老人らしく、昔の歌を枕にしよう。「お早うございますの帽子屋さん」という私の好きな曲がある。谷山浩子作詞作曲歌となっている。澄んだ声、軽快なメロディの曲であり、散歩をしながら口ずさむにはもってこいだ。いつの歌かと思ったら1991年で、今から32年前になる。まだまだ私に若い勢いがあったというか、無理がきいた頃かな。

 「誰だってみんな やさしいひとばかり だからお早うございますの帽子屋さん」という出だし。「疲れるだけですよ 憎んでみたところで」「ひとこと 話をすれば 誰でも友だち」「小さな幸せ 小さな幸せ」「赤い帽子 白い帽子 みんなにあげます一つずつ」などのフレーズが並んでいる。

 谷山浩子は1956年生まれの66歳。2019年にアルバムを出しているが、その中にある「朝ごはんの歌」というのも秀逸。いいよねえ。どうも私は谷山浩子に共鳴してしまうところがあるみたいだ。

 ただ、2020年に乳がんと診断されたことを公表した後、情報が途絶えているようだ。寂しい感じがする。あ、違うな、コンサートを再開している。今月21日の「東京公演のチケットは、完売しました。」なんて書いてあるから、大丈夫みたいだ。めでたし。

 ネットを検索していくと、創価学会と書いてあるところがある。「あ、そうなの?」と思うけれど、まあいいや。まあいいやでは分からないから少し書いておこう。これまで職場などで創価学会の人を数人かな、知っている。皆さんいい人だった。そこが、日本最大の新興宗教になっている理由なのだろう。いい人でいられるから入りやすいよね。

 黒い噂もたくさんあって、嫌う人も多いようだ。必ずしもいい人ではない側面を見せることがあるのかもしれないけれど、私としてはとりあえず被害を受けたことはないし、悪い感じはしない。お人よしで大ざっぱな、付き合いやすい人たちというイメージ。

 あ、思い出した。公明党はビル・ゲイツと仲良しで、ワクチン推進派だったねえ。ワクチンに関して私は、日本の宗教界にも文句を言いたくて、あんな非人道的なワクチンを日本人が打たれているのに、反対の声を上げる宗教がほとんどないことが不満。まあ、ワクチンを打つのが日本の多数派だから、新興宗教多数派の創価学会を母体とする公明党が、ワクチン推進に回るのも自然といえば自然なことなのかな。

 でもねえ、創価学会あたりがワクチン反対とやってくれれば、かなり情勢も違っているのだろうけれど・・。逆に考えると、だからこそビル・ゲイツは創価学会を共犯に取り込んだということになるのかな。ビル・ゲイツは百戦錬磨の"悪"だから、1枚、いや10枚も20枚も上手ということかもしれない。それに、欧米人としては宗教界を手懐けることは、マスコミを懐柔するのと同様大切な侵略の手口なのだろうし。

 と、話がかなり脱線しているけれど、谷山浩子の「お早うございますの帽子屋さん」を話題にしたのは、その歌詞が日本の原始宗教ではないかと感じるため。(あ、もう創価学会とは関係のない話になっています。)

 まず「原始宗教」ということだけれども、「原始宗教は一定の社会集団のなかで自然に形成された宗教であり、教祖・開祖をもたない。無文字社会が多いので、文字で表現された教典をもたず、まとまった教理はない。」(日本大百科全書(ニッポニカ))、「宗教はアニミズムやシャーマニズムのような自然崇拝から多神教、そして一神教へと進化したという宗教社会学の仮説にもとづく用語。」(ウィキペディア(Wikipedia))

 上記の日本大百科全書(ニッポニカ)にはさらに続きがあって、「宗教と社会組織とが密接に結び付いており、宗教は家族、リニエッジ、クランなど各レベルの連帯性を強め、さらに全体の統合を促す役割をもつ。また宗教が政治、経済、法律、道徳、慣習などと未分化的にかかわっており、祭と政とが一体化し、祭と経済的交換が同一の場で行われ、タブー(禁忌)行為が法的または道徳的観念・行動と重なり合っていることが多い。」と記載されている。

