いよいよ今年も最後の日。 

 

 

どうお過ごしでしょうか??

 

 

 

 

年末年始といっても 繰り返す日々の連続に過ぎない、と 何の意識もしない人は多いかと思います。

 

 

 

 

それでも自分にとって 年越しの瞬間は本当に神聖な時間で

そこで毎年どう過ごして どう味わおうか 前々から作るメニューを考えて 食材や酒の準備をしてます。

 

 

 

 

年末の多忙な時期は『大晦日から正月は 朝から酒を飲みまくって好きなものを食べまくってやろう』と意気込んでいても いざその時が来ると 全くそんな気にならない。

 

というか ストッパーがかかってしまう

 

 

 

恒常性とは恐ろしい、、、。

 

 

 

 

まあ、そういった短く貴重な 節目の時間にもかかわらず こちらを訪れていただいた方々 どうもありがとうございます。

 

なのに今日は、ものすごく個人的なことをダラダラと書いてしまいました。

 

 

 

 

自分にとって年越しの節目が”貴重で神聖”というのに大した理由はなく 勝手に思い込んでは気分を楽しんでいるだけです。

 

 

 

 

でないと、この歳になると喜ぶべき大きな変化もなく 子供のように”保育園 幼稚園 小中高校”と 放っておいても節目やイベントが行われることもないので

 

 

いつどんな出来事が起こったかなんて 意識しない限り記憶から消滅してしまうだけ それが自分にはなんとなく怖く感じられます。

 

 

 

 

去年は、一昨年は何をして どこに旅行に行ったかなと思い出したりすると 自分は未練がましい奴だなと感じることがありますが

 

たとえば、極論 記憶を失ったとしたら 健康で生きていても一回死んだのと同じじゃないかなと思います。

 

 

 

 

人によっては気持ち悪いと思うかもしれないけど 子供が生まれてからの爪と歯 初めて切った髪が保管してあって

 

 

見たところで将来は変わらないし 何をしてくれる訳でもないけど なんか捨てられずにとってある。

 

(ロン毛からバッサリ切った時のも)

 

 

 

 

爪が少しずつ大きくなっていくのは面白い。

 

 

 

”断捨離”という言葉が日常的に使われている中で 捨てるべきものもあれば こういうのは本当に捨てられない。

 

 

 

”廃墟”とかも好きなんですが なんで自分は未来よりも過去に執着があるのか 未だによくわからない。

 

 

 

 

今の自分はどえらいお金がある訳ではないけど 食うに困らない収入を短時間の労働だけで終えることができるので

現在の状況は恵まれているなと感じるけど

 

 

同時に、独立してから死ぬほど働いて 限界を試した頃や

勤めていて後輩らと忙しくごった返す店でワイワイ仕事をして 忘年会の余興をしたり 社員旅行に行ったり

 

 

それに比べるとコンパクトでスマートになった反面 人の関わりが減り お客さんの数も大幅に減らしたので 1人の時間が長くやけにこじんまりしたなとも感じる。

 

 

 

 

 

子供と高度な会話ができるようになると同時に 重くて肩車ができなくなって 膝の上に乗せる間柄でなくなったり

 

 

子供の頃に塗装した作品としてのプラモ  天才的な落書きで埋め尽くされた教科書とか なんで残しておかなかったのか、、、といつも嘆いてしまうけど 

 

 

あの時は後にこんな気持ちになるなんて思いもせず 『子供の自分は終わった』と 勝手に大人ぶって容赦なく捨ててしまったことはハッキリと覚えている。 

 

 

 

 

手放したものがあるおかげで得たものがあるのに 思い出しては言いようのない気持ちになるのは 

物質とは違うものだけど 自分は恐ろしく欲深いのではないかと思った。  

 

 

 

 

それでも長く保存しておいたもの 昔の写真とかを タイムカプセルのように後になってどう感じるのだろうか? と

ある程度時間が経ったくらいに見てみても

 

 

決まって拍子抜けするくらい そこには何もなく 『ああ、こんな頃もあったな~』と思う以上のものは全く生まれない。

 

 

 

せいぜい、家族の写真を見ながら『初心忘るべからず』 と戒めることくらいだろう。

 

 

 

 

自分が一度目にして それを元に進化して そして過去に置いてきたものなのだから 

 

出枯らしの茶葉のように それ自体にはもう利用価値も自分に与える影響はない。

 

 

 

 

新しく出向く場所  触れて読む本  出会う人 その他諸々

新しいものの方が刺激があってイイに決まってるし 過去に囚われてる訳でもないのに蒐集しているのは

 

 

消えてなくなるのが怖いのか寂しいのか はたまた勿体ないからか

 

”証し”として持っておきたいだけなのかもしれない。

 

 

 

 

 

もう一つ 過去の社会への執着というのか、、、

 

明らかに自分を囲む社会が劣化していってるのが目に見えて分かる。

 

 

 

今回は詳しく書かないけど 自分が馬鹿だったから気付かなかった、という問題ではなくなってきた。

 

 

 

 

昔は全て良かったのか? といえばそんなに単純ではなくて

90年代の熱いバブルは誰もがずっと続くと信じていたけど 

 

崩壊後の冷めた空気もやはり永遠に続くように感じられたと思う。

 

 

 

戦後、復興の時代の写真に写る人達の表情はエネルギーが溢れて 物がなくてもこの時代に暮らしていいと思えるけど

 

その前の戦争中は おそらく誰も復興後の世界なんて微塵もイメージできなかったはず。

 

 

 

 

この腐り切った社会は いつか来るマシな姿への過渡期になるのか?

 

 

 

私は戦争もバブル崩壊も経験していないし 彼らの味わった苦痛な日々はもっと長かったのだろうけど リアルタイムで味わうには この3年間はあまりにも長すぎる。

 

 

 

 

 

社会が狂う直前の正月に 岐阜の高山に旅行に行った。

 

 

 

 

嘘の緊急事態宣言が出されて 表に人っ子一人いない頃に この写真を見ながら 『ちょっと前はこんな風やったのにな~』と思いながら3年が経った。

 

 

 

 

1,2年前はクリスマスや大晦日にサイレンの音が鳴ると

『こんな日にお気の毒な人もいるもんやな~』としみじみ思ったけど

 

今や、気にも留めなくなったし 今年は花火大会に行く途中に救急車の停まった 近所の家の横を通り過ぎた。

 

 

 

 

今年は、自分と半径数十人くらいまでは 暮らしぶりに大きなマイナスはなく(電気代とか物価が上がったなムキーッ)

 

去年の今頃感じていた 社会の混乱はまだ起こっていない。

 

 

 

 

アメブロの発信者の方々からいただいた知恵で 社会が崩壊しても生き延びる自信はある。

 

 

 

その時は どこかで顔を合わせれたらいいなと思ってます。

 

 

 

 

それではよいお年を~ウシシ