「お代官様、山吹色のお菓子でございます。どうかこれでよしなに・・・」
「越後屋、お主も悪よのう。」
「いえいえ、お代官様ほどでは。」
「なにい? ふっふっふ。」
「はっはっはっはっは。」

 私が好んで何度も書き込んでいる小話だけれども、今夜も日本の政財界人はこのような話をしながら、上等な酒と肴を楽しんでいることだろう。とはいえ、毎回同じ話では飽きが来る上に、芸がなさすぎると思うので、今回は「杜子春」を話題にしてみようと思う。

 「杜子春」は芥川龍之介の短編小説であり、1920年に発表された。芥川龍之介28歳時の作品になる。唐時代の古典短編小説に発想を得て書かれたもので、芥川龍之介はしばしば古典を自分流にアレンジした短編小説を書いている。私がその巧妙な筋立てに思わずうなってしまう「薮の中」も平安時代の説話集「今昔物語」の説話を題材にしている。

 ウィキペディアには「童話化したもの」と記載されており、文章は大変に平易で読みやすい。ネット上の青空文庫ですぐに読むことができる

 一応あらすじを簡単に紹介してみる。


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 唐の都、洛陽での話になる。杜子春という若者がおり、元は金持ちの息子だったが、財産を食いつぶしてその日の暮しにも困るようになっていた。困り果てて西の門の下でたたずんでいると老人がやってきて、「今、夕日でできている自分の影の頭の部分を夜中に掘ると黄金が埋まっている。」と言って去った。物は試しと夜中に掘ってみると、黄金が一山出てきた。

 杜子春は洛陽一の大金持ちとなり、これ以上ないくらい贅沢な暮しを始めた。すると、人々が大勢訪ねてくるようになり、杜子春はその者たちと一緒に豪華な酒宴を毎日繰り広げた。しかし、そんな調子で浪費したものだから、3年目にもなると杜子春はまた一文無しになってしまい、途方に暮れて西の門の下でたたずむことになった。

 するとまた老人がやってきて、夜中に影の胸の部分を掘れというので掘ってみると、やはり黄金が出てきた。そして贅沢三昧の生活が繰り返されたが、やはり3年もすると一文無しになってしまった。

 今度もまた老人がやってきたが、杜子春は「人間には愛想がつきました。金持ちの間はチヤホヤしてきますが、金がなくなると優しい顔さえ見せません。こんなことを繰り返していても何にもなりません。」と言い、そして、「あなたは仙人だろうから弟子にしてほしい。」と頼み込んだ。

 老人は自分が仙人であることを明かし、杜子春の願いを聞き入れて、青竹にまたがり一っ飛びすると峨眉山の高い岩の上に舞い下りた。そして「自分は出かけてくる。いろんな魔物が現われてたぶらかそうとするだろうが、どんなことがあっても決して声を出してはいけない。」と言っていなくなった。

 間もなく、虎、白蛇、暴風雨、稲妻などに襲われ、地獄に落とされて責め苦を受けもするが、杜子春は決して声を出さなかった。怒った閻魔大王は、畜生道に落ちて馬のなりをしている杜子春の父母を連れてこさせ、その馬に責め苦を与え始めた。

 それでも杜子春が口をつぐんでいると、「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ幸せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙っておいで」との優しい母の声が聞こえてきた。思わず杜子春は、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん」と叫んだ。

 ふと気が付くと、杜子春は元の落陽の西の門の下にたたずんでおり、何も起きていないかのようだった。すると仙人が表れて「どうだ、とても仙人にはなれまい」と言った。杜子春は「いくら仙人になれるとしても、地獄で鞭を受けている父母を見て黙っているわけにはいきません。」と答えた。

 仙人は「もしお前が黙っていたら、俺は即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていた。お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。どうする。」と言い、それを聞いた杜子春も「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」と迷いなく答えた。

 仙人は「俺は泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と言いながら去っていった。


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 以上である。私は若い頃に杜子春を読んでも余り感動しなかった。ストーリーが単純で深みがなく、両親への愛情が何よりも優るなどと書かれたところで、儒教的・封建的なものを感じて反発を覚えるくらいだった。仙人も言っていることが矛盾しているしね。

 しかし、新型コロナ騒動以降、部分的にアメリカの暗部を覗くことができるようになってみると、「杜子春」はとっても東洋的な物語として、存在価値が十分あるように感じる。

 杜子春は金持ちのボンボンであるようで、世間知らずで考えが甘いが、これは日本でもアメリカでもよくある話だろう。すぐ思いつくのは日本の2世議員3世議員だ。アメリカだとバイデンの息子かな。

