現在日本で一番嫌われているのは誰かといえば、それは間違いなく岸田総理だろう。今回の衆議院補欠選挙の結果がそれをハッキリ示している。ここまでになると、岸田総理は人気のない総理大臣ではなく、ほとんどの日本人から " 嫌われている総理大臣 " になる。そして、自民党が選んだ総理大臣がこの程度でしかないということは、自民党に政権を担当する能力が失われていると考えなければならない。

 さて、表題に使った「放置プレイ」という言葉は、元々は性的な言葉であり、サディストがマゾヒストに対して行うものらしい。私はいわゆるSMに対する興味・関心はないので、放置プレイをしたことはなく、また、辞書に載っているような言葉でもないので詳しいことを知らない。ただ、ウィキペディア(Wikipedia)には項目として取り上げられているのでご参考までにリンクしておく。

 そのウィキペディアによれば、性的な言葉であった「放置プレイ」は、1990年代頃から徐々に一般的な言葉に変化してきており、性的な意味合いを含まずに単に放置する・される状態も「放置プレイ」と呼ばれるようになったらしい。

 私は岸田総理の性的な嗜好について知る由もないので、ここで使っている「放置プレイ」は単に「放置する」の意味であるので、念のためお断りしておく。

 ところで、普通に生活していても、自分が「放置プレイ」の対象になっているのではないかと疑うようなことは、頻繁にではないにしても生じるものであり、誰しもが経験をしている。何かの問い合わせをしたり、クレームを申し出たりした場合に、その後音沙汰がなく放置されることがある。

 それは、特別のことではなく、また、権力のある者や公的機関だけが行うものでもない。私など市役所などの " お役所 " に行くときには、どれだけぞんざいに扱われるのか、待たされるのかとおびえながら行くけれども、今のお役所はいつも親切だ。

 むしろ、民間会社で放置プレイにさらされることの方が多いかもしれない。例えば、飲食店で注文したものが待てど暮せどやって来ないといったような。あるいは、プライベートな対人関係だともっと多いのかもしれない。そうそう、自分の職場で、上司、同僚、部下から放置プレイの対象にされるということなら、残念なことにしばしば経験したような気がする。他にありそうなのは病院かな。私は基本的に病院に行かないので分からないけれども、1時間待ち2時間待ちなどざらにあるような話も聞く。

 そんなのが私のイメージする放置プレイになるけれども、岸田総理の放置プレイで私が真っ先に思いつくのが、2年半ほど前の自民党総裁選で打ち出した「令和版所得倍増」政策になる。あれっきりの梨の礫(なしのつぶて)。まさに放置プレイ。

 所得倍増なんて言われると、そんなのあり得ないと皆さん思いつつも、それでもかなり思い切った政策を打ち出すのではないかと期待するよね。それが何もなし。100の嘘をついたのなら、せめて30か40くらいは実現するのではないかと思わせておいて、実際は0(ゼロ)。

 この点において私が見過ごすわけには行かないと思うのは、岸田総理が確信犯であることだ。能力がなくてできないのではなく、あえてしない。できるのにしない、しようとしない。

 なぜだろう。

 ここで私の思考回路は一挙に飛躍する。岸田総理ができるのにしない理由は、放置プレイを楽しんでいるためではないかと考えてみる。人々に期待させておいて、ド〜ンと落とす。皆さん当てが外れたような、がっかりしたような、期待した分つらいような顔をする。岸田総理はそれが楽しくてしかたがない。快感倍増。

 所得倍増であればまだ被害は軽い。「あんな馬鹿にそんなことできるわけないわな」とみんなが思えるからだ。しかし、能登半島地震の場合は悲惨だった。というか、現在もなお悲惨な状況が続いているらしい。

 能登半島地震の復旧に関しては、どうやら最初から放置プレイで対応すると決めたようだ。なんだかんだと理由をつけては救援の手、支援の手を断った。総理も、総理とグルになっている知事も無関心を決め込み、現地に行こうとしなかった。そして、現在に至るまで復旧工事は遅々として進まない。

 救いの手を待ちわびている人たちに対する放置プレイは罪が重い。SM " ごっこ " とはわけが違う。しかし、放置プレイ愛好者にとっては、遊びから離れて深刻になればなるほど快感が増すに違いない。今頃は、外に遊びに出ているはずだけれども、行った先であまりの喜びに身悶えしているのではないだろうか。

 もちろん総理大臣としては、自分のそんな性癖を国民に知られるわけにはいかない。ゆえに、表面上はいかにも自分は常識人であるかのように装う。常識がないのに常識があるかのように見せかけようとするものだから、岸田総理の国会答弁は聞いていて何の説得力もない。それらしい言葉を発してはいるものの、そこには熱意も、誠意も感じられず、あるのは空虚さのみになる。

 また、実際問題としても国会での答弁が政策に反映されることはなく、国会答弁ですら放置プレイの材料にされて、私たちはお預けを食らわされるのみだ。

 思い起こせば、岸田総理は昨年3月、福島県相馬市で、中学生から「なぜ首相を目指したのか」と問われ、「日本の社会で一番権限の大きい人なので」と返答している。その答えは大変にお粗末なもので、権限を手に入れて何をするのかまで言わなければ答えになっていない。

 あまりに能力が低過ぎてそこまで頭が回らないのかとも思ったが、実は「大きな権限を手に入れて、際限なく放置プレイを楽しみたいので」というのが、言葉にできなかった本音なのだろう。確かに、日本で一番放置プレイを楽しめる商売となれば総理大臣になる。

 「放置プレイ」はそれが性的なことではなくても攻撃的な要素を持つ。ああ見えて、内に秘めた攻撃心というか、加虐心が強いのだろうねえ。国民を苦しめ、悲鳴を上げさせることに無上の喜びを感じてしまうのだろう。岸田総理を見ていて、この人は優しい人だとか、思いやりがあるとか、暖かみを感じるとか、そんなことは全くないものねえ。もっと言えば、人間的な豊かさに欠けている。伝わってくるのは冷たさと人間性の貧困さばかり。

 コロナ用ワクチンでも、能登半島地震でも、経済でも、外交でも、国民を散々苦しめ、不安に陥れ、困らせておきながら、何食わぬ顔をして放置プレイを繰り返し楽しめるというのは、やはり日本で一番権限の大きい総理大臣ならではだろう。

 人は見かけによらぬものとはよくいったもので、一見すると気弱に見え、頭の切れも鈍く、凡庸にしか思われない人間が、実は隠れサディストとでもいえるような性癖の持ち主なのだから、つくづく世の中は油断ならないものだと思う。

 以上、今回は
想像を可能な限り膨らませて書いてみました。想像ですので根拠は薄弱であることを、お断りしておきます。万が一「岸田総理は実はとっても優しくて、慈愛の心に満ちた人だ」などというご意見をお持ちの方がいらっしゃるのでしたら、コメントをお寄せください。