私にとって 美容師になって良かったこと
それも、志した頃は考えたこともなかった 職業による恩恵は 人様の話をじっくりと聞けることです。
こういったことは以前にも書いたと思いますが 世の中広しといえど 美容師ほど様々な層の話に触れる職業は思い当たりません。
なぜなら 利用の際に時間をかけてお客とじっくり話す職業は他に沢山あったとしても
ほとんどの人は伸びた髪を切るために美容室 もしくは床屋を利用しますが
ネイルサロン エステ 整体 バー などは利用する人口の割合は減り 客層も、その意識も偏りがちになります。
伸びた髪を切るというだけなら 普通の中の普通という人から 二度見されるくらい特殊な風貌の人も
日々悩みの絶えない人から 天真爛漫かつ勝ち組な人まで 絶対に美容室には訪れます。
自分個人の客層にもよりますが およそ仕事外の私生活では交わることのなかった人の人生と その考え方を垣間見ることができ
その全く理解できないような人たちの集合体で 社会が成り立っているという現実や
その理解できない思考や行動パターンを形成するに至った経緯までも繋がっていくとこがあります。(お客が口を開いてくれるなら)
本当に自分が幸せに生きるためには 世界を限りなく俯瞰できる必要があり (もしくは信じたものを死ぬまで疑わないか)
成功者の話だけ聞いていれば もしくは他人の極限の不幸を自分の慰めにしていれば事足りるというものではないのです。
お客が美容室で喋る内容は 友達や家族へは言わない、言えない 第三者だけが聞ける話であることも多く
仮にそれが悩みであったとしても 薬頼りでハナから核心に迫ろうとする気の無い精神科医は 右から左へ聞き流してしまうでしょうから 極めて勿体ないものだと思います。
この今までのお客さんの話が 私にとっての財産です。
と、、、 前置きが長くなりましたが
今回は、不意に触れる人の本音と それに対し、前々から思っていたことを綴りました。
20年来のお付き合いになる男性客の奥様が 妙に心配性だということで 最近あったことをその一例として話してくれたのですが、、、
小1になる娘さんが学校で 同級生がこけたのか誰かとぶつかったのか 倒れて泣いており
その子の周りには数人の女子が囲っていたようでした。
奥様は娘さんに『それでどうしたの?』と聞くと
娘さんは特に輪に近づくこともなく 遠くから傍観していたと話すのですが それをお母さんは
『あんたね、そんなんじゃあんたが”ハブられる(除け者にされる)”よ!』 と窘めるので
旦那さん(お客さん)は『それってどうなんかなぁ』みたいに消化不良な気分だったようです。
その遣り取り対し奥様には 自分からは何も言わなかったようですが、、、。
どういうことかというと
”心配している素振りを見せろ” と娘さんに言いたい訳ですね。
友達もそうでもない子も取り囲んでいる中で 自分だけ(ではないけど)が傍観していることで 冷たい人間だと思われては損をするだろうと。
え~ 子供のうちからそんな打算的なことを考えるものかなぁと思いますが もしかするとお母さん(奥様)は子供の頃から 防衛本能の一つとして そういう行動をとっていたのかもしれません。
そうした方が賢いだろうと。 そして得だろうと。
娘さんは心配とかそうでないとか以前に 『もうすでに周りに誰かいるのだから 自分は行かなくても大丈夫だろう』と思ったらしく 別に悪意などあるはずもなかった。
こけて怪我してたり泣いていたりする傍に誰もいなかったのなら 様子を見に行くつもりではあったらしいと お客さんは話されてました。
まあ、当然といえば当然で 自然な行動でしょう。
むしろ 周りにすでに十分な取り巻きがいるにもかかわらず その向こうから覗くように様子を窺っている層は
心配よりも物珍しさから自分を見てるんだろう?と勘ぐられても仕方ないでしょう。
(最近では、事故などで人が倒れていたりする場面で なんの目的か当事者にスマフォを向けて撮影したりする輩が多く 世も末だなと薄ら寒くなる)
こういうことを書くと私が捻くれた奴だと思われてしまいますが 先程の”前々から思っていたこと”にも通ずることです。
私は子供の頃から 自分の弱みや怪我をして痛がっている場面を絶対に人に見せたくないという性質を持っており 人に心配されるのが非常に居心地が悪いと感じてました。
だから絶対に人前で泣いたこともないし 痛くても可能な限り平然を装ってました。
もちろん痛いものは痛いので 打ち所によっては声も出ないくらい固まってしまうこともあるので隠せない時もありましたが
倒れているところを『なんだなんだ?』と複数人が寄って来られる状況は何があっても避けたいので それはただ、怪我をしないように心掛ける他ないというものでした。
とはいっても 石ころのように倒れた自分をスルーされていたなら それはそれでトラウマとして別の習性を得たかもしれませんが
(こういうのを『面倒臭い奴』と呼ぶのでしょう(笑)
少なくとも冒頭の奥様のように 心にもない心配してる風を演じた人が寄って来られるというのは迷惑千万な話で
私みたいなのは特殊であっても 万人に対して通用する親切な対応でないことは確かなのです。
じゃあ、私がそういう場面に出くわしたらどうするのか?
