― 西京の宿 ―
噛みしめられていたヘイの唇が、ゆっくりと弧を描くと閉ざされた戸に向かって動く。
「テギョンさん、ミニョさんの事で話があるの。」
固く閉じられている思えた戸が、ゆっくりとヘイの前で開いて行く。
それを見ながらヘイの口元は、冷たい弧ではなくやわらかな笑みへと姿を変える。
戸を開いたテギョンを見つめる目にも優しさが溢れていて、さっきまでのしたたかさはすっかり鳴りを潜めている。
ヘイはテギョンの横をすり抜けるようにして、堂々と中に入るとゆったりとした様子で振り返った。
開かれた戸はすでに閉じられていたが、テギョンはそこに立ち止まったままで、戸に背を付けている。
まるでいつでも開けられると言っているようだ。
もとより無口なテギョンだ、話があると入って来たヘイに対するさっさと話せという無言の圧力であり、内容によってはこの戸が開いてここから追い出すとの脅しでもある。
だがヘイは、切り出す言葉を探す素振りで口を閉ざした。
火神相手なら駆け引きをする度胸はないが、目の前にいるのは人間ファン・テギョンに過ぎない。
ヘイは言い躊躇うように震わせた瞳を彷徨わせるようにして、テギョンから視線を逸らした。
ここに来るのには勇気が必要だったけど、話し始めるのにはもっと勇気が必要なのと、気弱さの演出だ。
もちろん以前のテギョンには通じなかったものだが、今のテギョンになら動揺を誘えるはずと踏んでの事だ。
「ミニョの何だ。」
ヘイの考え通り、待ちきれずにテギョンが先に口を開いた。
テギョンに目をやったヘイは、はかなげに微笑んで見せる。
「ミニョさんが先に行った本当の理由を・・・・・・」
ヘイは視線を落として躊躇ってから、意を決した顔を上げる。
「ミニョさんが模諜枢教に行ったのは、テギョンさんとモ教主を話し合わせる為となっているけれど、本当はテギョンさんをモ教主に会わせない為なの。」
ヘイは一息で言い切ると、再び視線を逸らせる。
「・・・・・・ミニョさんはモ教主がテギョンさんの実母だと知って、それをあなたに知られないようにと考えていたの。」
テギョンの眉が僅かに寄せられる。
「ミニョさんから直接聞いたから本当よ。
彼女は言ったわ、私だけが宗家の者ではないから宗家間の利害はないって。
テギョンさんを一番に考えて欲しいって・・・・・・」
ヘイは肩を震わせて今にも泣きだしそうな顔をする。
「だけど今は・・・・・・ミニョさんの方が危険なんじゃないかと思ったの。」
ポロリと涙が落ちる。
「モ教主がそこまで凶悪な人だとは思っていなかったの。
だってテギョンさんを産んだ人よ。
捨てたのだって、何か事情があっての事だと思っていたの。
それに、模諜枢教に居たミニョさん自身がモ教主と話すと言ったの、心配する事はないからって。
だから・・・・・・だから風林堂のカン・シヌさんが二人が模諜枢教に行った理由を話した時も、テギョンさんが救出と言った時も・・・・・・本当の理由を言い出せなかったの。
言えば、テギョンさんの実母が誰かも話さなければならなくなるもの。
それはミニョさんとの約束を破る事になるわ。
だから私は・・・・・・でも、あそこで、金鉱教のジフンさんがあんな風に話すとは想像もしていなくて、結局、私はミニョさんとの約束を守れなかったわ。」
ヘイは落胆の色を濃くして肩を落とす。
「それで、部屋に戻って考えたの。」
実際には部屋ではなく模諜枢教の堂閣にいたのだが、次の手を考えたのは本当だ。
「ミニョさんが言っていた事よ。
これは、いつも助けてくれるテギョンさんへの恩返しだと。
それからテギョンさんが助けてくれるのは、二人共通の夢のせいだと。
・・・・・・夢の中でのミニョさんは、いつも死ぬ運命にあって、それを助けようとしてくれているのがテギョンさんで、それこそが二人の関係なのだと言ったわ。」
