風に揺蕩う薄絹の如く、白く煙った霞が漂う早朝。

 それは、そんな春霞を引き裂く声で始まった。

 瞬く間に出来上がった人だかりだが、誰もが一定の距離から近づこうとしなかったのは、それがあまりにも惨い死骸であったためだ。

 

 早朝の市街、本道から川へと向かう脇道で、風にそよぐ柳の葉がさわさわと爽やかな音を立てている。

 その木の根に、後ろ向きにもたせかけるように置かれたそれは、遠巻きに衣が剝ぎ取られたあられもない姿をしているのが分かった。

 そして、まるで酔っぱらいが眠っているようにも見えたのだ。

 だが近づくと、両の乳房はバッサリと切り取られ、身体には無数の傷や痣があるのが、はっきりとしてくる。

 それだけでも十分残虐な死骸なのに、口は耳まで裂かれ、目はくり抜かれ鼻はそぎ落とされている。

 容貌の見分けも付けられないその死骸は、経験豊富な捕吏でさえも、後退ってしまうほど無残な姿をしていた。

 

 恨みからの犯行であることは、誰の目にも明らかだった。  

 ただ死骸が身元不明では、誰の恨みかは知りようがない。

 捜査は行き詰まった。 

 そしてあまりの凄惨性に、事件は義禁府に回される。

 しかし義禁府でも解決の糸口がつかめず、迷宮入りとなるのも必然に見えた。

 その時、死骸に残された首飾りから、身元が判明する。

 ただ、それが始まりになるとは誰も思いもしなかった。

 

 

 

 

 

第一章

― 事件発生前 ―

 

 空は青く、妓生薬物殺人事件が巷を賑わしてはいるが、この世はいたって安寧であり、妓生の死を取り沙汰す者などいなかった。

 妓生や奴婢のような下賤な者の生死など、流れて消える星と同じで、水の泡のようなものだからだ。

 つまり事件を知っていても、自分とは無関係であり、興味もなく噂に値しないのだ。

 そもそも噂が起きるには、それだけの注目度がなければならない。

 かつて、月の天使が都中の注目を一身に集めていたようにだ。

 良くも悪くも、彼は様々な噂を呼んだ人物だった。

 月の天使がこの世を去って、すでに二年が経つが、今でも折に触れて誰かの口の端に上ることがあるほどだ。

 勿論一番囁かれたのは、彼の死が伝えられた時だった。

 もうこの世にいない天使の顔を、誰かが見たと声を上げれば、俺も見たと言う声があちらこちらから上がったのだ。

 その声は巷に溢れ、美しかったと言う者や女のようだったと言う者もいた。

 当時、ただただ美しいだけの姿絵や、逆に貶める事を目的とした姿絵など、様々な月の天使を描いた絵が売られていたが、中でも月と共に描かれた儚い美人絵に、高い値が付けられた。

 彼とも彼女とも取れるその絵は、黒衣の下から鮮やかな色の衣が見え隠れしていて、絵を見た者はその美しさから、月の天使は王族の血を引く美女なんじゃないか、というような突拍子もない噂まで出るほどだった。

 そしてそれらの姿絵は、一世を風靡しただけで今や一枚も残っていない。

 それはその噂に乗るようにして、月の天使が両班ばかりかアン王まで狙ったのは、王家の血筋ゆえだと、まことしやかに囁かれたからだ。

 王族に関わる噂ゆえ、朝廷は即座に鎮静化を図ろうとしたが、力ずくでの噂の否定は、かえって月の天使が王族であると言う事にもなりかねなかった。

 そんな中、捕盗庁に配属されたばかりのファン・テギョンが絵師を捕らえた。

 見た事もない月の天使を描いたことが捏造なら、黒衣の下に煌びやかな衣を描いたことは虚偽だとして、すべては絵を高く売るための策であり、それが王族との噂まで生み出したとしたのだ。

 

