大分前に、司馬遼太郎の「この国のかたち」という本を買って、しかしほとんど読んでいないという状態にして置いてある。暇はたくさんあるはずなのに、読書というのはなかなか難しい。若い頃は、読んで読んで読みまくっていたのに。その理由ははっきりしていて、求めるものが少なくなったのだと思う。私の場合、高校、大学時代の精神的な飢餓感というのはすさまじいものがあり、読書はその飢えを幾分かでも満たしてくれた。

 司馬遼太郎は私の大好きな作家で、大学時代に「坂上の雲」を読んで感動したことを覚えている。それ以降、小説はほとんど読んでいないが、エッセイや対談集については、本屋や図書館に置いてあるものについては全部読んだ。分かりやすいし、知的で面白いというのが司馬遼太郎の特徴で、私はその点が大好きだ。

 「この国のかたち」は読んでいなかったらしい。というのも、もう読んだものと勘違いしていたことと(いや、ひょっとすると読んでいて忘れているのかもしれないが)、最終巻が刊行されたのが1996年とかなり大人になった後のせいであるように思う。40歳を超えると私の読書の量はぐっと減ったから。

 それでも、読みたいという気持は完全になくなってはおらず、「この国のかたち」も数行、数十行単位でたまに読むことがある。最近読んだところには、仏教のことがわずかだが書いてあって、目からウロコなものだから今回記事にしている。

 日本人には信仰を持っている人が原則いなくて、私もその一人だ。仏教というのはインド哲学のようなものだから、興味がないわけではない。しかも、日本中に " 仏教的 " なものは溢れるくらいたくさんある。日本語からしてたくさんの仏教用語が日常語になっている。そこで以前、仏教を知るために何かいい入門書はないかと探したことがあるけれど、これが見つからない。入門書といわれるようなものであっても、読んでみるとチンプンカンプンだったり、あからさまな信仰の勧めだったりして参考にならない。

 今考えてみると、このようなことは日本的特徴で、しかも欠点であるように思う。それは何かといえば " 門戸を狭くする " ことだ。非関税障壁・参入障壁という言葉があるけれども、日本は貿易や受注に限らず、目に見えない形での障壁をどこにでも設けてある。難解であるといわれる日本語も障壁の一つだ。

 最近たまにいわれることに、2世・3世議員の害悪がある。地方議会は知らないが、国会議員の2世・3世の多さは目に余る。その害悪は岸田総理を見れば一目瞭然であり、死んだ人を悪くは言いたくないが、安倍元総理など、安倍元総理自身が国難のようなものだった。そんな害悪の多い2世・3世議員が多いのも障壁があるせいだ。つまり、一般人が政治家になる道をいろいろな方法で妨害している。新規参入を認めようとしないシステムになっている。

 なぜそんなことをするかといえば、障壁をくぐり抜けて政治家になった者たちが、ぬくぬくと安楽に暮らすためだ。それが日本社会というもの。門戸を開放してたくさんの人が集まり、競争が激しくなり、能力の高い者ややる気のある者しか生き残れないようでは困るというのが日本社会だ。これは津々浦々、隅々までそうであり、日本社会は入り口でふるいにかけて、そこさえかいくぐれば、後は生存が保証されるというシステムになっている。

 大学入試や入社試験がそうであり、各種資格試験もそう。いつも落選の危険がある政治家は一見そうではないように見せかけているが、2世・3世議員の多さを見れば、うまみの多い安楽な商売を続けられることが分かる。

 安倍元総理はこれ以上ないくらいの利権政治家であったけれども、利権が生じるのも門戸を狭くするせいだ。中に潜り込めればしめたものだとみんなが思っているから、入れてくれる者に何かしらの賄賂的なものを渡そうとする。そうやって利権が発生する。

 そうそう、今回の新型コロナ騒動もそうだ。新型コロナ対策を見ていると、日本の医学者や医者がいかに不勉強で、素人以下の存在であるかを痛感した。医学に無縁の私でさえ分かっているような基本的なことを、医学者や医者が理解していない。医者は日本で最大の利権集団であり、門戸をギリギリに狭くして、そこから入り込んだ者にはパラダイスを用意してある。つまりやりたい放題だ。だから日本の医者はその多くが " やぶ医者 " であり、さらには良心まで失っている。あまりに利権にうまみがありすぎるものだから、本来の仕事などそっちのけで利権の拡張にしか興味がなくなっている。だから守らなければならないはずの人々に対して、殺人ワクチンを打たせようとしたがる。

