私は戦争を知らない世代だが、それでも私が生まれた頃の大人はみんな現実の戦争を知っていた。そして敗戦になったとはいえ、戦争に勝つことは国の最大の目標であるという意識は人々の脳裏から消えていなかった。それは国民一人ひとりに、戦争を勝利に導けるような能力が期待されていたということである。
私の伯父の1人が、甲種合格になれなかったことを大層悔しがったという話を子供の頃聞いたことがある。そして、戦後生まれの私なども、基本的には戦争に貢献できる男が優秀であるという価値観の下で教育されたように思う。勉強であれ運動であれ、優秀であることが求められたが、そこには、富国強兵の礎になれという意味合いが含まれていた。
戦争における主役は男であって、女はその補助でしかない。下手をすると足手まといですらある。そして、戦争の役に立たない女には、現在とは違って優秀さが求められなかった。国民全員がそう感じていたから、男は偉かったはずである。私なども、戦争に引っ張られるとなれば、女房の横っ面の2つや3つ、いつでも張り飛ばせただろう。
このような世界は、自分や身近な者に危害が及んでこない限りは、分かりやすく、気持ちの良い一面を持っている。強ければ強いほど良い、優秀であれば優秀であるほど良い、大日本帝国が世界を制覇するまで戦おう、戦死者は英雄である、などの明快さがあった。目標がはっきりしており、価値観に振れがなく、国民が一丸となって取り組むことができた。
そんな世界をすっかり変えてしまったのは、やはり核兵器であろうと思う。人間はすごいものを発明したものだ。強国を目指すからには、強い武器が必要になる。石器から始まって、青銅器の威力、鉄器の威力、火薬の威力、飛行機の威力など、強力な武器が世界史を形作ってきた。そして、最後に登場したのが核兵器である。
核兵器は、石器などの原始的な武器からの進化という意味では、正常な発達の結果である。しかし、余りにも強力になりすぎたために武器としての性質を失い、世界を混沌に陥れてしまった。核兵器のせいで戦争が成立しなくなったのである。人間は、広島と長崎で核兵器を使用した結果を見て固まってしまい、身動きがとれなくなった。
当然のことながら、戦争は本気でするものである。殺し合いであるのだから、お互い必死になる。また、勝ち負けの結果は、国の繁栄に直接つながる。負けるとどれだけひどい目に遭うかは、大東亜戦争後の日本を見ればよく分かる。
しかし、核兵器ができて以降、人間は本気で戦争をすることができなくなってしまった。本気を出すとなれば、当然核兵器を用いることになる。しかし、相手にも核兵器がある。核兵器をお互いに使えば、お互いの破滅である。つまり、核兵器のせいで誰も戦争に勝つことができなくなり、ゆえに核兵器は使えないとの結論になる。
敵国同士が核ミサイルを飛ばし合い、北京で、モスクワで、東京で、ニューヨークで、ワシントンで、ロンドンで、パリで核爆発が起きるとどうなるか。戦争どころの騒ぎではなくなる。
お互いに自分の持っている一番強力な武器を使うことができないのであれば、仮に戦争らしきものをして殺し合ったところで、それは奥の手を隠した「シミュレーション」「模擬戦争」にすぎない。もっと簡単にいえば「戦争ごっこ」であり、「ままごと」である。それでは戦争をする意味がなく、また、してみたところで勝ち負けが判然とせず、戦争をしたという気持ちになれない。
そのことが世界中に浸透し、理解されるようになってからというもの、武力を用いた本格的な戦争は地球上からなくなった。そこで大変興味深いことが生じた。戦争はなくなったが、では、地球上は平和な世界になったかというと、そうはならなかったのである。
考えてみれば当然のことで、人は武器があるから争うのではない。争いたいから武器を造るのである。いくら武器が使えなくなったところで、武器を造る動機となった争いたいという気持ちは残る。ゆえに、世界から全ての武器が消滅したところで、人間の争いは続くのである。この世界はユートピアではない。
人や物を物理的に破壊することで行う戦争は、対テロ戦争が終わったことで完全に下火になったと思われる。ウサマ・ビンラディンが殺害されたのが2011年であり、その頃からだろう。世界は軍事的に、人や物を破壊する方法で戦う相手を失った。
では、軍事的に戦わないとすれば、戦いのテーマは何になるのか。それが経済となるのは自然な流れであるように思う。経済戦争である。経済戦争というと分かりにくいが、簡単にいえば、自分の国が金持ちになって、相手の国が貧乏になれば勝ちである。