それは 相手とその時々の状況によって対応は変わりますが
一つだけ 絶対に決めていることがあります。
それがいつだったのか。
小学生の時だったか 高校生の時だったか
国語なのか倫理なのかも記憶にないくらい 授業そのものはいい加減に聞いてる中で
たしか、教科書をペラペラめくっている時に目に入った 五七五のような短い一文に
脳天をカチ割られるような それまでの自分の言動の浅さをなじられるような衝撃を受けたのです。
『大丈夫? なんの役にも 立たない言葉』
これは授業で取り上げたものではなかったと思いますが
目に焼き付いたと同時に 冷や水を浴びせられたように過去を反芻したあとは
困った人に声をかける時は必ず 大丈夫?の先にある言葉をかけねばならない という原則が生まれました。
これは単なる自分ルールであって 他人が誰にどう声をかけようと勝手だし 相手の心の内がどうであれ表向き『大丈夫?』と声を掛けてもらいたい人も多くいるのでしょうけど
倒れている人を揺さぶっても意識がなければ 意識があっても身動きが取れなければ救急車を呼ぶのが当たり前だし
意識があっても悶え苦しんでいたら 『救急車呼びますか?』と一言声をかける。
(人によってはその状態が一時的なものと心得ており 下手に遠くの病院に搬送されたり 手続き上、大ごとになるのを敬遠している人もいる。 つまり、じっとしてるだけでいいというケース)
ウチのお客さんでも たとえば咳込んでる様子が長く酷いようなら 『水(もしくは飴)でもご用意しましょうか?』 とか
本当に喉が痛く辛そうなら 『こういう時は喋らないのが一番ですよ』と(笑) 極力喋らせないようにこちらが黙るようにするとか(喋りたい人はそれでも喋る)
仕事が終わらず切羽詰まった同僚を気にかけるなら 助けてあげたいなら 自分でもできそうなことを探して『~~やっておこうか?』とか 黙って済ませておいたりもできる。
そう、あらゆる場面を想定すればするほど 『大丈夫?』 ほど無意味な声掛けは無い。
腹痛や頭痛を労ったところで 他人がその人の痛みを肩代わりしてあげられる訳じゃないなら 少なくとも自分は
苦しんでいる時は放っておいてくれた方が嬉しい。
ドアの角に足の小指や頭をぶつけて悶絶を隠せない時は 見なかったことにして欲しい。
もし声をかけてくれるなら 具体的に自分に何ができるか考えてからでもよくて もし大丈夫じゃなければこちらから声をかけるだろう。
純粋な善意がありながらも 特に考えがなく『大丈夫ですか?』と声をかけているようであれば
声をかけられた側がどう反応するのかを想像してみる必要があるでしょう。
他人であれば 多少のことは『大丈夫です』と 遠慮して返してしまうのだ。
人の困りごとに全く無関心な人は論外で 声をかけるだけ好ましいことなのだけど
せっかく人を気遣う気持ちがあっても 聞き方によっては状況が変わることのないまま 『大丈夫と言われたのならいいか』と その場を離れてしまうのは残念なことです。
人の好意はもっと素直に受け取るものだと思われるかもしれませんが 私のように、関係の浅い同級生が必要以上に周囲を取り囲んでいる状況が不快に感じる人もいるのは確かです。
もっとも、子供のうちは単純で そこまで深く相手がどう思ってるかを勘ぐることはないでしょうけど
これがそこそこの年齢になれば 『この人は本当に相手を思って声を掛けてくれている』という嗅覚が働くようになってくるから イイ人 はイイ人から先へは進まないのですよね。
それにしても、、、 この話はこれに限ったものですが たったこの”他人への声掛け”一つで こうも親によって子供への窘め方が違うのだから
どこの家に生まれるか?がどれほど”自由意志”に影響を与えるのか ちょっと怖くなります。
いや、その影響が限りなく大きいなら そもそもの自由意志の割合など 極僅かなのではないか?
ところで、私は以前もこれに近いことを書いているのだけど
極限のシチュエーションで最適な対応を取れたかというと全く自信はないし
今、時間をかけて思い出して想像してみても 不甲斐ないことにあれ以上のことは浮かんでこない。
強いて言うなら
数年経った今 あのとき自分がどういう対応を取れるか? ではなく
同じシチュエーションであっても どういう対応をされると嬉しいか?も それぞれなのだということが分かった。
自分が人と違うように。