 なかなか仏教の話に移らない。老人は御託が多くなっていけない。

 さて、日本の宗教。「坊主と乞食は3日やったらやめられない」という言葉がある。そう、宗教というのも実においしい商売なのだ。そのために、新規参入を可能な限り妨害しようとする。坊さんは大体頭を坊主頭にしているが、あれも障壁の一つなのかもしれない。そして宗教自体も難解なものにしようとしている。

 神様・仏様をバックにして、「ありがたい、ありがたい」と強調するが、その教義等を分かりやすく教えようとは決してしない。昔、オウム真理教が引き起こしたテロ事件が騒がれたことがある。そのときに、なぜ日本の優秀な若者が、あんなに胡散臭い麻原彰晃に帰依しようとしたのか話題になった。既存の宗教は何をやっているのかとまでいわれた。

 しかし、考えてみればそれが日本社会のようだ。既存の宗教は門戸を狭くして、金はいくらでも受け入れるが、宗教そのものは開放しようとせず、信者の信心ですら深めようとする努力をしない。生臭坊主でも生き残っていけるようにするためには、信者は愚かである方がいいからだ。しかし、それでは優秀な若者たちは満足しない。麻原彰晃のところに走った。

 では、司馬遼太郎は仏教に関してどのように書いているだろうか。「この国のかたち」第1巻に「21 日本と仏教」という章がある。その最初に「本来の仏教というのは、じつにすっきりしている。」と書いてある。説明というものは、書けるのであればこのくらい平易に書かれるのが理想的だ。そして「ざんねんながら仏教には一大体系としての教義がないのである。」と書いてある。なるほど私が分かりやすい入門書を探そうとしても見つからないわけだ。

 その次に「本来の仏教には神仏による救済の思想さえない。解脱こそ究極の理想なのである。」と書かれている。「なるほどそうなんだ!」と思う。では、解脱とは何かといえば、「煩悩の束縛から解きはなたれて自主的自由を得ること」だという。あ〜、こうやって書いてくれると分かる。つながる。

 「本来の仏教はあくまでも解脱の〝方法〟を示したものであって〝方法〟である以上、戒律とか行とか法はあっても、教義は存在せず」だそうだ。ここのところを私はずっと不思議に思い、分からないまま現在に至っている。というのも、父方の宗教は曹洞宗であり、禅宗というものは修業を積んで悟りを開くことになっていると聞いたからだ。悟りを開くというのは、仏になるということなのだろう。仏というのはキリスト教でいえば神なのだろう。ということは、私は神になる手前の存在ということ? そんな、突拍子もないことを考えながら不思議に思っていた。

 もっとも、日本の仏教としては「浄土真宗」もある。最大宗派だろう。私の母方は浄土真宗で、私は傍で見ていて浄土真宗とキリスト教の区別がつかない。ただひたすら手を合わせて、仏様に救済してもらうという姿勢だからだ。「キリスト教浄土真宗派」で何の支障もないだろう。「仏様」を「神様」「イエス様」に置き換えればそれでいい。「南無阿弥陀仏」を「アーメン」に置き換えればいい。

 これに関して司馬遼太郎は「浄土真宗は〝本家離れ〟(?)してキリスト教に似た救済性をもった」と書いている。そして、「救済の思想は、釈迦がひらいた本来の仏教には存在せず、その没後、数百年をへて出現した大乗仏教のなかにあらわれる」と説明している。なるほど、そういうことなんだ。

 また、「親鸞は大乗経典のなかでも『阿弥陀経』のみを自分の体系(宗)の根本経典とし、阿弥陀仏をGodに似た唯一的存在と考え、その本質を光明(キリスト教の用語でいう愛)としてとらえた。」と書いてあり、なるほど私がキリスト教浄土真宗派と感じるのも無理のないところがある。というか、鎌倉時代の親鸞は、日本流キリスト教の始祖だったと考えてもいいのかもしれない。実は親鸞はキリスト教信者であって、キリスト教を日本に持ち込み、ローカライズしたという可能性はないのだろうか。親鸞はキリスト教を日本人、そして日本社会に適合するように洗練させた人なのではないだろうか。

