― 模諜枢教 ―
「コ・ジェヒョン門主は元気だったかしら。
久しぶりに会って来たのでしょう。」
何かを思い出したように微笑んだファランは、口の端に笑みを残したままでミニョにそう言った。
何を聞かれているのかは分かってもこの状況だ、ミニョの目が泳いで困惑を伝える。
だがすぐに模諜の座学に父が来ていた事を思い出した。
とはいえ違和感が残るミニョは、ただ短く「はい。」とだけ返した。
ファランは相変わらずの作り笑いで、ミニョも負けじと笑い返す。
すると今度はファランの笑顔が悲しく歪んだ。
「模諜枢教に生まれた者には斐水門にはない使命があるの。
たとえ女であっても・・・・・・いいえ、女であるからこそ、私には生まれた時から目的の為に嫁ぐという使命があったわ。」
ファランの目が遠くを見つめる。
「あなたが放棄した修行を、私は修行に励んだの。
価値ある者になる為に、価値ある者だと気付いてもらえるように、書道、華道、茶道、楽道、剣と弓に禅道、人が何年もかかるものを、私は来る日も来る日も、それこそ寝る間も惜しんだわ。 そうして得た力よ。
血の滲む思いで得た、私のすべてよ。
それが、その努力が仇となるとは思いもしなかった。
誰よりも優秀な私を、父はどこかに嫁がせることをやめてしまった。
代わりに募ったのが模諜枢教継承者、私の夫となる者よ。
つまり私を教主にはできないけれど、優秀な私の子に教主を継がせることを決めたのよ。」
ファランはもう随分と昔の事ねと一度息をついだ。
ミニョにしても若かりし頃の父とファランの話には頷くだけしかできない。
「私はコ門主の妻になる事はできなかった。
彼も私ではなく、私の妹分を選んだ。
だからすべてを受け入れて、私はスジンに言ったの。
お互いに子ができたら結婚させましょうと。」
ファランの顔に浮かんだのは、懐かしむように幸せそうな笑みだったが、それが少しずつ引き攣っていく。
「ある日、都に買い物に出た私に、どこから流れついたのかも分からない者が言ったの。
美しい命が宿っていると言ったの。
私は気付いてなかったわ、だからその場で一笑し聞き流したのよ。
てっきり気を引く為だけに適当に言ったと思ったからよ。
だけど半月ほどしてそれが事実だと分かったの。
私は喜んであなたの母に文を送り、言い当てた男を探したわ。」
(男? 女じゃなくて?)
ミニョはてっきり三栗谷街道の三姉妹だと思っていた為に男と聞いて少し驚いた。
そして世の中には宗家でなくても力を持った者がいるのねとも思ったのだ。
宗家で修行をする者だけが力を得るというのは間違いなのかもしれないと思い、テギョンもその一人だと考えた。
ミニョが考え落ちしている間、ファランは古い記憶を彷徨っていた。
「その男は痩せこけて薄汚かったから、私は物乞いを探させたわ。
だけどもどれほど探しても見つからなくて諦め掛けた時、偶然声が聞こえてきた。
私の耳は一度聞いた声を忘れる事はないの。
訛りといった特徴だけでなく抑揚や息遣い、たとえ鼻風邪をひいていても私の耳は聞き分けるから、それがあの男の声だと分かって振り返ったわ。
でもすぐには見つけられなかった。
彼はわずかな間に見違えるほど小奇麗な優男に変わっていたのよ。
何をしてそうなったのかを問い詰める代わりに、私は何が見えるのかを男に訊いたわ。
高い能力があるなら模諜枢教の客員教徒を勧めるくらいの気持ちだったから、ある意味好意的だったの。
だけどその男は、私のお腹を指さして『災いが生まれる』と呪ったの。
『小さな火が炎となってこの模諜を焼く』とも言ったのよ。」
「それだけ?