 何人もの絵師が、月の天使の噂からその絵姿を描いたが、一人の絵師が詐欺罪で捕らえられた事で、絵に付けられていた月の天使の名が、瞬く間に消し去られるに至ったのだ。

 それが、絵が一枚も残っていない理由だった。

 だが却って人々の記憶には、顔のない月の天使が鮮明な姿となって刻まれてしまった。

 

 一方で、絵師が捕らえられた事で、あれほど人を熱狂させた月の天使の噂は鳴りを潜め、風向きをファン・テギョンに移していった。

 放蕩息子で有名なファン家の一人息子が、手柄を立てたというのが噂の始まりだったが、すぐにその美しさが噂の中心となったのだ。

 月の天使は幻の美しさだったが、ファン・テギョンの美しさは現実だ。

 噂には、人を惹きつけて離さない魅惑というものが必要であり、その魅惑に尾びれや背びれが付くのだ。

 月に舞う美しさに高貴な血筋という組み合わせは、どこか夢物語であり、王宮で殺されたという筋書きも、お伽噺のようで夢中になった者たちも、ファン・テギョンという現実の美しさに、一時的であれ飲み込まれた瞬間だった。

 

 あれから二年、テギョンからは放蕩息子の憂き名は消えたが、テギョンに関する噂も消えていた。

 だが今でも、月の美しい夜には天使の名が囁かれる。

 それは届かない星に手を伸ばすような、淡い夢物語と言えた。

 

 そんなある日、月の天使が現れたと、新たな噂が飛び交った。

 礼曽判書のチェ大監夫人が開いた、庭園の茶会に突然現れた月の天使が、ファン・テギョン夫人を人質にして、その場から逃げ切ったとの噂に、本物か偽物かとの声が上がる。

 それは両班殺しの悪人が、生きている事に対する不満の声ではなかった。

 願わくば、妓生殺しの犯人を成敗してほしいと祈る声であり、この二年の間に増えた神隠し、娘や子供の失踪に対する不安の大きさからとも言えた。

 月の天使の死を天も嘆いている、そんな噂まであったほどだ。

 

 

― 王宮 ―

 

 「今宵は月がきれいだ」

 

 アン王は王宮の庭で、まるで独り言のように呟いた。

 後ろに控えていたテギョンは、片眉を上げて、少し面倒そうにアン王が見上げている月を、目だけを動かして見るには見たが、王に対しては返事一つしなかった。

 早く本題に入って、ミニョの待つ屋敷にさっさと帰りたいというのが本音だったからだ。

 だがさすがにテギョンも、アン王に向かってそれを口にはできないために、おとなしく黙って控えているのだ。

 それを見抜いているのか、どこか恨めしそうな目でアン王はテギョンに振り返った。

 

 「月の天使も復活したのだ。

 この件が片付けば義禁府に移るのは……」

 「お待ちください」

 

 アン王が言い終わるよりも早く、テギョンはアン王を遮った。

 王の言葉を遮ってはならないと、テギョンも十分に分かっているが、こればかりは受け入れられないと、手まで上げて待ったをかける。

 

 「漢城府に配属になった時の騒動をお忘れですか」

 

 そう訊ねたテギョンは、二年前に月の天使から朝廷の官吏となる足掛かりとして、捕盗庁の捕吏になってすぐの騒動を口にした。

 捕盗庁のいち捕吏には、朝廷に立つ権限などなく、朝廷の膿を排出したいアン王にとっては、納得のいかない配属先であった。

 だがテギョンには実績がなく、パク大監の悪行は父であるファン・ギョンセの死の真相を暴いたことによる結果に過ぎなかった。

 それをいきなり高い地位に据えられては、仕事ができないとテギョンが言い、アン王が折れたのだ。

 とはいえ朝廷の腐敗は闇が深く、とっかかりは見つからない。

 出来うる限り早く、テギョンを朝廷に引っ張り出し、探りを入れさせなければと、アン王は最初からそう考えていた。

 というのも月の天使だった時の能力を、アン王は高く評価していたからだ。

 小さな疑問さえ捨て置かず、モ・ファランが敷いた流れにも乗らずにパク大監の罪を暴いたように、朝廷に引っ張り出しさえすれば、上手く隠された穴を見つけられると、アン王は考えていたのだ。

