表題は「犬は人に付き、猫は家に付く」という、ことわざというのか、慣用句のもじりになる。

 私自身は犬や猫と一緒に暮らした経験がないので、犬や猫の詳しいことは知らない。そのため、本記事で犬猫のことをああだこうだ書いたところで、それは、犬猫を余り知らない私の中のイメージにすぎないことをお断りしておく。犬や猫にも個性があるのだろうし、飼い方も昔とは全然違っているので、以前の常識が通用しないことも起きているに違いない。

 それはそれとして、面白いと思ったのが「犬と猫で差がはっきり!『犬は人に付き、猫は家に付く』とはこのことか…『犬と猫どっちも飼ってると』」という漫画のページ。よく特徴をつかんでいるように感じる。確かに犬は陽気で人懐こく、猫は陰気で何を考えているのかよく分からない感じがする。

 元々のことを考えると、犬は人間の家畜というか、奴隷として飼われるようになったはずだ。人間のために手伝いをする、あるいは芸をするのが犬の使命であり、そのような品種改良が行われてきた。現在でも、牧羊犬、盲導犬、狩猟犬、番犬、救助犬、警察犬など、必要とされる仕事をこなしている犬は各種存在する。

 犬は人間に忠実であり、言いつけをよく守り、人のために役に立つことを犬自身も喜んでいるように見える。というか、人間がそのように改良してきて現在の犬があるのだろう。あまりにも扱いやすい動物であるために、「犬」という言葉には侮蔑の意味が含まれる場合さえある。「岸田総理はアメリカの犬だ」といったように。

 一方の猫は、あまり家畜化されていない。というのも、猫が人間に飼われるようになった理由が、鼠(ネズミ)を捕る、あるいは追い払うことにあったからだ。ネズミはせっかく人間が収穫した穀物を食い荒らすために駆除が必要であり、そのために猫を飼うことは効率的なことだった。

 ただし、ネズミを捕るためにはある程度猫の自主性に任せる必要があった。昼夜関係なく、倉庫の中であろうが台所であろうが、ネズミの出没するところに出かけていって捕まえなければならない。ネズミは小さくすばしっこくて、神出鬼没だから人間が一々指示を出すことができない。

 そのため、猫は犬に比べるとはるかに野性が残ることになった。また、ネズミを捕るのは単独でできることで、協力しあう必要がないため、猫には社会性というか集団で統率された行動をとる習性は発達しなかった。

 猫が家に付くということは、猫がテリトリーを重視するということのようで、そのことも野性味が残っていることの証拠のようなものだろう。特に他の動物を捕食することで生きている動物にとって、テリトリーは命に代えても守るべきくらいに大切なものであり、野性がある程度残されている猫にテリトリー感覚が残っていることは不思議ではない。

 そんな犬と猫は、今の日本ではほぼ100%がペットとしての犬猫になりはしたけれども、犬が人間のために仕事をする動物であること、猫がネズミを捕るための動物であることは、ペット化してもその性格として残されている。猫に芸を覚えさせることは難しいし、犬にこたつで丸くなってじっとしているようにさせることも難しい。

 そんなことを書いている私はといえば猫的な性格をしていて、人に付こうとは思わないタイプだ。また、旅行嫌いで、自分のテリトリーである家の中でじっとしていることを好む。仮に「1週間家の外に一歩も出ないで生活しなさい」といわれたら、「そりゃ楽でいい」と喜んでしまうくらいだ。ただ、家の外に出るのが嫌でたまらないということではないものだから、大きくバランスを崩すことはないけれど。

 以上が前置きであり、この後は、「日本人は犬のように人に付く」ということを書いてみたいと思う。度々いわれるように、日本人はとにかく自分が他人と一緒であることを好む。異常なくらいみんな一緒でないと気が済まない。

 例えば、100人の人がいたら、全員が一致するなどということはあり得ない。人それぞれであり、意見が三つ四つに割れることが自然なのであって、仮に全会一致などということがあったとすればそれは明らかに異常な集団になる。ところが日本人は全会一致を好む。異論を認めたがらない。

 しかも、その全会一致にまとまる意見はどこから生じたものかといえば、大抵はその集団の中で一番偉い人が言い出した、ないしは推奨する意見になる。ほとんどの日本人は私とは違って、そんな全体主義が大好きということになる。理解できんなあ。

 全体主義とは、「個人の権利や利益、社会集団の自律性や自由な活動を認めず、すべてのものを国家の統制下に置こうとする主義。」(デジタル大辞泉)であり、最近何かと話題になる憲法改正も、現在の憲法を少しでも全体主義の憲法に変えようとすることに重点が置かれている。

 全体主義で思い出した。今年3月13日の都議会で、立憲民主党の関口健太郎議員が「知事に対して厳しい質問をしたり、耳障りの悪いことを言う議員には76%の確率で答弁拒否をしている。」「知事の耳障りの悪いことをいう議員の質問は排除するのか? 伺いたいと思います。」などという質問を行った。しかし、それが不穏当であるとして、3月26日の都議会で関口議員の除斥が決定され、退席を命じられたという動画がアップされている。より詳しい動画「都議会・予特委が大荒れ「知事厳しい質問に応じず」発言取り消しへ」もある。

