― 模諜枢教 ―

 

 ミニョの首を掴んだままでテギョンは首を傾けた。

 握っているのは砂ではなく空気のはずだが、手にはしっかりとした存在感がある。

 しかもそれは逃げようとしてか手の中で動き、テギョンの腕を叩くように打ってくる。

 テギョンはこのまま握るこの手に力を加えれば、手の中で暴れるものが落ち着くだろうかと考えて首を傾けたのだ。

 テギョンにはそのようにしか見えない世界だったが、そこにいる他の者たち全員がミニョの命の危険を感じている。

 ミニョの命を盾に取られて、ドンジュンはしばし躊躇したが、ミニョの抵抗を見るとテギョンを取り押さえようと突進する。

 だがその身体はテギョンに触れる事も出来ずにに薙ぎ払われた。

 雨のように降りかかる火の粉を水功で防いだが、それより前には進めず、後退するよりない。

 それどころか消しきれなかった火の粉が風に散って、模諜枢教の庭に火を落ちた。

 瓦や石には火は点かないが草や樹木は火種となる。

 戦闘態勢をとっていた教徒たちは兎にも角にも消火が先だ。

 テギョンを囲む者が減る中、今度はジェルミが前に出ようとしたがファランによって引き留められた。

 

 「火功に対抗するのに雷功では無理よ。

 それにコ・ミニョとつながっているわ、あの子は最後の切り札よ。」

 

 そう言われてジェルミはグッと拳を握り締める。

 雷功がテギョンに当たればミニョの身体にも雷電が走ることになり、避けてテギョンが離れてもやはりミニョが雷電を浴びる事になるだろうからだ。

 

 「だけどミニョが・・・・・・」

 

 苦しそうなミニョにジェルミが切迫した声を上げる。

 

 「火功には水功、何とかあの手から引き離さないと。」

 

 殺すつもりならこれほどの時はかけない、あれは掴んでいるだけだとファランは冷静だが、ジェルミは冷静ではいられない。

 その間もテギョンの空いたもう片方の手は、次々と火の粉を作り出しては撒き散らしている。

 すべての教徒が火消しに追われる中、新しい火が熾り中には大きくなろうとする火もある。

 テギョンを取り巻く空気は不穏な色を帯びている。

 見えていない蝋燭にも火を点けられた、火の粉なんてあやふやなものではなく模諜枢教を火の海にできるだけの大火を起こすことも可能だと思えるほどの不穏さだ。

 テギョンの姿はか弱い女をひねり上げる凶悪で醜い男ではなく、おどろおどろしくありながら、艶めかしい危ない美しさを放っているのだ。

 もしこの世に人に取り入り魅了する魔物がいるとすれば、このように美しい姿をしているのではないかと思うほどだ。

 フニはただただ正気に戻ってくれと膝を折って祈り、シヌとドンジュンは、息を吸い上げる力で折ってしまえるミニョの首に視線を集中させている。

 ミニョを助けたい思いは同じだが、ジェルミはテギョンを倒す事の方に集中し、ジフンはこの展開に戸惑っていた。

 指さしたのはミニョではなく、あの女なのにと怒りの混じった落胆だ。

 ただ一人、ヘイだけがそのままミニョを絞め殺せと願っていた。

 とはいえ、それがもたらす結果は分からない。

 神であってもすべてを見通すことはできないからだ。

 だから後押しすることもできず、見ているだけしかできない事を悔しく思ってもいた。

 

 「どうしちゃったの・・・・・・」

 

 ミニョは声にならない声を絞り出した。

 離してと叩いていたミニョの手は、今は力なくテギョンの腕を掴んでいる。

 焦点を持たないテギョンの瞳が戻ってきてミニョに向けられたが、視線は交差しないだけでなく、虚ろな瞳に涙が零れる。

 死が自分の運命なら受け入れる、なのに何故こんなことになったのか、なにを間違ったのか、もっと早くに命を落とせばよかったのか、そうすればテギョンをこんな風に追い詰める事にならなかったのだろうか。

 ミニョはこの後のテギョンを思うとたまらなく苦しかった。

 

 「ごめんなさい。」

 

 口を突いて出る謝罪の言葉は、テギョンを苦しめてしまう自分という存在に対してだ。

 救えなかったことで苦しめ、命を奪う苦しみまで背負わせる。 涙は後から後からとめどなく流れ落ち、ミニョの首を掴んでいるテギョンの手を濡らしていく。

 だがテギョンの世界で落ちてきたその雫は、テギョンの手を濡らしただけでなく乾いた砂に降り注がれた染み渡る水となったのだ。

 

