世の中のものには全てといっていいほど「縄張り」が設定されている。国から始まって、都道府県市町村、領海、領空、猟場、漁場、農地、山林などは分かりやすい。利益を産む場所とでも考えたらいいだろうか。ヤクザの島などもそこから利益を生じる縄張りである。場所に限らず、利益を生むものには必ず縄張りが設定される。例えば利権や許認可権というものも縄張りの一種であり、それによって特定の者が利益を得られるようになっている。そういう意味では、各省庁、各種圧力団体、政治の派閥なども縄張りといっていい。さらには、各種資格や免許、就職なども縄張りを確保するためのものである。あるいは入札によって新規事業に参入ということや東証一部上場などというのも縄張りである。

縄張りには「縄張り争い」が付き物である。お互いに自分の縄張りを拡張しようとして、また守ろうとしてしのぎを削る。ヤクザの島をめぐっての抗争が一番分かりやすいだろうか。死人が出るほどの激しさである。いや、もっと分かりやすいものが戦争である。何百万人という死者を出すほどの苛烈な縄張り争いである。

 

このような、武力、腕力を用いて、生命や身体的な被害を生じるような戦いは、いかにも縄張り争いという言葉が当てはまるが、実は競争と呼ばれるようなものは全て縄張り争いの性質を含んでいると考えていい。入学試験、入社試験、資格試験、スポーツ競技、選挙、出世競争など、いずれもその結果によって利益を得る者が生まれる一方で、排除される者も生じる縄張り争いである。

「縄張り」という言葉からはあまりいい印象を受けないように感じるが、それは争いをもたらす以外にも、不合理な面、あるいは非人間的な面を含むからである。例えば、北朝鮮で餓死したり虐殺されたりする人が出ても、日本の縄張りの外であるから日本としてできることはほとんどなく放置である。また、例えば、自動車は運転免許(縄張り)を持っている限り、運転がいかに下手であろうと死ぬまで運転することができるが、F1ドライバー並みの高い運転技量を持っていても、無免許で運転すると違法になる不合理さがある。

縄張りは、排他的な性質を持っており、簡単には縄張りの中に入れてもらえず、利益を分け与えられることもない。また、縄張りの外のことについては直接的な利害関係が生じない限り無関心である。半面、自分と同じ縄張りにいる人間に対しては実に親切であり、利益を共有し、心地良い、持ちつ持たれつの関係を形成しようとする。

そんな縄張りなどなくしてしまえばいいのではないかという考え方もある。国など必要ない、世界が一つの国になればよいなどという突拍子もないことを始め、派閥政治はやめよう、派閥を解消しようなどと、できもしないことを言い出す者もいる。要するに、縄張りを捨ててみんなでニコニコ平和に暮らそうとする、ユートピアを夢見る中学2年生的発想である。

しかし、縄張りというものは人間に備わった本能のようなものであり、どう転んでもなくすことはできない。共産主義が成立しなかった一番の理由は土地の私有を認めないからで、それは、縄張りという人間の本性に逆らうものだからである。人間の本性に逆らっては、たとえお釈迦様でもダメである。

 

もう少し合理的な理屈から説明すると、人間の目の届く範囲には限りがある。幼児であれば、一対一の付きっきりでなくてはならないときがある。小中学生になれば随分手間が省けるようになるが、それでも多くの時間は大人の指導監督が必要である。大人になれば完全に自立できるかというと、そのようなことは期待できず、集団を組むことによって補い合う必要がある。その場合、千人単位の大企業であっても、お互いに血の通った配慮をできる範囲は「課」内くらいのものだろう。

人間が生活していく上では、そのように小さな単位を作って、きめ細かく心を通い合わせることが必要であり、そのためにはある程度の権限や責任を持たせる必要も生じてくる。それが縄張りである。

 

一番身近な縄張りは家庭である。私は自分の子が中学生くらいまでは毎年夏場にキャンプに出かけていた。静かな大自然の中でテントを張り、妻子と一緒に食事を作って食べるひと時。そのときに、強烈な縄張り感を感じた。自分が守り育てるべきものだという使命感というのか、意欲というのか、誇りというのか、本懐というのか、そのようなものを感じた。

 

縄張りは男の活力と勇気の源である。縄張りを得るために、縄張りを広げるために、そして縄張りを守るために男は必死になって頑張る。縄張りという目標のない男は単なる木偶の坊である。腑抜けである。いくら弊害があるにしても、縄張りから生じる努力はそれを打ち消す。

ところで、女性という存在があり、男同士がしのぎを削って縄張り争いをしているところに忽然と姿を現す。そして何となくスルリと縄張りの中に入り込み、縄張りから生じる利益を自分のものにして生活を始める。まるでカッコウの托卵である。エイリアン降臨である。女性の魔力のために、男は利用されているという認識すら持てない。

 

しかし、女性の敵は女性である。自分が利用し、貢献、管理している縄張りに他の女性が侵入してくると烈火のごとく怒り、争いを開始する。例えば不倫による関係者入り乱れてのトラブルである。あるいはまた、嫁姑の確執である。男の場合、通常敵となるのは自分の縄張りの外にいる自分から遠く離れた男であるが、女性の敵は同じ縄張りにいるか、あるいは出入りするような、近くにいる女性である。それが女性にとっての縄張り争いである。

それにしても、こうやって考えていくと人間は老いも若きも、男も女も、個人でも集団でも国同士でも、絶え間なく争いを続けている動物であることが分かる。その事実を客観的に見れば、人類は争いが大好きな、好戦的動物であると定義してもいいように思う。本当に争いが嫌いなら争わないはずだが、実際には四六時中争っている現実を否定できない。

 

国同士の争いから個人の争いまで、人間に縄張り争いをやめさせる方法は存在しない。であるならば考えるべきことは、どのような争い方がより被害が少ないか、どのようにしたら縄張り争いの弊害を小さくできるかということである。無闇に世界平和を唱えたところで、あるいは争いのないユートピアを待ち望んだところで、それは甘い夢でしかないと思うが、いかがだろうか。
 
もっとも、甘い夢に浸っているのはとっても心地よいことであり、個人的には四六時中甘い夢に溺れていたいとは思っている。私の甘い夢はもちろん酒池肉林である。いやー、いい年して恥ずかしいね。少しは悟りを開きたいとか思わないのかね、と自分に問いたい。