 ただし、物語の展開は東洋らしいものになっている。まず、財宝を手に入れて豪華三昧な生活をした杜子春は、2回繰り返した後にその無意味さに気がつく。ここが素晴らしい。とっても東洋的であると感じる。

 なぜなら、アメリカ人は3回でも10回でも100回でも気が付かないからだ。飽くことなく欲望を追い求めようとする。仮に杜子春がアメリカ人だとしたら、金塊を得るために何回でも、そこら中が穴だらけになっても土を掘り返すだろう。もっとたくさんの黄金を手に入れようとして、仙人をだましたり、脅したり、拷問したりもするだろう。

 西洋文明はどこまでも積極的であり、あきらめることを知らない。悟りを開こうなどということは頭にない。一見すると、素晴らしく前向きな姿勢であるかのように思えるけれども、これは、方向性が正しい場合にのみ評価できることであって、特にアメリカの場合は、間違った方向へ足を踏み出した場合にも修正できない。

 これが実に始末に悪い。アメリカは建国後248年のうち、戦争をしていないのは17年間しかない。しかもすべての戦争が侵略戦争だったという。人類を、世界を、不幸に巻き込んでいる。しかし、アメリカ人はへこたれない。自分たちの欲望を戦争をすることによって満たそうとする構えを現在も維持している。

 嘘と暴力がアメリカの常套手段であり、いつも嘘と暴力を用いて相手から財産を略奪することを目的としている。また、それを繰り返しながら、一層強力な軍事力を整備し、一層相手の富を略奪しようとする。そうやって世界を支配しようとしてきた。

 杜子春は2回やって気が付いたが、アメリカ人は知能が低いのだろう。何回、何十回繰り返しても気が付く気配がない。このようなアメリカ人の姿勢は、明治の頃の日本人は既に分かっていた。

 私は芥川龍之介が好きだが、それ以上に夏目漱石を好んでいる。特に「吾輩は猫である」は若い頃の私にとってバイブルのようなものだったけれど、その中で八木独仙という登場人物に以下のように語らせている。

 「向こうに檜があるだろう。あれが目障りになるから取り払う。とその向こうの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪に触る。どこまで行っても際限のない話さ。西洋人の遣り口はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。・・・西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。」

 「日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大いに違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものという一大仮定の下に発達しているのだ。」

 「山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すという考えを起こす代わりに隣国へ行かんでも困らないという工夫をする。山を越さなくとも満足だという心持ちを養成するのだ。それだから君見たまえ。禅家でも儒家でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。」

 夏目漱石がなぜ西洋と東洋の文明の違いに関心を持っていたかといえば、それは幕末以降の日本が欧米に脅かされ、常に旗色が悪かったからだ。それは150年前も現在も全く変わりがない。日本はいつも劣位に置かれ、属国扱いをされてきた。

 しかし、ついに現在、アメリカが不利な立場に置かれるようになってきた。BRICS等の台頭、特に中国とロシアの台頭がアメリカの世界覇権を脅かすようになった。アメリカは軍事力にしろ、経済力にしろ、これ以上の伸び代がない。BRICS等に肩を並べられ、今後優位に立てないどころか、将来的にはBRICS等の軍門に降る可能性すらある。

 そうなってしまうと、西洋文明、欧米文明というものはもろいかもしれない。何十回も地面を掘り起こす無能な杜子春にしかなれそうもない。つまり、前向きで積極的ではあるけれども、一歩引いて別の方法を考えようとする柔軟性がなく、いつも一本槍だ。その一本槍が通じなくなってしまったときに他の槍を持っていない。

 まあ、自業自得だから、落ちぶれて大いに苦しむがいいのだけれど、問題は日本だ。右翼は日本が長い歴史を持った素晴らしい国であると自画自賛したがる。しかしその素晴らしい国が現在やっていることはといえば、落ちぶれゆくアメリカの腰巾着か提灯持ち程度のものでしかない。

 アメリカが衰退していく過程でいずれその支配力が弱まり、束の間の自由が日本に訪れるかもしれないけれど、そのようなときに日本は自国を明るく住みやすい国にできるだろうか。現在の日本を見ている限り、その可能性は低いように感じる。政治家や役人は平気で嘘を言い、賄賂が横行して利権が幅を利かせている。権力者や権力者と癒着した者が融通を効かせ合い、違法行為に及んでもツラッとしている。

 道徳的なことを問題にしているのではない。道徳が廃れてしまうと、国が発展するのは難しくなるものだ。アメリカを見ればよく分かる。