 司馬遼太郎は「救済の宗教には、教義が要る。親鸞はその思想の純粋性を他に示すために著述をした。その著作や述作が、教義になり、また日常規範にもなった。」「仏教には教義はないといったが、親鸞の場合のみ例外で、キリスト教やイスラム教ほどではないにせよ、教義がある。」と書いている。

 いやいや、次から次へと疑問が氷解する。そういうことだったんだ。ネットでも、YouTubeなどで浄土真宗の人が動画をあげているけれど、教義があることと関係しているのだろう。私の父方の曹洞宗など、座禅を組んでいればいいというところがあったような気がするけれど、それでは動画にはならない。

 ところで、この本で司馬遼太郎は、仏教の究極の理想である " 解脱 " について、「煩悩の束縛から解きはなたれて自主的自由を得ること」としか書いていない。もう少し詳しく知りたい。解脱が仏教の肝心要らしいだからだ。辞書等を引いてみよう。

 「インド思想一般において、解脱は、現世、迷いの世界、輪廻(りんね)などの苦しみから解き放された理想的な心の境地と考えられ、この解脱を得ることが人生最大の目的とされた。」「解脱とは「煩悩から解き放された心の状態」である。」(日本大百科全書(ニッポニカ))

 「人間生活に伴うあらゆる苦悩や迷妄の束縛から開放されて、完全に自由になることをいう。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 「表層意識を消滅させつつ深層意識を自覚化していき、最深層意識をも消滅させると同時に、彼自身の実存においてあらゆる衆生にゆきわたる根本真理を知る知恵を得、悟りを悟ったのである。したがって悟りとは、そのようなしかたで自我的な人格から解脱して自由になり、衆生に対して無礙(むげ)自在にはたらく新しい仏菩薩的人格へと生まれ変わることであるといってよい。」(世界大百科事典 第2版「悟り」から)

 何だか、分かったような分からないような。「色即是空 空即是色」なんてことも、解脱に近い言葉だねえ。東洋独特の考え方のような気がする。西洋はあくまで自分の欲望に忠実であろうとするけれども、東洋は欲望を否定する。金だ、権力だ、女だ、酒だ、勝負だ、そんなものは煩悩であり、そこから解き放たれる(無関係な存在になる)ことが究極の目的であるとする。

 その前提として、人間の欲望は人間を苦しめる、人生は苦痛だ、この世は苦しみや悩みに満ちた世界だという思想があるのだろう。そこから逃れようとすることは、説明を必要としない自明の理であると考えるために、仏教には教義がないということなのだろうな、きっと。

 そうなると、私のような仏教素人には、この世がどのようにおぞましい世界なのかを分かりやすく説明してもらう必要があり、司馬遼太郎でもまだ足りないことになる。この世のおぞましさは、輪廻や三界六道、業などとも関わってくるのだろう。そのあたりはインド哲学ということ?

 このような仏教的な世界、思想、価値観はアメリカ人やイギリス人などには、死んでも理解できない高尚なものに違いない。あの人たちは自分の欲を恥じることもなければ、わきまえようともしないからなあ。ただひたすら己が欲を満たすために前進しようとする。まあ、餓鬼みたいなものだね。そして、みっともないことに、その餓鬼の子分が日本の政治家、医師会、マスコミなどになる。喝
!!

 日本が欧米に媚びへつらって必死に後追いをしているのは異様だねえ。精神的に異質すぎて、欧米側としても気持ち悪いだろうに。仏教思想や東洋思想が支配的な、中国、東南アジア、インドなどと仲間になるのが日本にとっては自然であるはずだけれどなあ。日本はイランとだって仲がいいはずだし、北朝鮮とだって裏ではつながっているという話だし。あの中国とだって、仲良くしたくてたまらないところを、アメリカに命令されて敵のフリをしているだけなんだろうし。まあ、そのあたりを分析するのは、私程度の知識ではまだ荷が重すぎる。死ぬまでの間ゆっくり考えることにしよう。