○北海道の東側、太平洋に面して釧路市がある。現在人口が16万2,890人ほどの、道東の中核都市である。人口は年々減少している。この釧路市に私は計6年ほど住んだことがある。1度目は昭和60年(1985年)頃、2度目は平成17年(2005年)頃である。

○最初のときは釧路市に不満だった。ある意味とっても遅れていたからだ。不便で不便で、日本の外れともなるとこんなものかと思った。釧路の前は札幌で生活していたので、札幌と比較して不満だったことになる。

○どんなことが不満だったかというと、コンビニが1軒もなかった。当時札幌では普通にセブンイレブン等があった。釧路で生活して間もなく、夜の8時頃に電池を買いに車で街の方に出かけたことがあった。ところが、そんなに小さな町というわけでもないのに、電池を買えるような店は全部閉まっていた。買い物をしたければ、午後6時くらいまでだった。驚いたがそれが日常のことだった。

○買い物はいつも不便だった。当時どこにでもあるはずのダイエーが釧路にはまだ来ていなかった。ファミレスも1軒もなかった。地元のデパートに行ってみたら、ベビーカーが置いてなかった。それでも長崎屋とイトーヨーカドー堂はあった。あったが、品揃えは悪かった。そのとき釧路で覚えたことは、何か欲しいものがあって買い物に行っても手に入らないことだった。売ってるものを見て、その中に欲しいものがあれば買うという買い物スタイルが求められた。当時はまだ通販もなかったので、本当に欲しいものがあるときは、きちんと調べて店に取り寄せの注文を入れるか、札幌か東京にでも買いに行かなければならなかった。

○食べ物もまずかった。食堂、レストランなとでおいしいところがなかった。ただし、通称「炉端(ろばた)」と呼ばれる焼き魚や刺身をメインとした居酒屋はおいしかった。これはもう別格で、全国どこに出しても恥ずかしくない質の料理が出てきた。さすが港のある町だと思った。

○当時の釧路港はマイワシ、サンマ、スケトウダラがよく獲れていた。昭和62年にはマイワシだけで釧路港の水揚げ量が約85万トンもあったという。私はこんな数字を見ると、日本人は頭がおかしいのではないかと思う。そんなに獲ってしまったらいなくなってしまうだろうに。いくら海は広いといっても、一つの港でイワシだけで1年に85万トンも獲ったらいなくなると考えるのが常識だろう。

○実際問題として平成8年になると、釧路のマイワシの漁獲量はほぼゼロになった。85万トンからゼロである。そのようなことは初めてではない。一番有名なのはニシンである。もう、獲れて獲れて、北海道の開拓はニシンが獲れたためといってもいいくらいだ。1897年(明治30年)にはニシンの水揚げが97万トンもあったという。しかしそれも1955年(昭和30年)頃にはほぼゼロにまで落ち込んだ。

○サンマもよく獲れていた。釧路に私が住んでいたときに買えたサンマは見事だった。釧路を出た後はあんなサンマを見たことがないから、ごく一部の人の口にしか入らなかっただろう。とにかく大きくて、脂が乗っている。大変においしいのでつい2、3匹食べてしまうのだが、あまりに脂がくどくて、一度食べると1年間くらいは見たくもなくなる。せっかくのサンマなのだがそんな欠点があった。

○サンマも最近は不漁続きである。獲って獲って獲りまくっているうちにそんなことになる。そういえば、鮭も不漁である。鮭などは人工孵化、放流をしているのだから、不漁などということにはならないはずだと思うがどういうことなのだろうか。

○報道では不漁としか言わないのだが、私としては何か隠しているのだろうと勝手に思っている。今の日本政府のやることは、一から十まで疑った方がいい。ニシン、イワシ、サンマ、鮭、イカ、マグロなどの魚資源を、日本はどのように把握して管理しているのだろうか。おそらく、単純に豊漁、不漁というだけでなく、人為的に操作してそれが成功したり失敗したりを繰り返してしているのではないだろうか。私の耳には入ってこないが。

○そういう意味で最近成功しているのがニシンである。幻の魚になっていたものの、1996年から北海道の日本海側で稚魚を放流するようになった。おそらくそのせいで、15年くらい前から石狩湾沿岸で群来が見られるようになった。

○群来とはニシンが産卵のために大挙して岸に押し寄せてくることである。メスは海藻に卵を産みつけるが、オスの方はといえば、辺り構わずそこいらに精子をばら撒く。いかにもオスのすることである。その結果、岸付近の海の色が白っぽくなる。微妙な変化ではなく、誰でも海の色の変化にすぐ気がつく。

○それを見事に捉えた動画があった。「【超貴重動画付き】北海道に押し寄せたニシンの産卵、撮ったどお!」をご覧いただければ一目瞭然である。昨年4月の映像である。何だかニシンがとっても喜んでいるように私には見える。