・・・・・・まさかそれを信じて・・・・・・」
ミニョは茫然としてそう呟いていた。
まだ形もなっていない命を、たったそれだけで埋めたのかと思うと怒りや悲しみと言った感情よりも、無常といったものに囚われてしまったからだ。
「勿論信じなかったわ。」
ファランは顔色一つ変えずにそう言った。
「だけど事件が起こったの。」
「光焔教事件。」
ハッとしたように言ったミニョに、ファランは笑って首を横に振る。
「それはよくある火事だったわ。 だけど火のない所で発生したの。
火は、みるみるうちに広がって夫で教主のギョンセをのみ込んだ。
夫の死は、私の中にずっとあった不安や疑念を強くしたわ。
そして堕胎する事も考えるほどに私は迷ったわ。
だけど物理的な問題で私にはお腹の子が必要だったの。」
「・・・・・・継承・・・・・・」
今度はジェルミが呟く。
ファランは悲しそうにジェルミを見て頷いた。
壇上の椅子に座るファランと同じ壇上に茫然と立つミニョにジェルミが一歩ずつ近づく。
三人だけの広い空間に本当はもう一人紛れ込んでいた。
姿を消し、西京の宿から一瞬で移動する力を持つヘイが、危険を冒してまでこちらの状況を探りに来たのだ。
「私の人生は由緒正しい宗家、模諜枢教に翻弄させられたようなものよ。」
ファランの冷ややかな笑みは、今や乾いて歪さが見て取れる。
「模諜宗家の女は代々続く皇族貴族に贈られる飾り物になるか、駒となって他宗家に嫁ぐかのどちらかだけど、私はこの模諜枢教に縛られた。
なのに女は教主にはなれないと言う。
教主の死によって新たな継承者をという声が続く。
膨らみ始めたお腹には次の継承者がいるのにと、声を上げた以上私には産むという選択肢しか残っていなかった。
子は紛れもない継承者。 育つまでは私が代理教主。
私はその為だけに存在していたのよ。」
恨みとも憎しみともとれるファランの顔にミニョは身体を固くする。
都が焼けるというよりも教主の座を奪う者だったからではないかと思える。
「それからの日々は仕事に没頭する毎日だった。
誰にも女だからとは言わせなかった。
そうしてこそ、私はただの代理ではなく教主の座に相応しい者になれるから。
日々お腹は大きくなっていき、私の中の不安や疑念も薄らいだ。」
ファランはまた遠くに目をやる。
「だけど、また起こった。 それが光焔教事件よ。」
ミニョは手をギュッと握った。
テギョンと光焔教に関わりがないと思った事はない。
だけどいざその話しになると思うと、緊張してしまう。
「火功の宗家が起こした事件で、光焔の半分の地が灰となった。
火が模諜の都を焼く。 私には選択の余地がなかった。
生まれたばかりの子を見せて男であることを証明し、危険回避として外に出さずに育てるとした。
そうしてあの子を葬ったの、私にはそうするしかなかったの。」
我が子を葬るに至ったファランの話は、よく分かるようでミニョにはまったく分からなかった。
実際のところ光焔教で何があったのかも説明されてはいない。 だけど・・・・・・とミニョは思う。
「因果は巡る。
光焔教にあんな事をしなければ、おじさんもテギョンさんに恨みを募らせなかった。」
「あんな事? 私は何もしていないわ。
私だって驚いたんだから。
模諜の宗家は熾烈な争いの中にある、模諜枢教を追い落としたい宗家が追い詰めてしまったのよ。
西京の宗家がそうだったように、この模諜の宗家の中にも反模諜枢教の宗家はある。
女の下にいるのが我慢ならないってバカな奴らがね。」
「だったら勝手な行動をしたその宗家を・・・・・・」
「私だって調べたわ。 だけど彼らのした事は一つ一つは些細な事だった。
結局、総括者である私の責任よ。」
「だから光焔教の教徒を、光焔の民を・・・・・・惨殺したんですか。」
「惨殺? 私は事態の収拾をしただけよ。」
「縹炎に送ったのに?」
「・・・・・・確かに縹炎に送ったわ。
だけどそれは強制ではなかったわ。
一夜にして宗家の者が集団で殉死したために、多くの者が仕事を失ったの。
私にできた事は死者を鎮める事と、生きている者に住めなくなった地に代わる地と仕事を与える事。
でもそれは容易な事じゃない。
縹炎の地を開拓できるならと考えたのが間違いだと。」
ミニョはますます分からなくなっていった。
ミニョの頭の中でファランの言う事は食い違ってはいないのに噛み合っていないのだ。
これを追及するのはミニョには少々荷が重すぎた。
ただこれもテギョンの運命に結びつけられた事がミニョを憤らせた。
「・・・・・・ならジェルミの運命は?」
ミニョはボソリとこぼすように訊き返した。
言い終えたミニョは何とも言えない怒りに包まれていたが、それをどう吐き出せばいいのかが分からなくなっていた。
「何が言いたいの。」
(何が? 運命で拾ったり捨てたり、・・・・・・でも、それがあって私とテギョンさんの関係が変わった?