考えてみれば、1991年にソ連崩壊という形で終わった米ソ冷戦は、経済戦争という意味合いが強かったように思う。米ソ冷戦は「冷戦」という名のとおり、核兵器の効果によって、両国の直接的な武力衝突は生じなかった。
しかし、それ以外のあらゆるところで米ソが争った。宇宙開発やオリンピックの金メダルの数も争いの対象だった。しかし、最終的に勝負を決めたのは経済だった。食いたいものが食えるか、遊びたいように遊べるか、欲しい物が買えるか、着たいものが着れるか、住みたい家に住めるかという経済的な競争であり、ソ連は完璧に敗れた。経済戦争は一国の命運を左右するほどの影響を与えるという意味で、武力を用いた戦争に引けを取らないところがある。
さて、殺し合いによる戦争をしなくなった分、世界は住みやすくなったかというと、そうとは言い切れないのが残念なところである。物理的に破壊し合う軍事的な戦争であれば、勝ち負けがはっきりし、短時間で決着がつき、戦いに勝つためにどのようにすればいいかも比較的明確である。
ところが、経済戦争となると話はそう単純には済まない。経済戦争は自分の国は儲かる一方で、相手の国には損をさせるべく戦うことであり、いかにして人を騙し、気付かせないようにして金を巻き上げるかという、権謀術数の勝負となる。
省エネ、省資源、地球温暖化、環境保護などはいずれも経済戦争のための道具である。清く正しく美しいかのようなことを言いながら、相手の国を弱らせるための方便である。その証拠に、世界の覇権を争っているアメリカや中国は、そのような話に乗ってこない。当然である。
中国という国は、武士道や騎士道という価値観から見ると、軽蔑に値する国である。はっきりいって弱虫で卑怯者である。しかし、嘘に関してはお手のもので、骨の髄まで嘘が染み込んでいるのが中国人と思われるくらいである。さすが朝鮮人の親分と言いたくなる。
そんな中国が世界でグングンのし上がり、今やすっかり大国風を吹かしているのは、単に国土の広さや人口の多さのためではない。経済戦争に勝ち抜くためには、嘘を言って相手を騙すことが必要であるが、中国人は根っからの嘘つきであり、それが得意中の得意なのである。また、中国には華僑という存在もある。かつて日本人はエコノミックアニマルと呼ばれたが、華僑に比べたら児戯に等しい。その歴史においても、したたかさにおいても敵ではない。
そんな中国や華僑に対立するのは、ユダヤ人である。華僑に唯一負けない存在といえばユダヤ人である。現在の中国とアメリカとの対立は、華僑対ユダヤ人の対立と思ってもいいのではないかと思う。自分に直接的な影響が及んでこない限り、これは大変に面白い見物である。お互い、どんな手口を使うのだろうか、どちらが強いのだろうか。東洋の狡さと西洋の狡さの全面対決である。
そのような世界情勢の中で、日本はただただ食い物にされる存在である。日本の財務省のやっている政策といえば、「武士の商法」であり、そのせいで日本はもう30年も、先進国の中で唯一経済発展のできない国として取り残されている。東大の法学部というのはダメなものである。日本はこの先も浮かび上がれないかもしれない。
新型コロナウイルス騒動にしても、日本は何の被害も生じなかったのだから、国力を蓄える絶好のチャンスであったのだが、なぜか国中に嘘が蔓延してそのチャンスを失った。さらに、新型コロナウイルス騒動を通して分かったことは、日本人を騙すのは赤子の手を捻るようなものだったことである。
しかも、安倍前総理大臣を筆頭する政治家、厚生労働省を中心とする官僚、医師会や医学者や医者、マスコミなどの、国の中枢や大きな影響力を持っている組織でさえ多くがだまされてしまった。うぶなネンネじゃあるまいし、と思う。しかし、日本人は上から下までほぼ全滅だった。
私はこれまでの人生経験上こんなことがいえるように思っている。「人をだます人間は、自分もだまされやすい。」と。この理由はよく分からないのだが、実際問題としてそのようなケースに何回か遭遇した。自分が人をだましているからといって、自分はだまされないということはないのである。
この先、経済戦争が激化していくにつれて、現在以上にもっともらしい嘘が飛び交うようになる。それに対して日本人が、今回の新型コロナウイルス騒動のように簡単に騙されているようでは、日本の、あるいは日本人の将来は暗い。世界中がだまし合いの様相を呈してきている中、襟を正してもう少し賢く、物事の本質を見ようとする気持ちにはなれないものだろうか・・・。