人から見るとどのように感じられるか分からないけれど、私は自分のことを右翼でも左翼でもないと思っている。イデオロギーを持たないせいでそう感じるのかな。「イデオロギーは必要ない」というイデオロギーはあるかもしれないけれど、そんなものをイデオロギーとはいわないだろう。

 「イデオロギーも持たないでどうやって生きているんだ?」、あるいは「イデオロギーを持たないなんて意識が低すぎる」と思う人もいるのかな。でも、よほどの暇人でもない限りイデオロギーなどというものは必要ないように感じる。

 では人はどうやって生きているのかといえば、それは "幼子を育てる母親のように" でいいのではないだろうか。そのような状態が人間の在り方として一番自然であるように思う。母親は「子育てイデオロギー」など持っていないからね。子育てをしようとする意識すらないかもしれない。

 それでどうしているのかといえば、ただただ問題解決をしているように見える。それも、人間としての自然な感情をベースにして。赤ちゃんが泣くと気に障る。だから母親は何とか泣くのをやめさせようと考える。おむつなのか、おっぱいなのか、トゲでも刺さっているのか、抱っこしてほしいのか、暑いのか、寒いのか、熱はないか、下痢はしていないかなどなど。

 うまく赤ちゃんに対応できると、赤ちゃんは大人しくなる。笑顔になる場合もある。スヤスヤ眠ってくれることもある。そこでお母さんは一安心。一件落着。

 基本的に人間のすることはそれでいいのではないだろうか。ノホホンと昼寝をしていたっていつまでもそんなことを許してはくれないのがこの世界だ。何かしらの問題が生じる。それに対応することが第一であって、それ以外のことは必要はないとは言わないけれど、二の次三の次になる。

 相変わらず岸田総理は「人非人」と思われているようだけれど、それは能登半島地震への対応のまずさも一因だ。あれだけの大きな地震が起きたということは、突然赤ちゃんが火のついたように泣き始めたのと同じになる。すぐに駆けつけてどんな状態かを見て対策するのはお母さんなら、虐待母を除いて全員行っていることになる。

 そこを、テレビに出てニタニタ笑っていたり、新年会のはしごをしていたというのだから、非難されるのも当然のことだ。まるで、車に子供を置き去りにしてパチンコに興じている親のようだ。ネグレクトも甚だしい。

 原発が危なかったので救助隊を遠ざけた、自分も行かなかったという噂もあるが、仮にそうであったならば岸田総理は人非人というよりも悪党になる。そんな状態なら、原発周辺の住民にまず知らせる、そして避難させるのが第一優先だからだ。

 少し話がそれたが、以上のように、イデオロギーなしで人間としてどのような判断をし、どのように行動したらよいかを考えるのが私であるものだから、自分では右翼でも左翼でもないと感じている。その都度その都度、一つ一つのことに対して、適切な解決方法を考えていくことが大切なのであって、「アメリカの提灯持ち(植民地)をしている限り何があっても大丈夫」などという馬鹿げたことはあり得ない。この点についても岸田総理にすぐにでも改めてほしいことになる。

 さて、それでは "右翼" から考えてみよう。その前に、右翼とはなんぞやということが問題になるけれど、「改訂新版 世界大百科事典」の指摘が適切に感じられた。それは「占領期の右翼は、民主主義を仮装していたが、独立後は天皇中心主義、反共反社会主義、再軍備促進、憲法改正などの独自の主張をかかげて公然と活動しはじめた。」というものだ。

 分かりやすい。現在の自民党は全くこのとおりの右翼であり、日本会議や統一教会なども同列だろう。この中で、私にとってなんとも理解不能であるのが "天皇中心主義" になる。理解不能といっても意味が分からないのではない。どのように考えたら天皇中心主義に賛同できるのか、そのあまりの不合理さを理解できない。

 現在の日本がどのようになっているかといえば、それは "アメリカ中心主義" といえる。日本はアメリカに金魚の糞のように付き従っているだけの国に見える。何とも情けない状態であり、そこを何とかしたいという気持ちは分かる。しかし、だからといって "天皇中心主義" はあり得ない。

 評論家でも、学者でも、ジャーナリストでも、知識人でも、政治家でも、天皇中心主義を否定しないのであればその人間の主張に価値はなくなる。なぜなら思考が停止しているからだ。明治維新で、日本人は国内を統治するために天皇を担いだ。天皇の権威によって国民を平身低頭の状態にさせ、その上で恣意的な政治を行うことを日本の体制とした。

 その結果が大東亜戦争の敗戦になる。300万人もの日本人が亡くなり、日本は独立を失った。1952年にサンフランシスコ講和条約によって日本は形の上では独立したことになったものの、実質は戦前と同じままに現在に至っている。

 何が同じかといえば、天皇制が続いている点になる。「天皇は人間宣言を行い、象徴天皇になったのではないか」と思われるかもしれないが、そして、確かにそのとおりなのだけれども、戦前の天皇はどこに行ったかといえばアメリカにすりかわった。すりかわるために、アメリカは天皇の責任を問わなかった。それが日本の支配を一番効率的に行う方法であったためだ。

 論より証拠が、昨年成立した「LGBT促進法」になる。自民党で反対意見が多数であるところを、アメリカの至上命令によりあっさり法律として可決されてしまった。本来あり得ないことだ。戦前の「神聖にして侵すべからず」の天皇が、現在はアメリカにすりかわったことが誰にでも分かってしまった。

