私の記事をリブログしていただいた方がいて、その方のコメント欄に「かなりアメリカ嫌いの人のようですね」と寄せられていた。思わずハッとしてしまった。嬉しいですね、こういうの。生の声というか、一般の人の感覚というかが率直に表現されていて。多分、日本の多数派は「そんなにアメリカを嫌わなくたっていいのでは?」と思っているはず。

 それなのに私はアメリカが大嫌い。聞けば聞くほど、調べれば調べるほど、どんどん嫌いになる。実際にこれ以上ないくらいに悪い国だからね。人間というもの、たとえ悪くなろうとする志というか、目標を持ったところで、なかなかあそこまで悪くなれるものではないと思う。何かの信念でもあるのだろうか。

 私がアメリカを特に悪いと思うのは、人を殺すこと。とにかく、殺して殺して殺しまくる。モーセの十戒において犯罪にまつわることの最初に、「汝殺すなかれ」とあるのは有名だけれども、アメリカは喜び勇んでこの戒律を破ろうとする。

 普通の人間にとって他人を殺すことはあまり気持ちの良いものではない。まずは殺される者が嫌がる。そして、殺される者ばかりではなく、その者と関係のある人たちも嫌がる。多くの人が嫌がるようなことを、平気でできる能力をアメリカ人は身に付けたということになるのだろうか。何とも不思議な能力だ。

 なぜアメリカが、無制限に人を殺したがるかといえば、それは富と権力を得るためになる。簡単にいってしまえば、世界を支配できるような大物の金持ちになりたいということなのだろう。でも、そのために人を殺すことは許されるのだろうか。アメリカ人は許されると思っているようだけれど。

 一番分かりやすい例が、日本への原爆投下。あれは大量虐殺(ジェノサイド)。殺人が許されるどころか、殺人を楽しんでいるのではないかと思えるくらいだ。そうなんだろうなあ、楽しんでいるのだろうなあ。

 ところで、殺人はモーセの十戒で、犯罪行為としては最初に挙げられるほどの禁忌なのだけれども、その理由はなんだろうか。なぜ殺人を行ってはいけないのだろうか。アメリカ人に対してどのように説明すれば理解してもらえるだろうか。

 かわいそうとか、残酷とか、人が嘆き悲しむとか、そんなことでは納得しそうもない。実際に現在、イスラエルがパレスチナ人を大量虐殺するのを、支援ないしは黙認しているのがアメリカなのだから。女子供の如何を問わず、殺される側の感情など気に留める様子など全くない。

 感情的な問題を抜きにした場合、殺人の悪いところはどこになるのだろうか。世界中の人々を皆殺しにして、アメリカ人が困ることは何かあるのだろうか。おそらくないと思っているのだろう。アメリカ人のしたいことは、アメリカ人以外皆殺しということであり、それだもの、イスラエルがどれだけパレスチナ人を殺したところで、支援を続けるわけだ。

 あえて、殺人を否定するような合理的理由を考えるとすれば、それは多様性の確保ということになるのかな。アメリカ人も、日本人も、人類という括りでは同じ種類になる。生物学的にいえば交配可能だ。そして、全ての生物に共通する原則が、同じ種の生物ができるだけたくさん、できるだけ長く生き延びようとする方向性になる。

 仮にアメリカ人がアメリカ人以外を全部殺してしまったら、世界にはアメリカ人しかいなくなってしまうのだけれど、それでは、自然環境が変化したときに対応する力が弱くなる。人類としての適応力が弱くなるといったらいいのかな。それは遺伝子レベルの問題であり、さらには文化的な多様性も影響するかもしれない。

 つまり、この先人類が危機的状況を生き延びなければならないときには、できるだけたくさんの遺伝子や文化の種類を用意しておいた方が有利になる。また、このことは人類に限ったことではなく、例えば氷河期の一番厳しいとき、あるいは巨大隕石が地球に衝突したときに、生物が絶滅することを避けられるか否かという問題とも共通する。

 そのようなことは通常意識されることではない。それでも、この世界がたくさんの人種と文化と国に分かれていることは、さらに多種の生物で満たされていることは、人々が意識せずとも、本能的に遺伝子や文化の多様性を望んでいることの表れかもしれない。まあ、野蛮なアメリカ人がそんなことを理解するとは思えないけれど。

 一方、アメリカ以外の多くの国は、なぜアメリカのように人殺しをたくさんしないのだろうか。直接的にはやはり感情の問題が大きいだろう。人には大切なものがたくさんあるけれども、通常その一番が家族になる。家族が失われると悲しい気持ちになる。それを避けたいと思うのが普通であり、特に親は子供が死なないようにいつも気を配っている。

 その気持ちというか感情は、自分たちばかりではなく、他の家族にも自然と波及する。自分と同じ立場の人間を見ると、人はその気持ちが理解できるよう思え、知らず知らずのうちに同情したり、嬉しくなったり、そればかりではなく、腹を立てたり、憎んだりもする。

