そういえば去年の夏に恒例の家族旅行に出掛けたときのこと
数年前にできた県下最大級のイオンモールがあるからと 子供が一度行ってみたいということで
帰りはその最寄りの高速道路を降りて 下道で帰ってきた。
どうせイオンなどどこへ行っても大差はなく 大きくても小さくてもフードコートもパン屋も食品コーナーも行かず
カルディを覗いて酒屋で決まった銘柄のドイツビールを買うくらいなのだ。
初めて降りるインターだったけど イオンに通じる道は一本しかないだろうから 一番太い道を下っていくと なんとなく見覚えのある通りが出てきた。
ここは一度通った気がする、、、。
私は一度でも通ったら道は絶対に覚えているのだけど この坂の斜面に並ぶ住宅地とその時代性は ひと昔前にできた新興住宅地で
記憶が正しければ この通り沿いに、、、 あった。
なんという偶然か。
この通りは私が美容学校生だった23年前に 美容学校からの就職の斡旋で 一度面接に来た美容室があり
サッと通り過ぎてしまったけど 車線の左側には確かに『Atrie~』という店名の美容室が今もそのままの姿で残っていた。
何とも感慨深い気分になってしまった。
私は結局、この美容室の面接にすべり 次の店でも落とされ 3軒目にして、独立するまで12年間勤務した職場に就職することができたわけである。
その一軒目の店は女性オーナーさんやそのフタッフとお話しした感じですこぶる気に入り 採用を希望していたのだけど
実家から遠く一人暮らしをする必要があり 今まで雇用した一人暮らしのスタッフは続かないことがほとんどだったことから あえなく見送られたということだったらしい。
就職した店は実家を挟んだ完全に真逆に方角で 今回の用事がなければこのエリアには20年間ただの一度も来ていない。
そういう事情を子供に話し 『もしここに就職が決まってたら お前は生まれてなかったことになるな~』と笑いながら話したのだけど
よくよく考えたら この就職という分岐点は 自分の人生の中で最も影響が大きいにもかかわらず
選択の基準が曖昧で 偶然の産物みたいなところがある。
自分の人生の半分以上を占めてきた基盤が あの時に決まったのかと思うと 急に怖くなった。
そしてふと 就職してからのいろんな場面が意識しなくてもフラッシュバックしてきた。
あの時から撮った写真だけで 何千枚あっただろうか?
(子供のは1万枚以上に及ぶ)
知り合ったスタッフやお客さん ヘアーショーや社員旅行などのイベント そして何より今の暮らしと家族、、、。
けどそれ以上に気になって仕方がないのは もしあのまま1軒目で就職していたら 自分はこの歳でどんな状態で どんな暮らしをしていたのか?
当時を振り返ると 自分という性格の基礎はあったのかもしれないけど 少なくとも今の自分とは”性質”は全くの別物といっていいほど変化してしまったと思う。
その変化は、”美容師の仕事”に従事していれば必ず起こりうるものなのか?
それとも就職した職場の環境や人との出会いよって大きく変わるものなのか? 全く確かめようがない。
↑この時書いたように 強烈な個性とエネルギーを持ったオーナーの影響はかなり私に大きな影響を与えたと思うけど
それがなければ自分はもっと別なものになっていたのか?
それとも他に違った大きな影響を与える人に出会っていたのか?
就職先の方面に独立開業したことで知り合った”師匠”の影響が もっとも自我に変化をもたらしたと自覚しているけど
別な土地で20年住んでいたとして こういう出会いは他にあるのだろうか?
あれこれ考えを巡らしていると 一つだけ確かなものがあると思った。
それは、どんな職場であっても仕事には必ずのめり込み 若い頃の全てだった音楽はいずれ辞めていただろうということだけだった。
ただ、それは自分だけの問題なのであって 人との出会いがもたらすものは一歩も先が読めない。
あのまま就職していたら 今と似たような家庭を持っていたのか? それとも独身のままだったか?
独立開業していたら今のように一人でやっているか? それともスタッフを雇っていたか? その違いは限りなく大きい。
今現在、43歳の自分が極めたと思っている技術は 20歳の自分という基礎があれば どこの土地へ行ってもいずれその水準まで辿り着くものなのか?
それとも全く違った技術や考え方、スタンスを持ち 今の自分が見たら目を疑うような仕事をすることもあるのだろうか?
未来に興味はないが こういう”別の今”は気になって仕方がない。
その中でも どうしても知りたいことがある。
この3年間の”コロナ騒動”において
『ワクチンを打たない』という選択に必要な要素は
あの大きな”分岐点以後”得られることが出来たのだろうか?
15年ほど昔は私も職場の負担があるからと 恥ずかしながら”インフルエンザワクチン”を打ちに行っていた。
が、今の住まいの片隅に偶然発見した 新谷弘実氏著『病気にならない生き方』を手に取ったことで
病気にかかるかどうかは誰もが等しいものではなく 自分の行い次第で決まるものということを知り
その後、船瀬俊介氏 その他著名人の書籍から ”免疫”の存在を知り ワクチンは不要であることを知った。
私はコロナ騒動が始まって以来 人に警告することはあっても 人から『ワクチンは打ってはいけない』と警告を受けることは一度もなかった。
あの時の就活という偶然がなければ この家に引っ越していなければ ”健康本”などの出会いがなければ
何も知らないまま あの殺人ワクチンを打っていたのだろうか?
それともどこかのタイミングで 自分の好奇心や違和感が 新しい何かを手繰り寄せたり 疑問を晴らすような行動に出ることになるのだろうか?
何処の地で、どんな分岐点でどんな選択をしても いずれ必ずコロナ騒動とワクチン事業は始まり 周囲の人間関係と共に自分も巻き込まれることになっていた。
その時に、知ってか知らずか別の選択をしたことで 少しずつ雪だるま式に変化して行くであろう自分は どこまでこの社会の嘘を感じれるようになるのだろうか?
皆さんはどうでしょうか。 過去の選択が作った今の自分じゃない自分が 極限の社会でどんな選択をしたのか。