 僅かな雫は砂地を潤すほどではなかったが、テギョンの手を緩ませた。

 砂に染み込んだ水に胸苦しさを覚え、首から離した手で胸をわし掴むとそのまま膝を折って苦しそうな唸り声をあげた。

 ヒューと勢いよく息を吸い込んだ事でむせて咳をしていたミニョは、その苦しみをもたらした張本人に近づくと、同じように膝を折り、その背にそっと手をまわした。

 テギョンが何について苦しんでいるのかは分からなかったが、その原因が自分なのは分かっていて少しでも慰めたかったのだ。

 背に回した手で優しくテギョンの背を撫でる。

 すると不思議そうに顔を上げたが、嫌がるようなことはなかった。

 ただ癒されもしないと言うように立ち上がり、ファランの方へと突進していく。

 とっさにジェルミがテギョンの前を立ちふさぎ、手を天に突き上げた。

 

 (雷功!)

 

 ジェルミと同じようにテギョンを止めようとして回り込んでいたミニョは、ジェルミの様子に今度はテギョンを守ろうとして向き直るとジェルミと対した。

 

 「ミニョ。」

 

 怒りとも悲しみとも取れる声がジェルミから漏れた。

 

 「待って・・・・・・

 ・・・・・・やめて・・・・・・」

 

 そうじゃないとわずかに首を振りながら、ミニョは声を絞り出す。

 

 「やめるのはそっちだろ。」

 

 ジェルミの怒号、それにテギョンが反応する。

 立ちふさいでいる見えないものを押しのけて、前に進もうとするものだから、ミニョは思わず抱きしめていた。

 戸惑うように振り返ったテギョン、その視線の交わらない顔を覗き込む。

 見えないものを見ようとしている顔、ミニョからはそう見えるテギョンの顔に顔を近づけて、ミニョはテギョンの唇に口づけた。

 突然のこの行為に周りが驚く中、テギョンの見えない目が見開いた。

 ミニョのいる世界では、ただ唇が重なったにすぎない事がテギョンのいる世界では音を立てて砂が舞っているのだ。

 唇には塞がれた感触があり、その周りで風もないのに舞い上がる砂はまるで竜巻のようでもあり、砂の壁のようでもあって、小さな砂がぶつかり合って音を立てているのだ。

 テギョンは落ちてくるその砂の中で、砂にのまれるようにして、意識を失った。

 

 寝台の上で眠るテギョンを見ながら、ミニョは不安に押し潰されそうな顔をしていた。

 ここに運ぶことをジェルミが拒み、揉めに揉めたのだ。

 ミニョはハァと短く息を吐いた。

 ジェルミの気持ちが分からないわけではないが、あれほど反対するとは思いもしなかった。

 テギョンの寝顔を見ながら考える。

 だが気になっているのはジェルミの事だけではない、一番はテギョンに何が起こっているのかだ。

 

 (眠っているときの顔はいつもと同じ・・・・・・

 何も変わらない・・・・・・)

 

 そう思う脳裏には、再会した時のテギョンの姿がこびりついている。

 もとより爽やかな空気を纏っていたわけではないが、別れた時でさえあのような姿ではなかった。

 

 (あの姿はどこからどう見たって悪霊憑きに見える。)

 

 そう思いながらもそれを否定するのは、悪霊が口づけくらいで消え去るかしらと思えてしまう。

 だとしたらもっと違うところにテギョンの心が行ってしまっているという事になる。

 その考えが不安と心配を呼び寄せた。

 ミニョが指の先が冷たくなるほど握りしめた手に二度目のため息を落とした時、「モ教主が呼んでいるわ。」と、ヘイが声をかけてきた。

 

 「テギョンさんを見ていることなら私にもできるわ。」

 

 だけどって顔のミニョにヘイは続ける。

 

 「言ったでしょう、私たちは神だからあなたなんかよりも分かり合えるのよ。」

 「だったら、今のテギョンさんの、その、この状況を説明できるの・・・・・・ですか。」

 

 それが分かると言うなら、ヘイにテギョンを託すことはもっともだと思う。

 だがヘイの顔はわずかに強張った。

 神であってもテギョンの心理も状態も、すべてが分かるわけではない。

 庭でテギョンを見た時には、止められないと思ったし、そのまま手を下せばいいと思いもした。

 ミニョだけではない、ミニョに続いてファランをも抹殺すれば、ヘイが結んだ契約をやり遂げたことになる。

 

 (だけどそれをミニョが止めた・・・・・・)

 

 ヘイがミニョを見て考える。

 

 「・・・・・・どうしてあんな事を?」

 「あんな事?」

 「口づけよ。」

 

