― 苔むす山寺 ―

 

 テギョンは夢を見ていた。

 一見いつもと同じ夢に見えるが、目の前にいるのはミニョの前世ではなくてミニョ自身だ。

 戸惑い困惑する表情も、キョロキョロと辺りを見て前髪に手をやる仕草も、前世のミニョからは見る事はなかった。

 テギョンは冷静に周りの背景や着ている物で判断していく。

 

 「ミニョ、こっちに来い!」

 

 夢の中でテギョンは初めて声を出した。

 これが現世なら、繰り返される夢ではないからだ。

 しかしミニョには聞こえないのか、それとも動けないのか、悲しい顔で首を横に振って何度も足元に目を落とすばかりだ。

 テギョンもミニョの佇む足元に目をやった。

 さっきは何事もなかった地面が、ジュクジュクとぬかるんでいて、どこから来るのかさらなる水を滲ませ続けて、今やミニョの足の裏は水たまりに浸かっている。

 

 「ミニョ、そこは危ない。 手を伸ばせ!」

 

 テギョンが夢の中で伸ばした手は、実際に床の上で天上に向かって伸ばされていた。

 届きそうなほど近くに見えるのに、伸ばした手は空を切る。

 一歩踏み出せばきっと捕まえる事ができると思うが、そのテギョンの足元では火がくすぶっている。

 このくらいの火、テギョンに飛び越えられないわけがないが、そう思うたびに小さな火は、空をも焦がしそうな火柱となって赤く燃え上がるのだ。

 だからといって怯むテギョンではないが、火だけではなくテギョンの足には黒い煙が巻き付いていて、その動きを封じていた。

 すでにミニョの足はくるぶしまで水の中に埋もれている。

 テギョンは黒煙を振り解こうともがく。

 しかし黒煙は、モワモワとただ形を変えるばかりで、締め付ける事もない代わりに解けて消える事もない。

 そして足だけに巻き付いていた黒煙が、上へ上へと纏わりつくように動いて、上半身へ、伸ばした手へと広がっていきさらにはその一部がぬかるみの中へと火を飛び越えてミニョの足に絡みついた。

 黒煙と共にぬかるみの中へと引きずり込まれるミニョに、テギョンの目が見開く。

 テギョンは叫ぼうとした。 だが今度は声が出なかった。

 黒煙はテギョンの首にも巻き付いていたからだ。

 泰然自若が常のテギョンだったが、夢の中だと分かっていながら沈んでいくミニョを見ているしかないできない事に、もがき苦しむ。

 

 「宗主、宗主。」

 

 フニは魘(うな)されるテギョンを起こそうとした。

 額には汗が滲み、苦しそうに眉を寄せて、首を左右に動かしながら口から漏らすのは荒い息だ。

 

 「今夜もか。」

 

 抑えた声で溢すように言ったのはシヌだ。

 雨の中、出発する二人を見送った時は、テギョンに不安もあったがその後一度は安心できた。

 だがその夜からこうして魘され始めた。

 最初こそ例の夢かと起こそうとしたのだが、どういうわけか呼んでも揺すっても起きない。

 繰り返し魘され続けた夜が明けると、何事もなく目覚めていつもと変わらないように見えた。 

 ただもとより無口だったが、昨日から一切何も話さなくなったことが引っ掛かっての今夜だ。

 

 「明日は雨が残っていても出発しよう。」

 

 一頻り考えた後でシヌはフニにそう言った。

 フニは驚き、困惑し、心配する。

 出発は願ったり叶ったりだが、こんな状態のテギョンを雨に濡らす事は避けるべきじゃないかとも思える。

 フニの心配顔にシヌは目の前にある懸念を口にする。

 

 「考えれば考えるほど、これは精神的な焦りが影響しているんだと思う。

 縹炎を出て以来、ファン宗主がミニョと離れなかったのもミニョを救う事が目的だった。

 そのミニョが離れた。

 悪夢を見るほどにこの現状が不安なのだろう。」

 

 一度は消えた悪霊が、そこかしこに蹲(うずくま)っているように思える。

 

 「すでに二日の時が過ぎた。

 これ以上長くなれば、こちらの分が悪くなる。」

 

 シヌの判断にフニは頷く。

 

 「予定通り商家の馬車を用意してあるわ。」

 

 ヘイはシヌに微笑んで言う。

 馬車なら雨の心配もない、商団に扮すれば模諜宗家の目も誤魔化せる。

 フニはそう思いながら、こんなに追い込まれて苦しそうなテギョンは初めてだと心を痛めた。

 

 

― 模諜枢教 ―

 

