今さらの話である。恥ずかしながら今さらスマホデビューである。

そもそも私は電話が嫌いである。電話のせいでいい思いをしたことが少ないせいだと思う。今まで私に一番たくさん電話をかけてきた相手は会社である。もちろんそれは仕事の話で、当然のことながら給料を上げてやるなどという電話は1回もなかった。

仕事の話となれば、大体はトラブルが起きたということである。仕事が嫌いでやる気がなかったということではないが、休日にトラブったので出て来いなどという電話は最悪である。家族からの電話にしたって、良いことはほとんどない。悪いことか、パシリに使われるようなことが多い。

だから携帯電話を持つようになった時期は遅く、平成15年頃だったろうか。持つようにはなったものの、電話などこの世からなくなればいいと思っていた。これが、独身の若い頃であれば違っていただろうと思う。そう、彼女との連絡手段である。電話をかけるのも、かかってくるのも楽しみで、電話が大好きになっていたに違いない。今ではザワッとする女房の声も、昔は心地よく感じたものだ。生まれてくるのが早すぎた。

平成といえば、老人にとってはつい昨日の時代であるが、平成元年になっても私は携帯電話など見たこともなかった。まだ世の中に出回っていなかったのである。お客の1人がAudiに乗っており、のぞき込むと車載電話がついていて、そうかこういうものがあるのかと感心した覚えがある。

そんな私が気がついたときには、携帯電話を持つことは常識になっていた。仕方なく私が購入した携帯電話は、メール機能なしで月々1000円くらいの基本料金のものだった。以後、携帯電話にはその程度の料金しか支払わないで来た。現在まで使っていた携帯料金も月々1400円弱である。

基本的に電話をかけることのないので、それで何不自由なく生活していたのだが、ここに来て変化が生じてきた。一つは、ガラケーのおサイフ携帯がサポートを切られてしまったのである。電話はかけないが、おサイフ携帯は便利に使わせてもらっていた。いちいちサイフからカードを引っ張り出さなくてすむのは便利である。それが、例えばSuicaだと、レジなどのあるところまで行って入金しなければならなくなった。これには参った。

また、スマホの料金もずいぶん安くなった。10年くらい前には多くの人がスマホを使うようになっていたが、料金を聞くと「月7000円くらい」と答える人が多かった。大嫌いな電話に、何が悲しくて月々7000円も払わなくてはならないのかと思うと、その気になれなかった。

しかし、最近は随分安くなった。今月手に入れた私のスマホは「AQUOS sense4」という製品で、本体価格1万3000円ほどである。月々の使用料は1500円くらいで、それにiPad用の追加SIMをつけても総額月2000円未満で済む。ありがたい。もちろんおサイフ携帯も自由自在である。

スマホを持つのは遅れたが、情弱だったわけではない。持ち歩いていたのは、ガラケーとiPad miniだった。このiPad miniが私のセカンドコンピュータであり、便利この上ない。

横幅がスマホの2倍近くもある。このせいで、通常のパソコンに近い画面表示ができる。そのことがiPad miniを手放せない理由である。私はデスクトップでは27インチのディスプレイを使っていて、その広さは快適である。だからiPad miniの画面は小さくて不自由なのだが、それでも、昔使っていたデスクトップ機と同程度の広さがある。何とか我慢できる。

それがスマホになると、違和感のあるスマホ用の画面表示になる。私のブログに寄せられるコメントに、これまで2回か3回か、「長文」という指摘があった。それで非難されることはないものの、どちらかというとネガディブな書き方だった。

私のブログは長いと4000文字を越える。短くても2500文字は越えていることがほとんどである。ただ、自分で書いていることもあって、長い短いは余り気にならずにいた。そもそも、4000文字程度なら長いとはいわないだろう。それがスマホの画面で見てみると確かに長い。読むのが嫌になる。延々と続いているような感じを受ける。

ひとえにスマホの画面の狭さの問題であり、一見すると本質的な問題ではないような気がするが、実はかなり大きな影響をもたらしている。小さい画面では、文章の意味を汲み取るのに難しさを感じるのである。

文章というのは、読む前に視覚に訴えてくる。まずパッと見ることによって、かなり情報が入ってくる。どんな漢字があるかだけでも、相当の情報量である。広い画面だと、その他にも漢字とひらがなの割合、一文の長さ、段落の長さ、言葉遣いの硬さなどが一瞬で目に入ってくる。

そのような全体の雰囲気というものが文章を読む上では大切であり、スマホの狭い画面でスクロールしていくのでは、この先どこにたどり着くのかよく分からないといった不安が生じてしまう。つまり、私のブログはスマホで読んでいる人にはかなりつらいところがありそうだ。長文であると文句を言いたくなるのも不思議ではない。

しかし、このことは考えてみれば日本人、いや世界中の人たちの白痴化に影響しているかもしれないと思う。スマホの画面でちょうど良い長さとなると、そう、ツイッターの140字が頃合いだと思える。たくさんの人がなぜツイッターをするのか理解できなかったが、原因はスマホの画面の制約にあるのではないかと思う。

ツイッターがなぜ白痴化につながるかというと、人と人のコミュニケーションを140字で区切るのは合理的、効率的ではないからである。自分の考えを分かるように説明しようと思ったら、どう考えても140字では字数が少ない。140字で送って140字で返事を貰うのでは、まるで「ヤギさん郵便」である。お互いに何を言っているか理解できない。つい、「うっせーバカヤロウ」などと書いてしまい問題になる。

ツイッターといえばトランプ元大統領である。言論の自由がなくなりつつある現在において、私はトランプ大統領の率直に本音を出す姿勢が好きである。差別的な発言にしても、口に出してもらわないことにはそういうものがあると気付かない。そのせいで、直接具体的な被害が生じるのでない限り、差別的な発言に対して私は許容的である。「イエローモンキー」と言われてはじめて理解できることがある。口に出してもらわないことには分からない。

話が逸れたが、トランプ大統領はああいう人であり、人の話は聞かない。自分の話もきちんとは説明しない。言いたいことだけ、したいことだけを短く言って、反論を聞かずに終わらせたがる。そういう人にピッタリなのがツイッターである。

そのツイッターをする人が随分多いということは、世の中から理由が消えつつあるということかと思う。言いたいことはある、したいこともある、しかし聞きたいことはない、させられるのも嫌だ、あとは知らん、というのがツイッターの世界である。お互いに言いっぱなしで説明しようとしない。いや、画面の制約上できない。炎上するのも無理はない。

つまり、ツイッターではコミュニケーションが相当乱暴になってしまい、意見の合意を図ることが不可能なのである。ということは、意見が合意しないことを前提に人々が話し、行動することになる。人々が意見の合意を期待しないとなれば、「ええい、とにかくやってしまえ」ということになる。最近の世界が殺伐とした雰囲気になってきたのも当然かもしれない。

だからといって、スマホを廃止せよというのではない。スマホが広がったのには広がっただけの理由がある。

(※長くなってしまったので、次回に続けます。)