 そして人の死は、これ以上ないくらい人間にとって理解しやすいものであり、それに直面した人を見る場合にも、共感しやすくなる。悲しい、寂しい、哀れ、苦しいなどの感情が自然と伝わってくる。当然、そのようなネガティブな感情を引き起こすような事態は避けようとするのが普通であり、多くの人間社会はそれを行動の規範としている。

 しかし驚くべきことに、アメリカ人はものの見事に人間の自然な感情に逆らって人殺しを続け、留まるところを知らない。彼らには人間らしい気持ちや共感性がないのだろうか。ないとしたらなぜないのだろうか。

 感情というものを考えるときに、私は女の人をイメージする。それもそのはずで、男は戦争に行って敵兵を殺すのが仕事になる場合がある。それが男というものであるから、本来的に感情を働かせることが少ない。戦争に行って、敵を殺せば殺すほど偉いなどということは、感情が薄いからこそできることであり、男の感情には、面白い、すごい、気持ちいい程度の単純・粗野なものしかない。

 ところが女の人は、感情に関してはもっと複雑で深い。そのことは、1000年以上も前に書かれた源氏物語や枕草子を見れば分かる。「もののあはれ」と「をかし」の文学などといわれるけれど、男の「面白い、すごい、気持ちいい」といった粗野な感情と比べると、雲泥の差がある高尚さだ。

 どうも日本は1000年以上も前から女性優位の社会であるようで、社会全体が極めて感情優位になっている。それゆえ論理などどこかに吹っ飛んでしまい、新型コロナが流行しそうだからと店頭からトイレットペーパーがなくなるという、どこをどのように考えても理解不能の現象が生じる。感情優位の国のなせる技といえる。

 そういう女性的な感情優位の姿勢を私は大抵馬鹿にしているのだけれども、馬鹿にしながらも一目置いているところがある。それは何かといえば、感情優位の女性は極端に大きな誤りを犯すことが少ないことだ。感情は論理から比べると動物的なものであるけれども、それだけに生物の基本原則から大きく外れることが少ない。

 原爆1発で何十万人も殺すようなことや、新型コロナ用ワクチンで世界で1000万人も殺すようなことは、感情的な行動ではなく、冷徹な計算に基づいてのものになる。感情的な行動はそこまで逸脱することがなく、比較的安全といえる。

 そうやって考えていくと、アメリカという国は女性的な感情の欠如した国であるという仮説が生まれる。私などはつい、アメリカは最大限女性の権利が保障されている国ではないかと思ってしまうが、実際には世界で一番女性差別の激しい国と考えた方がよさそうだ。

 人種差別やLGBTの問題もそうであるけれども、アメリカでは差別があまりにも激しいために大きな問題として取り扱われる。それを日本に持ち込んできても、日本ではピンとくる人が少ない。アメリカのように激しい差別を日本国内では見かけることが少ないからだ。

 アメリカには、ビクトリア・ヌーランドという女性の国務次官がいるけれども(失脚したという噂がある)、顔を見ただけで鬼のようだと感じる。また、実際に行っていることも鬼のようで、2014年のウクライナのクーデターを指揮して、ロシア・ウクライナ紛争を引き起こした。

 アメリカに言わせれば、これは女性の社会参加であり、女性の地位向上であり、女性の活躍であるということになるのだろうが、私は決してそうは思わない。女性に対して、男でも嫌がるような卑劣な戦争の指揮をさせることは、むしろ女性の虐待と考えていいように思う。表面上はきれい事を言いながら、その実質は女性をパシリとして酷使している。その証拠が、あの鬼のような御面相になる。

 アメリカ人女性は、女性本来の特質であるきめ細かく洗練された感情を発揮することが許されず、男並の粗野な感情しか持てないように抑圧されていると考えていいように思う。そして、そんな国には人間らしい価値判断のできる人間が育たない。母親が豊かな情緒に欠けているものだから、育てられる子供にも人間らしい感情が欠けてしまう。

 アメリカ人が人間を、殺して殺して殺しまくっても平気でいられる精神的な不具であるのは、そのように女性を虐げる文化を持っているせいではないだろうか。この世の中で何が一番安らげる光景かといえば、それはスヤスヤと眠る赤ん坊を抱えている女性の姿になる。しかし、アメリカ人はそれを否定する。

 そんなアメリカやアメリカ人に、訳も分からず媚びへつらい、隷属するのが岸田政権になる。日本の富・財産を次から次へとアメリカに渡している。アメリカはザルのようなものであって、いくら金を流し込んでやっても際限がない。そして日本から流れた金を使ってアメリカ人が何をするかといえば、人殺しをする。

 岸田総理自身も、どこか人間としての大切な感情が損なわれている人のように感じられる。人間同士の心のやり取りというものを知らずに育ったのではないだろうか。それゆえ、人を大切にするという気持ちがうかがわれない。「大切にする? 金を渡すということか?」というレベルの人なのかもしれない。