相変わらず北海道は涼しいです。今日(7月31日)の最高気温は24.9℃ (12:27)、最低気温は20.3℃ (05:34)、最大風速 4.2m/s (14:00)、天候は曇りのち晴れ。気温は夜に向かって低くなり、19℃台になるという予報。
これが真夏の気候だとは北海道人の私でもちょっとおかしいと感じます。涼し過ぎますので。明後日は30℃を超える予報ですので、冷害の心配はないのかな。あまりに涼しすぎるので、関心が冷害の方に向いてしまいます。
各地の天気予報を見ると、仙台・金沢くらいまでは普通に人の住める範囲に気温が収まっていますが、東京、名古屋、大阪やそれ以西は灼熱地獄ですね。何とかならないのでしょうか。なにもお天道さまに文句をいっているのではなく、この気温の異常な高さというのは人為的なものが影響していると思うからです。
つまり、都市化しすぎたせいです。アスファルト舗装の道路、巨大ビル群、冷房装置、森林の減少、太陽光発電装置などは、都市熱を生み出すはずです。小池都知事などは、愚にも付かない悪事ばかりを働こうとしないで、少しは東京都の温暖化防止に取り組んではどうなのでしょうか。二酸化炭素削減(温室効果ガス削減)というのは考え方として間違っていますから、そうではない対策が必要ですね。
とりあえず私程度が思いつくことは、アスファルトの地面を減らす、代りに土や芝生の地面を増やす、都内では太陽光発電をやめる(パネルが熱を持つ)、空き地があれば木を植える、そんなところでしょうか。将来的には、冷房時に発する熱を湯として回収し、発電に使うなんてこともあって良さそうな気がします。
いずれにしても、はるか南にある東南アジアよりも日本の方が気温が高いって、おかしいでしょ? 何なら、仙台か函館あたりに遷都してもいいと思うのですが。
話変わって、今日午前中は家庭菜園に行ってきました。雨のせいで、5日ぶりになります。下の写真が今日の収穫です。
5日も行かないとキュウリは巨大化します。次はいつ行けるか分からないので、小さめのも採っています。キュウリの右横に小さなゴーヤがあります。今年のお初です。その下が小さいナス。気温が上がらないせいなのか、大きくなりません。でも、前回採った小さいナスをぬか漬けにしたらとてもおいしかったので採ってきました。小さい分味が濃い気がします。
ゴーヤの上にあるのがエンドウ。たくさん採れました。エンドウは低い気温を好むそうで、最近の気温が合うのかもしれません。エンドウの左横はササギ(平鞘インゲンあるいはモロッコインゲンともいう)です。これも今年のお初で、煮付けが楽しみです。インゲンの左が長ねぎ。たくさん植えましたのですきながら食べていきます。長ねぎの下は、何だろうこれは。大葉かな。その下に春菊です。
野菜は基本あまり好きではないのですが、この年齢になってくると、いかにも体にいいという感じがして気持ちが休まりますね。畑にいるときにパセリを一枝折ってそのまま食べてみましたが、「う〜ん、デトックス」なんて気になりました。苦くておいしくはありませんが。あ、そういえばピーマンがなっていたのを採り忘れました。嫌いではないのですが、あまり好きでもないせいかな。
畑作業は、今のところ週2回で、ほんの1時間半くらいしかしませんが、それでも結構疲れます。私の場合、疲れると頭が働かなくなります。世の中には文武両道というか、高校生時野球部のピッチャーをしていて、東大に合格なんていううらやましい人がいますが、私くらいの凡人になると、体を使うと頭が働かなくなります。
体を使うのも、頭を使うのも、どちらも嫌いではないのですが、一番好きなのはどちらも使わずに怠けていることです。でも、ずっと怠けていると、怠けていることに飽きがきてしまいますので、怠けるのを楽しむためには体も頭も使った方がいいですね。怠けることを楽しむために仕事をするという考え方、私なんかは好きです。
ここ小樽に移住してきて6年余が過ぎました。大分慣れてきました。慣れるとはどういうことかと考えてみたら、多分、「ルーチンワーク」が増えるということではないかと思います。ルーチンワークとは、日常業務、定型業務などの意味で、簡単で決まり切った仕事と思っていいようです。「朝起きて顔を洗う」などというのは典型的なルーチンワークですね。
ルーチンワークはあまり労力を必要としません。ほとんど無意識で行うことができます。しかし、ルーチンワークをルーチンワーク化するためには、何回も繰り返し行うことが必要になります。一旦ルーチンワークになってしまえば簡単なことでも、そうなるまでにはなかなか大変です。子どもが生まれて、1人で顔を洗えるようになるまでどのくらいの年月が必要かを考えても分かります。
ちょっと話がまどろっこしいですね。言いたいことは、小樽に引っ越してきて6年以上が経過し、それによってルーチンワーク化したことが増えて、私としてはずいぶん慣れてきたと感じているということになります。
そこで面白いと思うのは、慣れるまでは思わぬミスをしてしまうことです。いろいろなことが初めてですから、神経を張り巡らしているのですが、それがゆえに疲れてしまって逆に注意が行き届かなくなることが現われるように思います。
私の場合は忘れ物ですね。財布やケータイの入ったバッグを2回くらい置き忘れてあわてふためいたことがあります。一番びっくりしたのは、車を置き忘れたことです。いつもは歩いて行くスーパーで、その時はたまたまどこかの帰りに車で寄りました。そして、車を置いたまま歩いて帰ってきてしまいました。
しかも、5日間もそのことに気が付かず、買い物に出かけようとして自宅の駐車場に行ったところ車がない・・・。スーパーに置き忘れたこと思い出すまでしばらくかかり、キツネにつままれたような気分でした。
6年経って、最近はびっくりするような忘れ物はしなくなってきました。でも、慣れない環境や出来事にぶつかったときには要注意ですね。つまり、ルーチンワークから外れるようなことは、自分が素人に戻ったと考えることが必要になると思います。しかしまあ、それにボケが加わってしまうとエライことになるんでしょうねえ、バイデンみたいに。想像したくないことになります。
老人と呼ばれる年齢になって今までの人生を振り返ると、私の場合はつまらなかったなあ、しょぼかったなあ、なんて感じがします。芥川龍之介の「侏儒の言葉」には、「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。」と書いてありますが、そんなところでしょうか。
具体的にいろいろなことを思い出してみると、その時々で結構一所懸命なのですけどね。それ以上の何ができたかと考えると、それなりに精一杯で無理だったような気もします。でも、トータルとして考えるとしょぼかったなあと。まあ、芥川龍之介が重大に扱うのはばかばかしいと思うくらいですから、凡人の私がもっとばかばかしい人生を送るのは当然といえば当然かもしれません。
しかし、芥川龍之介は今読んでみてもやっぱりいいですね。とっても引かれるものがあります。偉大なる皮肉屋というところでしょうか。「わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。」「天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていない筈である。」「阿呆はいつも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。」「我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。」などなど。
私はこういう皮肉というか、冷めているというか、そんな文章を読むと心が洗われるような気がします。自分よりも苦労している人だと思えるせいでしょうか。
そういう意味で、世の中でこれほど苦労していない人間も珍しいと思うのが、岸田総理になります。よくまああそこまで薄っぺらい人間になれたものだと感心してしまいます。侏儒の言葉を借りると、「或仕合せ者 彼は誰よりも単純だった。」「彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云う退屈さ加減!」といったところでしょうか。そう、日本一退屈な男かもしれませんね。
最後はつまらない話になりましたが、まあこんなところで。