ブログを書いている人たちというのは、日本人の平均以上の能力があるのではないかと思う。というのも、パソコンやスマホを使いこなして、文章を書いて、それを見ず知らずの人に読んでもらおうと思えるだけの自信があって、だからね。

 私も今はこんなに図々しく、大胆なことを書いているけれども、最初の頃はおっかなびっくりでかなり勇気が必要だった。ブログで発信している人たちは、そこを乗り越えた人たちだから、その意味でも一定水準以上ということになる。

 ところが、そんなブロガーでも、こと医療関係になるとお粗末な人が多いような気がする。自分の体や病気、あるいは健康について、基本の基本を理解できていない。まあ、基本を理解するというのは難しいといえば難しいのかもしれない。

 例えば、少し前にも書いたのだけれど、地球温暖化というか、気候変動も、多くの人はその基本を理解していない。その基本とは何かといえば、「地球は常に温暖化か寒冷化のどちらかの状態にある」ということ。温暖化も寒冷化もせずに、一定の気温で長年推移するなどはあり得ない。それが地球というものであり、人類が登場する以前からずっとそうだった。

 そんな基本的なことであっても理解することができれば、地球温暖化を防止しようなどという馬鹿げたプロパガンダには騙されずに済む。そして、温暖化というものは、寒冷化に比べると人類の脅威とはならないことも知っておく必要がある。人類にとって一番の脅威は寒冷化であって、氷河期がその盛りになってしまうと、人類存亡の危機になる。実際に地球は過去3回、全世界が氷で覆われたことがあるといわれている。温暖化で平均気温が2℃上がろうが、3℃上がろうが、その程度のものは脅威でも何でもない。

 でも、皆さん、政府が言っている、アメリカが言っている、学者が言っている、NHKが言っている、お天気お姉さんが言っている、グレタも言っているとなると、何だか温暖化を防がなければならないような気持ちになってくるんだな。

 このあたりの心理については、前々回の当ブログ「必ず最後に真実は勝つ」で指摘したように、日本人が勝ち馬に乗りたがるせいではないかと思う。訳もなく流行に乗ることで多数派になりたがる、あるいは長いものに巻かれたがる。そしてそれは大抵、金儲けのために政府やアメリカなどがデマを飛ばしているものなのだけれど。

 話の枕として地球温暖化のことを持ち出したけれども、同じようなことが医療関係についてもいえる。では、医療関係の基本的な考え方というのはどのようなものだろうか。それは大抵の場合、医者も、薬も、手術も必要がないということ。これを理解することがほとんどの日本人にはできない。

 難しいよね。「大抵の場合、医者も、薬も、手術も必要がない」なんて聞かされたって、内心では「嘘つけ」と思う人が多いのではないだろうか。でも、実際問題、私が病院に行ったのは、歯科医を除くと10年以上前に帯状疱疹で、その前となると、30年以上前に風邪を引いてくらいしかない。そんな奴は死んでしまったのかというとご覧のように元気に生きている。私は今まで入院したこともなければ手術をしたこともない。

 その間、風邪を引くことは何回もあったけれど病院には行かない。薬も飲まない。それは若い頃に新聞記事で、医者に対するアンケートの結果を見たためだ。どんなアンケートかというと、「風邪を引いたときにどうするか」というもので、3分の2以上の医者が「何もしない」ということだった。それ以来私は、医者を見習っている。

 私の体感としても、風邪を引いて風邪薬を飲むと症状はボケるが治りは遅くなることがあり、逆効果だと感じる。例えば、のどの痛みは少し和らぐ、熱は少し下がる、咳は少し収まるという効果はあるのだけれど、では治るのかといえば治らない。症状が穏やかになる分、完治するまでに時間がかかる。

 それは当然といえば当然で、のどの痛み、発熱、咳などの風邪の諸症状は、体がウイルスなどと戦うために必要があってあらわす症状であり、それを和らげてしまうと体の戦闘態勢が弱まる。そのため回復が遅くなる。

 もう一つ、健康について基本的な考え方があって、それは人間は必ず風邪を引くということ。これも例外がない。「風邪を防ぐなんて、そんなことができるのならしてみなはれ」といったところだ。馬鹿馬鹿しい。もっと一般的な言い方をすれば、人間は体調のいいときと、体調の悪いときを行ったり来たりしている。いつも体調のいい人もいなければ、いつも体調の悪い人もいない。