ヘイはチラリとテギョンを見る。
ミニョにテギョンへの恋心は語らせないとの内心が、透けて見える顔だ。
(あの者に許すのは火神の踏み石となる事だけ。
そしてその踏み石を救えば火神の劫は終わる。
私の・・・・・・約束も守れる。)
動揺するテギョンを見ながらヘイは顔を歪めながら笑ったが、見返してきたテギョンの視線に慌てて顔を元に戻した。
「もしかしてだけど・・・・・・恩返しのためにミニョさんが命を懸ければ、・・・・・・あの、夢の、・・・・・・光景になるんじゃないかと思えたの。
だから・・・・・・だから私は・・・・・・」
勇気を出してここへ来たのよ、テギョンを見るヘイの目がそう語る。
テギョンの背が壁から離れて、身体がぐらりと傾く。
「金鉱教のジフンさんが言った事が事実ならモ教主は怖い人だわ。
自分の子を埋める事さえいとわないのだから、ミニョさんを手に掛けるくらい造作もないはずよ。
だから、ミニョさんを救う為には・・・・・・モ教主を、モ教主を討つしかないわ。」
―――モ教主を討つ。
ヘイの言葉がテギョンの頭で繰り返される。
「何もしなければ、ミニョさんを助け出せても追われ続ける事になるわ。
まるで過去から続く因縁の連鎖よ。
モ教主はテギョンさんとも斐水門とも繋がっていて、この 縁が運命を繰り返させ、過去からの夢を次へと繋げる。
この悪縁を断ち切らなければ、きっと未来も同じ、いいえそれだけじゃない、この先光焔教事件のような不幸が繰り返されないとも限らない。
話し合おうとすれば、隙を突いてミニョさんの首に刃を向けるかもしれないわ。
モ教主は、模諜に君臨する横暴な暴君だわ。」
言い終えたヘイは歪んだ笑みを浮かべていたが、テギョンにはそれを見るだけの余裕はない。
むしろこれまで抑え込んでいた負の感情が一斉に芽吹いてテギョンの纏う空気を一変させる。
ふらり、ゆらりと動き出したテギョンを、ヘイは含み笑いで見送った。
今ここをテギョンが離れれば、たとえミニョが迎えに来ても何も変わらないからだ。
テギョンならばモ教主を討つ事も簡単なはずだ。
よしんば相討ちになったとしても構わない、テギョンの死は火神の劫の終わりを意味するからだ。
助けたかった者を救った事で、ただ繰り返されるだけだった劫が終わる。
ミニョが救われる事は面白くないが、ミニョは人間の寿命を全うしテギョンは神へと戻るのだと思えば、テギョンの背に笑みを浮かべずにはいられない。
― 模諜枢教 ―
ユ・ヘイが瞬間的に移動した後を追うように、ミニョもまたテギョンが居るだろう宿へ、すぐにでも向かうつもりでいた。
「どこに居るかは分かっているの?」
モ教主に問われた事に、考える事なくミニョは答えようとした。
だが、開いた口は閉じられて眉が寄る。
(疑いたくはないけれど、もしかして訊きだそうとしている?)
「情報通の模諜枢教に分からないわけがない・・・・・・ですよね。」
考え考えそう返す。
「勿論分かっているわ、西京の一番大きな宿、天蓋館よ。
赤い天蓋花がまるで火のように咲く事が名の由来で、どうしてあの宿を選んだのかしら。」
「それは多分・・・・・・偶然だと思います。
落ち合う約束は、西京にある一番大きな宿でしたから。」
ミニョは何でもかんでも火に結び付けないで欲しいと思いながらそう言った。
「ええ そうね、別にどこの宿でも構わないわ。
私が言おうとしたのはその宿が西京にあるという事よ。
まさか、西京で襲われた事をもう忘れたのかしら。」
(もちろん覚えている。
でもあれはジェルミがいたからで・・・・・・)
「私に利用価値はないで・・す・・・・か ら。」
言いながらミニョは矢を射られた事を思い出した。
(私の場合、襲うのも捕まえる事が目的じゃない?)
