以前「渡る世間は鬼ばかり」という連続テレビドラマがあった。また今年も、9月に3時間スペシャル版が放送されたようだ。古くから言われていることわざは「渡る世間に鬼はなし」であり、ドラマの題名はそれをもじったものだろう。一方、「渡る世間に鬼はなし」に対して全く相反することわざがある。それは「人を見たら泥棒と思え」である。

世の中には矛盾することわざがいろいろある。例えば、「義を見てせざるは勇無きなり」と「君子危うきに近寄らず」、「当たって砕けろ」と「石橋を叩いて渡る」、「三度目の正直」と「二度あることは三度ある」、「善は急げ」と「急いては事を仕損じる」などである。

以上の例は、いずれも、場面や状況によってどちらのことわざを採用するかが変わると考えられる。君子は通常危うきに近寄らないものだが、どうしても必要だと思われるときは勇気をふりしぼるべきである、通常は慎重に行動するのが良いが、何かを成し遂げたいときは思い切ってぶつかれ、失敗は繰り返されやすいが、それにめげずに頑張ることも大切、早い方がいいが、行動は十分慎重になどと解釈することができる。

しかし、「渡る世間に鬼はなし」と「人を見たら泥棒と思え」というのはそのような理解がしにくい。なぜなら、どちらも場面や状況に関わらずそうであるというニュアンスを含んているからである。「どんな場面でも、どんな状況でも世間に鬼はいないよ」に対し、「どんな場面でもどんな状況でも人は泥棒と思った方がいいよ」という意味合いがあり、二つのことわざが共存しにくい。

ここで視点を変えて、「渡る世間に鬼はなし」と言うAさんと、「人を見たら泥棒と思え」と言うBさんを想像してみる。「渡る世間に鬼はなし」と言うAさんはきっとお人好しだろう。世話好きで面倒見がよく、明るく開放的で、楽天的な感じを受ける人に違いない。一方、「人を見たら泥棒と思え」というBさんはどうだろうか。疑い深く、慎重だが心を開かず、無口で笑うことの少ない、ちょっと偏屈な人が想像される。

そうやって考えていくと、「渡る世間に鬼はなし」と「人を見たら泥棒と思え」というのは、対象となる世間や人の問題ではなく、それを受け止める個人の差ではないかと思い付く。どうも人というものは、他人でも物でも余りよく知らないものを見るときに、きっと自分と似ているに違いないと思い込むようなのだ。

つまり、Aさんのようにお人好しの人は、他人を見てもいい人に違いないと思い、だから「渡る世間に鬼はなし」という言葉が生まれる。一方、Bさんのような腹黒い人は他人を見ても何か悪いことをするのではないかと疑うことになり、「人を見たら泥棒と思え」ということわざになる。この矛盾する二つのことわざは、相手や場面の違いではなく、そのことわざを言う人の違いなのだ。

ところで、そのように考えていくと一つ問題が生じるように思う。例えば、お人好しの人は他人のことも良い人であると受け止め、正直な人は他人も正直であると思うなら、お人好しで正直な人は他人から騙されっぱなしになるのではないかということである。

実は私自身、お人好しではないがかなり正直な方である。嘘を付きたくないという気持ちの外に、できるだけ本当のことを言いたいという気持ちが強い。そのため、相手が嘘を付くかもしれないということはほとんど考えないで人と接してしまう。

ではいつも騙されているかというとそうでもない。その理由の一つは、人生経験を積むに従って段々本当のことと嘘との区別がつくようになるためである。時には痛い思いをしながらも少しずつ分かってくる。頭での理解なので、瞬時に対応できないようなところもあるが、何かあったときふと我に返って「考えてみればおかしい」と気がつく。

もう一つの理由は、自分が正直な生き方をしていると、付き合う相手も自然と正直な人になるということがある。嘘を付く人を前にすると、自分とは違う異物感のようなものを感じて付き合いが深まらない。そのため、交友関係で嘘をつかれたことはほとんどないし、嘘をつかれた場合は付き合いを切る。

一方、自分が嘘を付く人は、相手のことも嘘つきだと疑いやすいので騙されないような気がするが、それがそうでもないのが面白い。嘘つきの人が親近感を感じるのは、やはり自分同様嘘つきの人であることが多く、そうすると、自分よりも上手の嘘つきと出会ってしまうと、嘘を見破れずに騙されてしまうことになる。以前、私から見てこの人は嘘つきだと思う人が、「私は騙されやすい」と言うのを聞いて驚いたことがある。きっとその人は少し頭の弱い嘘つきだったに違いない。

結果的には、正直者として生き、また相手を正直だとみなして付き合える人間のほうが、騙されることが少ないということになりそうである。「正直者は馬鹿を見る」というのは嘘つきの人の言葉であり、私から言わせると
「正直は一生の宝」「嘘つきは泥棒の始まり」なのである。

ただしこれは、日本国内のみで通用する考え方かもしれない。日本という国は世界でもまれに見る正直者の国であるらしい。韓国人は息を吐くように嘘を付くというが、世界的に見るとその方がノーマルであるという話も聞く。

周りが嘘つきばかりで自分しか正直でない場合は、正直者は馬鹿を見ることになりそうである。そのような場では、いかにうまく嘘をつくかが勝負の分かれ目になるだろう。私個人としては、相手の言葉を余り疑う必要のない世界で、静かに穏やかに余生を送りたいと思ってしまうが。