 う〜ん、これを拡大解釈すると、まさに現在の日本そのものになるんじゃないかな。日本には、神道、仏教、キリスト教、各種新興宗教などたくさんの宗教があるけれども、実は日本人はいずれの宗教にも完全には帰依していなくて、実際に信心しているのは古来から続いてきている「日本の原始宗教」ではないかというのが、今私が考えていることになる。

 そして、それを言葉を使ってとっても良く表しているのが、谷山浩子の「お早うございますの帽子屋さん」ということなんだな。この歌の歌詞は、日本人ならみんな素直な気持ちで相づちを打てるのではないだろうか。

 この歌は性善説に基づいており、また全体主義・共産主義でもある。同時に愚鈍さもよく表現されている。すなわち、「誰だってみんな やさしいひとばかり」では、性善説が示されている。ちょっとばかり愚鈍でもある。「小さな幸せ 小さな幸せ」「みんなにあげます一つずつ」では、全体主義・共産主義が表されている。そういうのが日本人なんだな、と思う。

 この歌を批判しているのではない。私自身が何百回も口ずさんだ歌だからね。そして、私自身も性善説を信じ、全体主義・共産主義なのだと思う。これはこれでとっても気持ちの良い世界だと思う。この調子で生きていければそれに越したことはない。

 しかし、私たちが知らねばならない大切なことがもう一つある。それは「男はみんなオオカミよ」ならぬ、「英米人はみんなオオカミよ」ということだ。中国はさしずめ"野犬"くらいのものだろうか。いずれオオカミ化する心配はあるけれど、今はまだオオカミほど危険ではない。

 こうやって考えていくと面白いね。EUあたりは小型オオカミといったところかな。日本はポメラニアンだね。食い物にされるよなあ。で、実際に食い物にされている。

 ここで、3年前からの新型コロナ騒動を、この「日本の原始宗教」という観点から眺めてみたいと思う。私にとっては実に不思議で、理解不能ともいえるような事態が新型コロナ騒動だった。というのも、そこには合理性も、科学性も、経済性も何もなかったからだ。日本では医者や政府と癒着している企業が私腹を肥やし、アメリカのスーパーリッチたちも大儲けしたけれども、一般の日本国民ときたら惨めなものだった。

 自由を奪われ、税金を湯水のように使われ、おまけにワクチンによる大虐殺まで行われた。これまでのところで20万人くらい殺されたのではないだろうか。今後も影響が続くとすれば、30万人くらいになるかもしれない。ワクチン接種の長期的な予後については誰も知らないから、ワクチンを打った人は全滅ということもあり得る。これはあくまで可能性を否定できないということで、実際にはそんなことにはならないだろうけれどもその確証はない。

 このような事態を見ての第一感は、日本人が無知で愚かであるということ。早い話が馬鹿でアホということだね。誰かが日本人のことをアホン人と言っているけれども、思わず「うまいっ! 座布団3枚!!」と思ってしまう。日本人にはシナントロプス・アホネンシスと学名を付けてもいいくらいだ。

 そのようなことで決着をつけても悪くはないと思うのだけれども、私としてはもう一つ腑に落ちない。なぜなら、いくら何でも馬鹿すぎる、アホすぎるからだ。だって、日本人がいくら馬鹿でも分かるでしょう、マスクが何の効果もないことくらい。ほぼ100%がマスクをかけていながら、コロナは第3波、4波、5波、6波、7波、8波と続いてきたのだから。欧米ではとっくの昔にマスクをするのをやめているのだし。

 ワクチンだって、とっくの昔に気がついていい。打てども打てども感染者が減らないのだから。おまけに、ワクチンを打ち始めてから日本全体で死者が増え始め、ついには平均寿命が短くなる事態にまでなっている。いくら馬鹿でも、いくらアホでも、"何これ?"と思うはず。嘘つき専門家は、当初国民の7割が接種すれば集団免疫ができるなんて言っていたのだし。