 いやいや、驚くねえ。私でも驚く。これはまあ、日本人の民度の低さだろうね。特に、東京者は田舎者の寄せ集めだから、通常の田舎者よりもっと田舎者ということだろうな。民主主義の根幹となるルールも心得ていない。嫌だね全体主義は。こうやって異分子を強制的に排除し、自分たちの思いどおりにしようとする。話し合いすら拒否する。東京は今や村八分の世界。

 しかし、それでもやっぱり小池都知事の再選なのだろうね。以前書いたように、新型コロナ騒動を煽った功績が小池都知事にはある。アメリカがバックに付いている。例え不正選挙を行ってでも当選させるはずというのが私の読みになる。マジで不正選挙があるかもしれないな。

 話がそれた。日本人は犬のようだという話だった。都議会に限らず、ご主人様の言いつけを守ることが最優先にされる民族が日本人といえる。今回の新型コロナ騒動でもこれ以上ないくらい明らかになったけれども、ご主人様が指示・命令を発するや、我先にと競い合ってそれに従い、良い子になろうとする。右を見て、左を見て、自分だけが遅れることのないように気をつける。その内容が仮に「崖から飛び降りろ」ということであっても追従しようとする。

 これが犬であれば、ご主人様の言いつけを守るよく訓練されたすばらしい犬になるけれども、問題は犬ではなく人間というところにある。犬には人間の指示が正しいか否かを理解できるだけの知能はないけれども、人間はそこを判断する能力を持っている。にもかかわらず、日本人はあえて自分自身を犬に貶めている。

 いうまでもなく、人間は間違いを犯す。総理大臣であろうが、厚生労働大臣であろうが、財務省であろうが、外務省であろうが、間違いは避けられない。それに対して、政治家や官僚、マスメディアなどがどうするかといえば、最近の日本の場合は間違ったことを隠そうとする。言い逃れようとする。とぼけてなかったことにしようとする。多くの日本人はいつも犬ばかりしているものだからそれを見抜けない。

 全くの空想話になるけれども、おそらく日本人は古来から奴隷扱いされた民族なのだろう。元々奴隷をしていた者たちが逃げ出して日本に渡ってきたのか、それとも、ある時期中国に支配されて奴隷化したのか。そのくらいの歴史がなければ、ここまで完璧に奴隷らしい振る舞いが身に付いているはずがないように思える。

 飛鳥時代や奈良時代の日本は、中国(隋や唐)に支配された国だったのだろう。藤原京、平城京や平安京は隋や唐の支店だったと思えばいい。今でいえば米軍の駐留基地だね。私がそのようなことを考えるのも、明治維新、そして大東亜戦争敗戦後の日本人の変わり身の早さを知ってのことになる。

 マッカーサーは回顧録に、「敗戦後の日本国民ほど徹底的に屈服した国民は、歴史上前例がない」と書いたという。しかし実際のところは古代において、日本は同じような屈服をしたことがあり、それがゆえに敗戦後も素早く屈服することができたと考えるほうが、私には自然に思える。明治維新も同じこと。

 日本人の特技は実は奴隷になること、徹底的に屈服すること、属国になること、植民地になることであり、仮に「明日からはご主人様が中国になる」とお触れが出た場合、次の日にはもう完璧な中国の属国になっているのが日本という国になる。

 私はこんなことを喜んで書いているのではない。「なんだか嫌な国に生まれちまったなあ」と思いながら書いている。特に男にとっては致命傷になる。男というものはプライドがなければ男として成立しないところがある。現在のような日本は、男が男になりにくい国といえる。奴隷では女の子1人口説けやしないからね。

 それにしても、新型コロナ騒動以降なのか、バイデン政権以降なのか分からないけれど、政治家の横暴が目に余る。「ご主人様が誰か思い知らせてやる」という態度を、多くの政治家が国民に対して示すようになってきた。

 もちろんその先頭を切っているのは岸田総理になる。能登地震の対策がその代表例であり、「俺に逆らう奴がどうなるかよく見ておけ」と言わんばかりだった。支持率が回復しないのを見て、国民を甘く見過ぎていたと反省したかもしれないが、反省するといっても岸田政権の考えることは、「これからはバレないようにやる」ということでしかない。

 例えば減税。一時的に減税することで私たちの生活は少しは楽になるのだろうか。今の政府では間違ってもそのようなことはない。減税分以上に国民負担が増えることが確定しているのだから。

 現在の内閣では憲法改正はないという話のようだけれども、そうなると国民の人権は守られるのだろうか。そんな甘いことにはなっていない。いつ憲法を改正しても即応できるように外堀を埋めておくのが、安倍政権以降の自民党政権の基本方針になっている。閣議決定や法律改正でできる範囲のことは現在進行中だ。

 

 実は、このような政府の動きを打ち破ることは、日本国民であればとっても簡単なことだ。現在国会議員をしている者を落選させることが一番の効果的な対策になる。「なるほど国民を無視した政治をしていると、こういう目に遭うのか」と国会議員に思わせることが一番だ。

 しかし、そんな簡単なことが日本人にはできない。なにしろ日本人は忠犬ハチ公だからね。ご主人様の命令には逆らえない。逆らえないどころか、尻尾を振って「ワン、ワン」と二つ返事をすることしか知らない。それだもの次回の選挙でも何も変化がなく、政府・自民党から一層甘く見られるようになりそうだと私は恐れている。仕方がない、奴隷民族というのはそのようなものかもしれないから。