 実は私は個人的に、風邪を引くことは必要なことであると考えている。風邪を引いて安静にしているときは、体の中はフル活動状態で自分の体を整備していると考える。故障箇所を直し、足りないものを補い、汚れたところを清掃していると思っている。そして、体調が回復するのは、点検や整備が終わっていつでも再スタートOKの状態になったときだ。

 子供を育てていると、子供は大人よりも頻繁に発熱する。38℃、39℃という熱を出してフーフー息遣いが荒くなってくる。その場合は、なるべく解熱剤を使わないことが大切だけれど、それと同時に、そのようなときの子供は、体の組み換えを行っていると私は感じていた。

 なぜなら、熱が収まって体調が回復したときの子供は、発熱前よりも一段大人になっているとしばしば感じたからだ。例えていえば、蛇の脱皮のようなものかもしれない。そのように考えると、発熱は子供の成長のために必要があってのことになる。

 西洋医学は、平均的な状態から外れると病気であると考えがちだけれども、それは、体がどのようなものかを知ってのことではない。単に、いつもと違うから、あるいは他の人と違うから病気なのだろうと、何の根拠もなく決めつけているに過ぎない。

 風邪を引くことは、実は人の健康を維持するためのものであるかもしれない、あるいは、より健康になるためのものであるかもしれないわけで、そんな高度な考え方ができるほど今の医学は発達していない。

 大体において、現在のような医療が行われるようになったのは、ここ100年、150年くらいのものだろう。その前の何万年、何十万年というもの、人類は医者なしで生活してきた。医者がいないために、一人一人にとっては深刻な問題が生じることはあっても、だから人類がその数を減らしてきたのではない。医者や医学というものはその程度の些細なものに過ぎない。

 もちろん全ての医療を否定するつもりはない。医者のいない世界が理想的とは思わない。骨折した時、虫垂炎の時、熱中症の時、出産時の母子などに関しては、医療はありがたい。特に緊急医療は価値があると私も考えている。命を救うことができると、その人はまた元気に活動を始められるのだから。

 しかし、慢性病の多くは、医者の金儲けのためにあると考えていいように感じている。もっとも、私は幸いなことに持病を持っていないので、医療のありがたみが分からないだけかもしれないが。

 このようなことを書いてみても、多くの日本人にはちっとも真意が伝わらないことは悲しいことだ。なぜなら精神的な問題を多くの日本人は抱えているからだ。それは何だろう。不安を一人で処理できないというか、誰かのお墨付きをほしがるというか、嘘でもいいから慰められたがるというか。

 基本的に、医者は病気を治すことができない。病気が治るのは自分の体が働いて病気を治しているのであって、医者や薬が治しているのではない。医者はほんのわずかにアシストするか、あるいは邪魔をするかくらいのものだ。どれほど天才的な医者が現われようが、人間は必ず死ぬ。医者も死ぬ。自分の体が自分を回復させることを止めると、いくら医者が頑張ろうが、薬を飲もうが、手術をしようが、人間は死ぬのみになる。

 無条件で医者や医療の嘘を信仰している日本人を見ると、良くいえば大変に素直で従順であると感じる。ここまで素直で従順だと、何だかその無意識が尊いような気さえしてくる。そんな日本人に対しては、思わず十字を斬りたくなる。その心は「ありがたい」という気持ちと「お気の毒」という二つになる。

 日本人の、このような医療に対する、偏った、あるいは歪んだ態度というのは、実は医療に対してばかりではない。政治に対しても、経済に対しても、同様のことになる。日本人は医療音痴であると同時に、政治音痴、経済音痴でもある。そもそも、医者が、政治家が、官僚が、財界人が、それぞれの得意とする分野で大変に調子っぱずれだ。

 音痴を治すのは難しい。余談、私事になるけれども、一曲だけ音痴になってしまう曲がある。それは小椋佳の「揺れるまなざし」という曲。大好きな歌だけれど、なぜか冒頭の「こころにふれゆく今日です」の「く」の音を出せない。音程が狂う。他にうまく音を出せない曲はないのだけれど、この1曲のこの部分だけ駄目。しょうもない。

 

 この先の日本は、医療音痴も、政治音痴も、経済音痴も、治すことのできないまま滅びていくのかもしれない。日本人には賢さが足りない。