 そりゃ、ボケ老人のように、「ここはどこ? 私はだれ?」にまでなっているのであれば、理解できなくても仕方がないかもしれないけれど、一応はもっともらしい顔をして働き、家族の面倒を見、趣味に興じることのできるくらいの人が、それでは説明がつかないような気がする。

 もちろん、政府、与野党、医者、学者、マスコミなどは嘘をついて国民を煽った。総理大臣以下、これでもかというくらいに煽りに煽った。もう間違いなく人殺しであり、虐殺者だ。しかし、国民にとってみれば、自分の生死にもかかわる大問題のはずで、いくら偉い人がそう言ったからといって、いくら馬鹿でアホだからといって、次々と自殺を図るような真似はしないはずだ。

 そのようなことを私の中ではうまく統合できなくて、あれこれ考えてきたのだけれど、今回は日本の原始宗教を持ち出してきて納得できないかを試してみる。谷山浩子の「お早うございますの帽子屋さん」から導かれる、日本の原始宗教の教えである「性善説、全体主義・共産主義」からどのようなことが分かるだろうか。

 まずは、政府、与野党、医者、学者、マスコミなどが悪人であることを、日本人は決して受け入れようとしないことだ。性善説が日本の原始宗教の基本的な教えであるからそれは無理なことらしい。なんと政府、与野党、医者、学者、マスコミなどは親切にアドバイスをしてくれると思い込もうとするのだから手に負えない。信仰だから合理的か不合理か、科学的かそうでないか、結果がどうなるかなどは関係がない。

 また、日本の原始宗教の教えは「全体主義・共産主義」だから、日本人の目標は"小さな幸せ"になる。裏切り者であるケケ中が、"みんなで貧乏になろう"とベーシックインカムを推奨していたようだけれども、日本人はそのような考え方が好きだ。不幸になることでもみんな一緒であれば進んで行おうとする。コロナ禍で、自由を奪われようが、ワクチン死しようが、みんな一緒であれば正しいことだと認識する。逆に、ワクチンを打たないとか、マスクをかけないとか、自粛しないなどは、一人抜け駆けしているとみなされ、迫害される。やはり、合理的か不合理か、科学的かそうでないか、結果がどうなるかなどは関係がない。

 宗教であり、信仰であるからして、頭がいいか悪いか、馬鹿か利口かなども関係がなくなってしまう。それは、かつてあったオウム真理教事件を考えると分かる。当時は、学歴が高く、賢そうに見える若者がなぜあんな怪しげな教祖の下でカルトを信仰するのかと不思議がられたものだけれども、どうも宗教というのはそのようなものであるらしい。信仰したが最後、信仰と関わる部分において人は理性を失うことになる。

 さらに、私の知る範囲においては信仰はかたくなであり、布教活動も伴う。どれだけ周りがワクチンは危険だ、マスクは意味がないと警鐘を鳴らしても、それがどこから見てももっともなことであっても、聞く耳を持とうとしない。逆に、「あなたも一緒にワクチンを打ってマスクをかけましょう」と勧誘されるのが落ちとなる。

 それにしても、性善説を信じている人に、世の中には悪人がいるということをどのようにして理解させたらいいだろうか。日本の原始宗教に悪魔の存在はなかったのだろうか。何か良い知恵はないものかなあ。なにしろ信仰だから並大抵のものではない。あきらめた方がいいのかもしれない。

 きっと、ワクチンを打つ人たちは、無意識的に自分が殉教者のつもりでいるのだと思う。苦しかろうが、殺されようが、自分の信仰のためだと思うと喜びを感じるのだろう。例え自分が殺されようとも、性善説、全体主義、共産主義の教えを守ろうとして殉教しようとする。それだけの信仰心の強さ、頑なさを持っていると考えた方がいいようだ。

 しかし、日本の原始宗教はいくら何でもお人よしすぎる。アメリカを見て御覧なさいよ。ビル・ゲイツを見て御覧なさいよ。自分の私腹を肥やすためとなれば、何億人殺そうが当然という顔をしている。そのようなことができるイカれた宗教もあるのだから、日本の原始宗教もアップグレードして、少しは防げるようにならないものだろうか。