ミニョは自分で言って分からなくなった。
同じ宗家でも斐水の宗家は陰謀を企むような陰湿さはないが、模諜の宗家は何を考えているのか分からない。
同じ流派なのに派閥があってせめぎ合っているだけでなく隙を伺い策を練り、虎視眈々と模諜枢教に取って代わろうとしているなんて、もっと他にする事がないのかと思えてしまう。
だけど今はそっちよりも、襲われたミニョの所に駆け付けるテギョンという夢の図が、現実になるかもしれないと思えて、思考が停止してしまった。
「僕が行くよ。」
ミニョに代わって手を上げたジェルミだったが、ジェルミを見つめたミニョは心配顔で首を横に振った。
ファランはミニョがテギョンだけでなく、ジェルミの事も気にかけているのだと知って、また少し心を動かした。
「あなたが本当に私の盾になるなら、私が使者となる教徒を送れば済む事よ。
彼らが信じないと思うなら直筆の文を持たせればいいわ。
明日の朝、迎えを出す。 それでこの問題は解決するでしょう。」
言い終えると、ファランは下がるよう二人に手を払った。
― 西京の宿 ―
部屋を出たテギョンは何もなかったような足取りで階下に降りて宿の者を捉まえた。
テギョンの行動を気に掛けていたシヌがそれを見逃すはずがない。
あのテギョンが誰かに話しかけるのも以外なら、その口から盛り場という言葉が出てきた事にも驚いて、追いかけてきたのだ。
そしてその背に手を伸ばしてさらに驚いた。
偉ぶる素振りはなかったが、常にテギョンからは凛とした威厳のようなものが感じられた。
品格や品位といったものも本人はまったく気にしていなかったが、崇高な精神というものは隠しきれずに溢れていた。
それが何故だか目の前の背中からは窺えない。
逆に滲んで見えるのは深い闇だ。
シヌの脳裏に悪霊の二文字が浮かんで、掴もうと延ばした手を止めさせたのだ。
「ファン宗主。」
触れる事は止めて呼び止める。
ゆらりと傾くように振り返ったテギョンは陰鬱な顔だ。
「どこに行く?」
「・・・・・・見学。」
追い掛けてきたシヌに驚くことなく、テギョンは短く返すとそのまま踵を返して歩き出した。
シヌは眉を寄せたが、悪霊憑きが返事をするのもその返答が見学なのもあり得ないと考える。
しかしテギョンと盛り場も結びつかない。
そこでシヌは連れ戻す事も戻る事も止めて一緒に行く事にした。
シヌはテギョンの横を歩きながら宿への連絡を考える。
いないと気付けば心配するかもと思ったのだが、残りの者を思い浮かべて考える事を止めにした。
二人がいない事にも気づかないかもしれないと思ったからだ。
― 西京の盛り場 ―
テギョンが宿で聞いて来た盛り場は、大通りを一本裏に入った所にあるらしく、薄暗い道へと入っていく。
本来盛り場とは明るく賑わっているものだがと思いながらも、シヌは黙って後に続く。
その通りは薄暗く、そこに建つ店の全貌までは分からなかったが、かなり大きな建物だとは感じられた。
だがなんと言っても暗く陰陰たる様は盛り場とは程遠い、そこに迷うことなくテギョンは進んで行く。
遅れまいと続いたシヌは中に入って驚いた。
そこは不夜城かと見まごうほどの煌びやかな世界で、内と外とでこれほどに違うものがあるのかと思ったのだ。
楽の音に合わせて舞う女たちから漂う白粉の香りに酒の香が混ざる。
舞姫たちの金や銀の玉飾りがシャラシャラと立てる音が、妖艶な舞に華を添えていて、玉すだれの奥からは酔客の笑い声とその客に酒を注ぐ女たちの黄色い声が、むせ返るほどに溢れている。
シヌはテギョンに憑いた悪霊がやはり女好きの霊だったかと心の中で呟いた。
だが一通り中を見て回ったテギョンは、そのまま奥にある賭場へと入っていき女たちには目もくれなかった。
賭場は女たちがいた場所とは違い、男たちの汗と熱気で思わず鼻を背けたくなる匂いが充満している。
賭場――― シヌは賭けをするのかとテギョンを見るが、ますます暗く鋭くなった目で卓を回っただけで、何もしなかった。
これでは本当に見学だ。
「ファン宗主。」
シヌは小声でそっと耳打ちをした。
ここに来た目的を訊こうとしての事だったが、テギョンはと言うと不快な気を纏わせたままそこに立ち尽くしている。
そのテギョンにぶつかる者がいた。
片袖を脱いだ男の半身は汗ばんでいて、立っているだけのテギョンに悪態を吐いた。
ぼんやりとしているのが気に入らないというのだ。
いつものテギョンなら買わない喧嘩だが、今のテギョンは様子が違う。
シヌが落ち着けと宥めても聞く耳を持たず、周りの博打に興じていた男たちでさえその威圧感に尻ごむほどだ。
だがテギョンに絡んだ男は酔っていて、その体格に自信もあるのかさらに難癖をつけてきた。
シヌはなんとか止めようとしたが、次の瞬間男は床に転がっていて、テギョンの纏う気がますます黒く淀んでいた。
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やっとやっと、やーーっと黒化テギョンまで来ました。
少しだけでもこのテギョンを書きたくて、
長くなってしまったのだけど、
これがこの話が神様から始まった理由なのです。
最初に書いた通り、この話しのきっかけは火と水で、
捨てたネタを拾って来て考えたものです。
でも捨てたネタだけあって、
これだけでは話の軸も作れなかったんですよね。
そこでもう一つ拾って来たのが男と女、
ミニョの多重人格ネタでした。
火と水も、男と女も対極の位置にあるので、
これを絡めようとしたのだけど、
これだけだとなんだか弱いような、
もう一つ何かと考えて、究極の対極、善と悪が浮かんで、
ここから序章が生まれたというわけです。
神のテギョンは難しかったが、
魔のテギョンが簡単なのかと言うとそうでもない。
そして今日も遅くなってしまいました。
そうそう宿の名前となった天蓋花は、
彼岸花の別名で曼殊沙華という名もあります。