テギョンさんが模諜枢教の継承者だったら私たちは許婚だったわけで、それが夢と・・・・・・あぁでもでも、この際夢は横に置いておいて、問題を解決するのが先だからどうすればいいかを考えないと。
だけど、この場合テギョンさんとモ教主は話しをした方が良い? しない方が良い?)
二人を合わせるという事は、テギョンを傷つける事になる。
ぐるぐると溢れるように巡る疑問は、ミニョの頭の中で、誤解や錯覚だと告げた瞬間、底なし沼を漂う小舟のようにもなったりして、ミニョを迷わせた。
シヌからは原因を探れと言われたが、絡まった糸を解くのは簡単な事ではなく、最初の結び目を見つける事も容易ではない。
それでもファランがテギョンへの攻撃を止めないだろうという事だけは確信がある。
だったらやっぱり会うべきだと、ミニョは泣きたい思いでそう決断したのだ。
ミニョは一度大きく息を吸って身体の中からすべて吐き出す事で心を静めた。
「模諜の都が火に包まれる、モ教主はそれを避けたいのですよね。
だったらテギョンさんとここで会ってください。」
「何を・・・・・・」
「会って彼の疑問に答えてください。
それで模諜の都は焼かれる心配がなくなります。」
「私を殺したい者に会えと?」
「私が盾になります、それなら安心ですよね。」
ファランが僅かに眉を寄せる。
「もし模諜の都に入れる事が心配なら、私が迎えに行って一緒に戻ってきます。」
ファランの眉はますます寄せられ、片目だけが開かれる。
信じられないという顔だ。
だけどミニョは冷静だった。
「分かっているはずです。
最初から逃げるつもりなら、私はここにジェルミと戻ってはいません。
心配なら見張りに教徒を付けてもいいです。
だから、テギョンさんと話してください。
私には上手く言えませんが、誤解があります。 それもすごく沢山。」
ミニョは両手を広げて沢山を強調する。
その不安に懇願の混じった顔に、ファランは少しだけ考えを変えたように表情を緩めた。
これを見たヘイがスッと姿を消して戻って行く。
このままでは計画が崩れてしまうと思ったからだ。
計画を遂行する為にはテギョンとファランは会う必要はあるが、話をする必要はないのだ。
ミニョを取り除かなければとの思いがヘイを急がせる。
テギョンはミニョに説得され、言われるままにファランと話し、請われるままに落ち着く場所を見つける。
模諜枢教にとっても、縹炎宗にとっても害を為さない決着点。
ヘイは唇を噛みしめていた。
いつもいつも邪魔をする、あのぼんやりとした顔が浮かんで憎しみが噴き出て来る。
石ノ神であった時もヘイとなった今も、あの女が邪魔をする。
なのに殺してしまえない苛立たしさに唇を噛みしめるしかなかったのだ。
― 西京の宿 ―
模諜枢教の堂閣から戻ったヘイは、テギョンの部屋の前に立っていた。
ギュッと握りしめていた手で戸を叩く。
その音に部屋に居たテギョンが面倒そうに立ち上がった。
だが戸はすぐには開けられない。
「・・・・・・誰だ。」
怪訝な声が低く響く。
テギョンはそれがフニでない事も、シヌやドンジュンでない事も見抜いていた。
彼らならファン宗主と声を掛けるからだ。
ヘイは名乗るべきかを迷っていた。
名乗れば戸は開かれないだろう、ヘイは今度は困ったように唇を噛みしめた。
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書こうと思っていた事は三つ。
一つは前回の続きのファランとミニョの会話で、
主にファラン側の主張と言うか、
言い訳、釈明、私だってかわいそうなのよ~だ。
実はこれがこんなに長くなるとは思ってなかった。
光焔教の話はこれで終わりとはまだ出来ないわけで、
もう一度書かなければならない事が分かっているから、
書く事はかなり少なくなると思っていたのよ。
二つ目のヘイによる盗み聞きなんか数行だし、
三つ目のテギョンとヘイの会話だって、
全部は無理でもさわりくらいはと思っていたのに、
閉ざされた戸に阻まれてしまった。