 

○この、海藻に産み付けられた卵(数の子)を食べにカモメなどの海鳥もやってくる。ちょうど今、私の住んでいる小樽にはカモメがたくさんやってきている。ソーラン節の「ニシン来たかと カモメに問えば わたしゃ立つ鳥 エー波に聞けチョイ」という歌詞を、あるいは石狩挽歌の「ごめ(カモメ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)の ヤン衆が騒ぐ」という歌詞を思い出す。

○話が釧路から逸れた。釧路は霧の町でもある。「海霧」である。太平洋岸であり、冬場は関東のようにからりとした晴天が続くのだが、夏場はひどい。北海道では「ホワイトアウト」といわれる状態が冬の吹雪の時に発生する。雪が強風で舞い、車を運転していると視界が全く閉ざされるものだ。ところが釧路は霧でもこれが生じる。まさしく五里霧中であり、吹雪の時のホワイトアウトよりももっと恐ろしく感じる。

○そのため、昔は釧路空港で旅客機の欠航が多かった。しかし、1995年から計器着陸を導入し、カテゴリーⅢa、さらに2006年からは1ランクアップしたカテゴリーⅢbを導入したことで、霧による欠航はほとんどなくなっている。なお、カテゴリーⅢbが設置されている空港は国内では新千歳、釧路、青森、成田、中部、広島、熊本の7か所だという。視界100m程度での着陸が可能なようである。

○霧のせいで釧路の夏は寒い。ちょうどロンドンを思い浮かべるといいのかもしれない。夏に気温が30℃を超える日があると、テレビでも新聞でも、ローカルニュースは何年ぶりだと話題になる。そんなところに住んでいると、28℃くらいでも暑いと感じるようになる。25℃もあれば皆半袖になる。海に面した街だが、寒さのせいで海水浴場がないのも特徴的である。

○作物も育たない。霧の届く場所は植えても枯れてしまう。霧を運んでくる風が冷たいのもあるし、塩分を含んでいるせいもある。霧が何日か続いた後の晴天の日、屋外駐車してあった私の車がなんだかキラキラ光っていた。近寄ってみると小さな四角い結晶で覆われている。舐めてみたら塩辛かった。そんな土地である。

 

○そうそう、そういえば、霧の中で朝野球をしたことがある。相手チームと約束をしてグラウンドを借りての野球だから簡単に中止にはできない。その時は外野を守ったのだが、ピッチャーやバッターは見えても、ボールは全く見えない。ピッチャーが投げる、バッターがバットを振る、カキーンと音がする、「行ったぞー!」と私に向かって声がする。しかしボールは見えない。目を凝らす。と、突然霧の中からボールが私めがけて飛んでくる。無事キャッチした。笑い話のような実話である。今でも霧の中からボールが現れるシーンが頭に焼き付いている。そんなことを記憶していたって意味がないような気がするのだが。

 

○20年くらい経ってから2度目の釧路生活が始まった。その時はすっかり快適な生活ができるようになっていた。釧路も東京文明に制覇されたからである。何よりも、イオンモールが象徴的だった。とにかく、行くところ行くところ田舎標準だったのが、全部都会標準に変わっていた。東京や札幌に住み慣れた人にとっては、これ以上ない嬉しい変化だったが、嫌がる人、腹を立てる人、悲しがる人もきっといたに違いないと思わせる。

 

○街全体が日本標準に近いものとなり、住みやすくなってみると、釧路の霧も悪いばかりではない。夏涼しいことは体がとっても楽である。夏バテしない。釧路に住んでみて初めて、夏が人間に与える疲れに実感として気がつく。また、あの霧が出た時の独特の雰囲気。好きになれない人も多いだろうが、浮ついた気持ちが静まる効果がある。

 

○そうそう、最初に私が釧路を出た後に、釧路湿原が国立公園に指定された。国内最大の湿原である。昔から住んでいる人にとっては、何の役にも立たない場所だった。釧路市の街のすぐ隣に、利用できない広大な土地があるというだけのことで無価値だった。それが国立公園に指定されて以降、意味合いは大きく変わったように思う。よく見てみればそこは、北の自然、動植物の宝庫だったからだ。有名な丹頂鶴も湿原あってこその存在である。

○釧路湿原の広大さはさすが北海道と思わせるところがある。湿原といえば何といっても尾瀬ヶ原が有名で訪れる人も多いのではないかと思われるが、釧路湿原を知っている私が最初に尾瀬ヶ原に行った時に感じたのは、何だか箱庭みたいにこじんまりしているということだった。

○釧路湿原に限らず、あの近辺、根室、知床、阿寒、摩周といったところは、明らかに日本的ではない。北海道としても異質である。観光地としてお勧めしたい場所である。