 朝廷に巣食っている害虫を駆除するためには、テギョンをこの場に引っ張ってこなければならない。

 その為になら多少強引であっても構わない、手柄があれば引き上げるのだという目論見があって、アン王は折れて見せたともいえる。

 だがテギョンは、暫くは一介の捕吏として仕事をしようとしていた。

 ミニョと婚姻することもあり、足場を固めたい思いもあったからだ。

 しかし、詐欺犯を捕まえた事で、捕盗庁から漢城府に移動させられ、役付きへの昇級人事が行われた。

 これに対し、大監からは上奏の訴えが続き、アン王と朝廷は、がっぷり四つに組んでの争いが展開された。

 テギョンはこれを治めるために、漢城府への移動を受け入れ、役付きを返上することで収拾を図ったのだった。

 だが、その後もテギョンに対する風当たりは強く、それが長く続いた為に、アン王の望む仕事に差し障りがあったのも事実だった。

 

 とはいえ、二年の間に自らの力で判官に昇級したテギョンだ。

 この妓生事件を解決させれば、義禁府へ移動させることにも名目は立った。

 テギョン自身も、アン王が朝廷の腐敗の為に、それを望んでいる事を分かっていた。

 だが、地位が上がれば上がるほど忙しさは増し、逆に身動きは取れなくなる。

 この二年、アン王に恩を返すために働き続けてきた。

 その為にミニョには寂しい思いをさせていて、妓生事件が解決すれば、少しゆっくりできると考えていたのだ。

 一方アン王も、不満顔を見せたが、テギョンのこの二年の様子も知っていた。

 

 池に映る月が、風に揺らぐのを見ていたアン王は、昇進の話をいったん保留にすることにした。

 その数日後に事件が発覚する。

 妓楼近くでの女の死骸とあって、捕盗庁ではてっきりまだ解決していない妓生殺しだと考えた。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~

とうとう始まりました。

冒頭は序章というか、

 今回の話はこんな感じで始まりますって、

ええ、映像ではお見せできない、

エグサ極まるオカルト仕様の事件が、時折、

そう時折挟み込まれますってお知らせのような部分。

(何しろ縹炎で思いついたからか、きれいな死骸にならなかったのです。)

で、そこに10年前の話との重なりを部分を続けたので、

少し、いやかなり長くなってしまいました。

(今回はこの半分くらいで一話にしようと思ってます。

 というのも4000字を越えると、推敲も大変なのです。

 縹炎と斐の水沫は、すっごく推敲に手間取ったのゲロー

 

さて、前に月の天使を書いた時、

月の名前がたくさんあるのを知って、

日本人っていうか、昔の人はすごいな~と思って、

月を使ったサブタイトルを作ったんですよね。

 

でもさすがに使ってない月の名は、

残り僅かというか、偏りがあって、

何しろ同じ月に複数の呼び名なので、

だったらいっそと、

月齢カレンダーからサブタイトルを作ることにしました。

 

最初の朔月は新月の別名です。

新月は地球からは見えない月なので、

何も照らさない闇夜というイメージです。

事件発生の闇という意味で、

このサブタイトルにしたんですが、

この10話は、登場人物のキャラ説明や状況説明が中心となります。

 

あとね、前の月の天使を読んでないよって方がいても、

読まなくても大丈夫なように書きました。

ですが、一応補足しておきますあせる

この話は、前に書いた『さやけき月に幽かな影』に、

かぶっての始まりとなっております。

あちらでは妓生事件は解決して、

幸せいっぱいで終わっているのですが、

ここでは解決前からの続きで始まります。

って、解決目前、終わりも終わりのところからです。

 

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