極めて自由人だと思っていたウチの子供が 以外にも将来の就職先に対し 興味があっても『潰れるかもしれんから』と

敬遠する発言をしたのは ”最近の若者”ならではなのか? と残念に思った。

 

今回は、周りでこの先 進路を考えている人がいれば 選択肢の一つにはなるかなと思います。

 

 

 

 

考えるより先に動いてしまう自分には理解不能ではあるが 

こうやって独立して 小さいながらも”経営者”の目線で世の中を見ると確かに

 

 

『生き残るのが容易い職種(業界)』 

 

『生き残るだけでも至難の業という職種』 

 

があるのが分かりました。

 

 

 

(自分は中でも『伸びてくる髪を切る』という 文化的にも利便性から見ても 現代のサービス業の中では最も需要が高いとされている美容師業に 若くして携わることになったので

独立後も赤字で家賃も払えないとか 頑張りに見合うだけの生活が送れないなどという状態は そこまでの苦労もなく回避することができた。

 

 

美容業は総売り上げに対する利益率は 多く人を雇わない限り『半分』を下回ることはまずないのだけど

中には純利益がコンスタントに”10%”あれば上等だったり

数億円売り上げがあっても赤字で倒産という 素人では数字の感覚が良く分らない業界もある。)

 

 

 

 

中学の頃は ゲームを作る仕事 をやってみたいと思ったことがありました。

 

当時は病気のように妄想に耽って ゲームの世界観の中に生きていたので 自分の想像する世界がゲームで実現したら 

さぞかし楽しく嬉しいだろうなと思ってました。

 

 

(小学生の頃のゲームの攻略本(笑)

 

小学の頃は紙にこういうフィールドマップを自分で描いたり

 

 

 

高校になると ↑好きな小説のゲームに触発されて

 

 

↑ ゲームの中で小説を描いてみたりとかしましたが 

 

 

実際にゲーム会社に入ってゲームを作るというのはどういうことかは知らなかったし

(その時点で、ゲーム業界に入ろうと思ったことは無かった) 

 

 

30年前の当時(1994年)と 

世にゲームが現れた70年代と 

2020年代の現在とでは 

あまりにも極端なくらい環境が変わり果てていて

 

その変化について行くのは難しく 昔から第一線にいた業界人でさえも その動向には翻弄され続けているんじゃないでしょうか。 

 

 

 

 

と、ここで とても興味深いものを見つけました。

 

 

 

先日買った 1993年前後の『ファミコン通信』の中に

 

 

『テレビゲーム制作会社を探る』という企画があります。

 

 

 

これは一言でいうと 

 

メーカー本社が自社で専属クリエイターを雇うのと

 

下請けに外注することの違いになるのだけど

 

 

 

ここで特集されている制作会社は 小さいながらも、一からゲーム一本を全て作り切ってしまうような 生粋のアーティスト兼、職人集団

 

メーカーとは逆に 巨大な資本の要る販売の営業や広報を任せて 自分たちは純粋に『作りたいものを作る』というスタンスで少数精鋭というスタイルを貫いているようです。

 

 

 

(細かい会社の形態は ケースバイだったり会社によってマチマチなので書き切れませんが

車業界をはじめ製造業に 『元請け 下請け 孫請け』とあるように ゲーム業界も『自社のみで完結』とはいかないということですね。)

 

 

 

それにしても、、、

 

 

1970年代の ゲームがこの世にで始めた頃は 

ゲーム一本を一人で最初から最後まで作って発売することもできたのに

 

1990年代 スーパーファミコン時代だと

一本の開発に10人~20人以上が関わるようになり

 

現在では数百人規模が動員されてるので 『ゲームを作る仕事に就きたい』とゲーム会社に入社しても 花形の『企画』なんてピラミッドの頂点であって 

 

 

社員によっては一日中 画面の前でアイコン(キャラクター)を壁に沿わせて歩くだけとか バグが発生しないかを確認する作業ばかりとか 

廃人になってしまいそうな仕事ばかりを 連日繰り返すこともあるのだ。

 

 

 

 

現在のゲームのエンドロールには 映画に匹敵するほどのスタッフの名前が連なっており 

もはや『自分の考えたゲームを世に出したい』なんていう想いを形にするということは 絶対に実現しない時代になってしまったのだろう。

 

 

 

 

もっと突っ込むと 昔はどのメーカーもノリが軽く 売れるか分からんような企画もどんどん通して発売してたけど

 

今は、『絶対に売れる』と確実視されたものでないと 予算や融資が降りないという 極めてシビアな時代でもあるのだ。

 

 

(昔は、音楽の世界では、自主製作のインディーズバンドが自分たちの存在を広めるには限界があり、メディアとつながるレコード会社と契約して『メジャーデビュー』するしかなく

売れないバンドはその条件として、”プロデューサー”や”評論家”が想定する、売れる方向性や以降に従うことを強いられていた。

 

世間では知名度があり、数十万枚売れたバンドでも、プロデューサー付きの企画バンドのミュージシャンの中には、その音楽性を全然好きになれずに仕事をやっていたと、後々に語っている人は少なくない。

 

 

現在はYouTubeなどで自分の音楽を、一切の第三者を介入させずに世界に広めることが出来る時代にはなったけど、

今は今で大きな問題や壁が立ちはだかっている。)

 

 

 

 

が、この1994年の雑誌には 全てのスタッフ同士が顔を合わせて 一本のソフトを作り上げるために団結していた様子が書かれている。

 

 

 

 

当時、実力派と注目されていた 6社の社長インタビュー。

 

全て目を通してみたのだけど 超大手のようなしがらみのない環境で 社長自ら現場でモノづくりに携わる姿勢や 説得力のある発言は本当にカッコいい。

 

 

 

↓ 若き実力派クリエイター兼社長たち。

 

 

 

 

しかし、、、そんな熱い彼らの会社も 調べてみると現在残っているのは

 

 

 

彼ら2人のみ。

 

 

 

常に売れ続けるのがいかに難しいかということは 

30年も活動しているメジャーな歌手などのアーティストがいる傍らで アルバム一枚出して消えていった人はその何倍もいることが物語っているし

 

それはゲームの世界でも何ら変わらないということなのだろう。

 

 

 

それに反して 彼ら『小規模 制作会社』ではなく

 

 

↑ 資金力のある 名の知れた”メーカー”は

『ジャレコ』を除き 全て現在も活動している。

 

 

 

↑ このオッチャンも当時業界でMVPを獲った実力者だけあって 現在はゲーム以外の分野でも幅広く活躍している。

 

 

 

これらを見て私は愕然とした。

 

 

 

 

ひたすら自分たちの思いを ストレートに形にするために

拘束と制限の多いメーカーを離れて モノづくりに没頭したというのに

 

彼らのほとんどは業界から退場せざるを得なくなり 資本力のあるメーカーが なんだかんだで存続しているという 非情で無味乾燥な事実。

 

 

 

 

 

それでも、自分たちの作ったゲームが 誰かにとっての『思い出の作品』として記憶を刻んだということは 

 

限りない安定と引き換えに 最大手でバグ修正に明け暮れる一社員では逆立ちしても得られない誇りと思う。

 

 

 

 

私が髪を切ったお客さんは 確かにその髪型で社会に出て行くけど 決してその範囲は広くない。

 

 

自分の作ったゲームがタイトルを冠して 日本のどこかで自分の知らない人たちが 作品を噂したり評価してくれる。

 

 

 

 

今の時代は難しいのかもしれないけど 30年前の環境に戻って出来るのであれば 自分も好きなゲーム作りに賭けてみたいと思う。