 ヘイはわずかだが苛立った声で言った。

 ミニョはすぐには答えられなかった。 考えた上での行動ではなかったからだ。

 

 「あれは・・・・・・別れる前のテギョンさんが、子供のようだったり男の人のようでもあったから。

 きっと悪霊のせいだと思っていて・・・・・・

 それに、見えてはいなかったようだけど、私の指は感じているみたいだったし、私の首を掴めた事も驚いているみたいだったから・・・・・・

 もしかしたら、もの凄く驚かせたら止まるかもと思って、それで・・・・・・」

 

 驚かせるのにあれしか思い浮かばなかったとミニョは恥じらいつつも肩を落とした。

 止める事は出来たけれど気を失わせてしまったからだ。

 だけど考えればテギョンが寝ている間にファランと話しておくべきだ。 ミニョはスクっと立ち上がった。

 ヘイにテギョンを頼むことに不安はない。

 

 「あっ もし・・・・・・」

 

 テギョンが目を覚まして危ないと思ったら呼んでほしいと言おうとして、ミニョは何でもないと首を振ると、そのまま部屋を出ていく。

 部屋の外には教徒が二人、ミニョを待っていた。

 案内されて行った先にはファランとジェルミだけじゃない、シヌたちもいてフニもいる。

 

 「どうして? テギョンさんのそばについていないの?」

 

 ミニョはそっとフニに耳打ちして訊いた。

 

 「そ 宗主があの状態です。

 縹炎のためにも私が代わって話を詰めなければいけませんから。」

 

 そう答えたフニはどこかばつが悪そうな顔だ。

 怖いと思って当然だと、ミニョはそれ以上何も言わなかった。

 

 「見ただろう、除霊が必要だ。」

 

 ジェルミが冷静であろうとする声で言う。

 

 「でも、まだ誰にも害は加えてない。」

 「ミニョの首を絞めた。 それに西京の賭場でも暴れている。」

 「あれは・・・・・・」

 「あれは理由がある。」

 

 ミニョに代わってシヌが答える。

 

 「ミニョの乗った馬車を追いかけた。 ジェルミも追われたから嘘でないのは分かってるはずだ。

 確認に乗り込んだ私たちの前で思いもしない事が行われた。

 命が賭場の賭けの対象になっていた。 これは違法だ。 

 取り押さえるのにひと暴れはしたが、テギョンは命は奪ってない。

 つまり、悪霊なら抑制はしない。」

 

 静かに佇むシヌは、その姿勢と同じで静かに答える。

 

 「ジェルミ、テギョンさんを・・・・・・消し去りたいの。」

 

 蚊が鳴くほどの小さな声でミニョは訊いた。

 

 「・・・・・・どうして?」

 

 答える前にジェルミはミニョを見つめる。

 

 「・・・・・・ミニョが、ここに居てくれる。」

 

 それを聞いてミニョは小さく息を吐いて目を閉じる。

 

 「前の僕とは違う、もうここにミニョを閉じ込める事なんかしない。

 僕が模諜枢教を、模諜の都を管理して、自由に歩けるようにする。」

 

 ジェルミの誓いにミニョは閉じていた目を開いた。

 

 「ジェルミ・・・・・・でも私は、・・・・・・ジェルミを愛していない。」

 

 ミニョは悲しそうにそう告げる。

 前に話した時にこれで決着がついたと思っていたし、何度も言いたいことではない。

 

 「知ってる、あいつを好きだって言った。

 僕も祝福しようと思った。 だけど、だけどミニョ、どこをどう見たっておかしいだろう。

 あんな男に託せない、ミニョが分からなくなるような男だ。」

 「誰が分からなくなったって。」

 

 突然戸が開いて、片側の口角を上げたテギョンがそう言った。

 

 

 

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テギョンの見ている世界とミニョのいる世界。

神の世界と人間界とも言えるし、

テギョンの心の内側でもある。

 

この悪霊憑きともとれる魔に堕ちたテギョンは、

書きたかったテギョンでもあるのだけど、

一番はここから目覚めたテギョンをどう書くか。

今はそれが楽しみですニコニコ

 

この話を書き出す前に、

イメージを強くしたくて動物に例えてみたのですが、

ジェルミは犬、それもまだ子犬に近い犬で、

シヌは馬、毛並みの美しいりりしい馬です。

そしてテギョンはふて猫です。(このフテが大事)

ベンガルのような野生ネコで孤高に美しく、

狩りをする以外は寝ている、

縹炎のような辺境ならそれでいいけど、

都会では・・・・・・とイメージを膨らませました。

 

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