

 

 

 

カラオケは練習して 喉のどこをどう使えばこういう声が出るとかが感覚的に分かるので 上達の余地があったけど

ボウリングにはそれを感じない。

 

だから興味がない という理由を述べた。

 

(他には、勝負という名目のもとに 得点を競うゲームが好きではない。 採点者によって評価がバラバラになる『表現』の世界の方が自分は有利で納得がいく。)

 

 

 

 

『それでええかな?』と聞くと 『ああ』と返ってきた。

 

 

 

これでボウリングに一緒に行く必要はなくなった。

けど、子供が友達とボウリングをしている様子は興味があるので その時のことで長々と楽しく話した。

 

 

 

 

 

私の父親は悪人ではなく むしろ善良な部類の人間でしたが単純で怒りのコントロールができず 

また、悪い意味で典型的な昔の人間らしく 真っ正面からの議論をすることなど到底不可能で 家族と距離ができてしまってました。

 

 

 

親父は子供に『医者とか先生になりなさい』とか言ってくる割りに ちょっと子供に揚げ足を取られるとムキになって激怒するという どっちが子供か分からない小物感満載な人でした。

 

なので肚の中で(『お前の間違いに気付かんほどのアホが医者になれるとでも思ってんのか⁉このバカが!』)と思ってました。

 

(医者もバカは多い。 殺人コロナワクチン打ったなら尚更)

 

 

 

 

自分の間違いを子供が指摘できたら そこは喜ぶべきところじゃないのか?

 

 

自分程度の人間を超えられない子供で終わって それで嬉しいのか? ていうか怖くないのか?

 

 

 

 

 

けど、メディアの嘘から救うことができたのは ただ舐められないように無理矢理、それっぽい理屈を捻り出してきたわけではなく

問題が起こるよりも前から 先回りして概念を教え込んできたこと

 

 

それ以上に、目に入れても痛くないほど可愛がり いかなる時も『お前の味方である』という意思表示をしてきたことと思っています。

 

 

 

 

そして、凄いと感じたところは 惜しみなく具体的な評価をして

『(私が)賢いから お前の賢さが分かるのだ』と付け加えてきました。

 

 

 

 

もうじき相撲でもしたら 投げ飛ばされてしまうのでしょうけど お互いを尊重し合えてたら 間違ってもそんな事態にはならないはずですよね。

 

 

 

自分が中学の時は家庭で流血沙汰にもなり それが将来の家族の関係を考えるキッカケの一つになったことは間違いないけど

もう少し親父と有意義な会話をしてみたかったですね。