 戦前の天皇制のまずかったところは、2点あって、一つは天皇を神格化して宗教にしてしまったことだ。これは統治という意味ではこれ以上ないくらい便利なものになるけれど、弊害もそれ以上に大きい。日本のトップが神様なのだから日本は最強の国であり、「米英など蹴散らしてくれる」というように勢いづいてしまった。身の程をわきまえられなくなった。今の右翼もそうかもしれない。「日本は神の国」であるなどといって万能感を持ちたがる。嘲笑に値するのだが。

 もう一つの天皇制の欠点は、側近政治になることだ。当然のことながら、どれほど強い権力を天皇に持たせたところで、天皇が一人で日本の政治を取り仕切ることは不可能だ。よって、天皇の取り巻きの間で熾烈な権力闘争が行われ、そこを勝ち抜いた者が天皇を操ることができるようになる。

 しかし、天皇の下の実質的な権力者は自分が前面に出ないために責任感が生じない。どんな無茶苦茶をしようとも、それは最終的に神である天皇の命じたことであって、自分が責任を問われることはなく、気楽な状態に置かれる。その結果抑制がかからない。それだもの、鬼畜米英と掛け声も勇ましく、真珠湾にまで攻撃していくことができたわけだ。どうせならサンフランシスコにまで行けば良かったのに、というのは蛇足。

 天皇中心主義など、箸にも棒にも掛からない。そう書くと信者は怒るかもしれないけれど。

 次に、左翼の話に移ろう。左翼は1991年のソ連崩壊に伴って消滅したように見えた。私もそう思って気分が清々したものだ。右翼の天皇中心主義は馬鹿げているが、左翼の共産主義も同じように馬鹿げているからだ。

 共産主義を観念的に理解するのは容易であるように思う。「財産の私有を否定し、生産手段・生産物などすべての財産を共有することによって貧富の差のない社会を実現しようとする思想・運動。」と定義されている。(デジタル大辞泉)

 私などは単純だから、これだけを読むと「わ、いいなあ」と思ってしまう。しかし、事はそう単純ではないのはすでに皆さんご存知のとおりかと思う。全ての財産を共有にするのであれば、一所懸命額に汗して働くのは馬鹿馬鹿しくなる。「お前の物は俺の物」なのだから、できるだけ怠けて、他の者と同額の分配を手にした方がお得というもの。

 実際にも、共産・社会主義体制は生産性が落ちるらしく、それがソ連崩壊の原因の一つになったようだ。日本など、夫婦2人で広い畑を耕し、生産性も高いが、それはひとえに生産した農作物が自分の物になると思うからで、人間の欲はその面では素晴らしい。

 共産主義は1900年代に猛威を振るった。ソ連も、中国も、その他の国でも共産主義者たちが権力を握った。権力を握るまでに至らなかった国でも一定の勢力を持った。そのような共産主義者たちがソ連が崩壊する程度のことで雲散霧消するはずがない。形を変えて現在の社会においても相当の勢力を持っていると思わなければならない。

 元々は反共産主義の国だったアメリカも、現在のバイデン民主党は明らかに共産主義政党であり、共産主義社会を目指している。もちろん、いつもアメリカの金魚の糞である日本の自民党政権もそれに追随している。EUもそうだ。

 とはいえ、世界的に一度は否定されたのが共産主義であるから、今の共産主義者たちは自分たちが共産主義者であるとは名乗らない。現代風のアレンジを加えながら正義の名のもとに活動をしている。温室効果ガスの削減、SDGsの推進、移民促進、LGBTの権利拡大、15分都市、ムーンショット計画、ワクチン推進、ジェンダーの平等、ベーシックインカムなどなど。常識的な感覚を持った人であれば首をかしげるようなことを、さもこれこそが時代のトレンドであるかのように吹聴する。しかし、その実態は共産主義になる。

 共産主義社会は一人一人の意欲が乏しくなりがちであるほかに、もう一つ大欠陥がある。それは、共産主義の「すべての財産を共有することによって貧富の差のない社会を実現」させるための方法になる。まずは、国民一人一人に財産や賃金を平等に分配するために、情報収集が必要になる。日本におけるマイナンバーカードはそのためであり、デマ太郎などが中心になって推進している。

 情報の収集ができたらそれを管理して、平等な社会を作ろうとするのが共産主義になるけれども、そこでさらに困難な問題は、誰が財産を管理して、誰が平等に分配するかという問題だ。人の財産を管理して分配するのだから、強大な権力が強制力を行使しなければ実現できない。不公平だなどという声をいちいち受け入れていたのでは収拾がつかなくなる。

 そのため、共産主義は大きな政府が強大な権力を持たなければならず、当然のこととして、基本的人権などを考慮していたのでは成立しない。自国民を押さえつけるだけの強力な警察・軍隊等が必須になる。

 そのせいだろうか。共産主義社会においては、しばしば恐怖政治、集団殺戮(ジェノサイド)が行われる。歴史を振り返ってみても、左翼の共産主義社会はそのようなことをしている。ソ連でも、中国でも。その上、強大な権力を持つ政府はどこからも干渉されないために腐敗し、権力者たちに富が集中してしまう。目的であるはずの平等社会は、結果として不平等社会になってしまう。

 以上、私なりに右翼と左翼について感じていることを書いてみたが、面白いことが一つあって、右翼の人たちはうぬぼれ屋であり、ナルシストであり、万能感があり、楽観的であり、ルーズであり、どんぶり勘定であるように見える。一方、左翼の人たちは、否定的であり、批判的であり、悲観的であり、冷酷であり、
重箱の隅をつつくように見える。

 よって、右翼が政権を握ると、相手がアメリカでも、中国でも、ロシアでも、何するものぞとばかりに戦争を吹っかける。左翼が政権を握ると自国民を虐殺し始める。どちらも悲惨なことにしかならない。

 え? 岸田政権? 列外だろう。論評に値しない。