 教徒が護衛となって無事模諜枢教に辿り着いたミニョだったが、門をくぐった所でジェルミと引き離され、かつて逃げ出した部屋に逆戻りとなった。

 そして二日経った今もモ教主とは会えずにいる。

 ミニョは閉じ込められた部屋の真ん中に、ぼんやりと座っていた。

 時折顔を上げて、見るとはなしに部屋を見回してはため息を吐く。

 この部屋に居たのは一年ほど、最初は自由に出入りができたが、途中から出る事が叶わなくなった。

 斐水門の小屋よりも広くて快適だといえ、外に出られない空間は息が詰まる。

 ミニョはぼんやりとしながら、かつてもそして今もここでジェルミが来るのを待つのは変わらないのかと考えていた。

 二日前にジェルミと引き離されここに押し込まれたミニョは、すぐにジェルミが来ると信じていた。

 来ると信じている時は、ぼんやりとなどしていない。

 外に出たら状況を聞いてモ教主をどう説得するか、都に入る前からずっと考えていた事を引き続き考えられた。

 だがその日ジェルミは現れなかった。

 ミニョはテギョンならと思い浮かべた後で、二人を比べた事を反省し、きっと夜だからだと不安に蓋をしてその日は眠ったのだ。

 ジェルミはミニョが考えた通り翌朝になってやって来た。

 

 「ジェルミ、早くこの戸を開けて。」

 

 ミニョは戸に手を当てて声を上げる。

 

 「ごめん、今は開けられないんだ。」

 

 返ってきたジェルミの声に眉を寄せる。

 

 「どういう事? どうしてそんな事を? モ教主とは話したの? こっちの目的は伝えた?

 ううん、それより私を閉じ込める理由は何?」

 

 あれやこれやと沸き起こる疑問が次々に口をついて出る。

 

 「ファン宗主が話しに来ることは、ちゃんと伝えた。

 話し合うべきだと思うって事も言った。」

 

 ジェルミの声に、ミニョは耳をそばだてたまま頷く。

 

 「でも、モ教主は忙しいみたいで・・・・・・その、話をする間がないみたいなんだ。」

 

 ジェルミの言い訳に、ミニョは眉間をますます深く寄せる。

 

 「だったら私がもう一度・・・・・・」

 「だから、ミニョをここから出せないんだ。」

 「どうして?」

 「・・・・・・モ教主がファン宗主と話しをする事ができないから・・・・・・」

 

 ジェルミは口ごもりながらもそう告げる。

 

 「ジェルミ、それは私を閉じ込める理由にはならないわ。」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・ジェルミの言う私を守るは、こうして閉じ込めることだったの。」

 

 ジェルミの言葉に落胆し、怒りの声を上げたミニョだったが、頭を巡っていた血が急に落下したように訊き返した。

 今度はジェルミが慌てる番だ。

 ミニョが閉じ込められることを嫌うのは知っている、本当は閉じ込めていたい訳じゃない。

 

 「ちっ違うよ。」

 「違わない。」

 「違う、ここを出てもモ教主はミニョとは話さない。

 話す必要がないって言われたんだ。

 だけど話す事ができないとなったらミニョは、ファン宗主の所に戻ろうとするだろう。

 でも僕たちは襲われたんだ、外に出るのは危険なんだ。」

 「だから閉じ込めるの?」

 「それは・・・・・・」

 

 ミニョは詰め寄るように言ったがジェルミにだって考えがある。

 

 「ファン宗主なら大丈夫だから。

 危害は加えない、手は出さないって約束してくれた。」

 

 ジェルミはモ教主に取り付けた約束を口にした。 

 彼は共に旅をした仲間の安全はちゃんと守ると言おうとしたのだ。

 

 「それを信じるの?」

 

 眉を潜めてミニョが訊く。

 

 「信じるよ。 モ教主は僕の母なんだから。」

 

 ジェルミの言った母という一言は、ミニョを酷く傷つけた。

 もしテギョンが知ればと思うだけで、手が冷たくなっていく。

 

 「は は・・・・・・その母が、テ・・・・・・」

 

 テギョンの母だと感情に任せて言い掛けた言葉を、ミニョは飲み込んだ。

 躊躇い、口を噤んだミニョは一頻り考えて言い直す。

 

 「ジェルミ、その母に訊いて欲しいの。

 テギョンさんと話したくないなら、私がファン宗主に模諜に近づかないよう伝えるって。」

 

 その声は酷く震えていたが、一言一言はっきりとしていて、それはつまりミニョも二度とここには来ないって言ってるように聞こえてくる。

 ジェルミの脳裏にかつてミニョを逃がした時の事が思い出された。

 ミニョを逃がしたあの時も、ここに戻って来るとは思っていなかった。

 ただあの時は戸を一枚挟んだだけの顔も見れないこの場所から斐水に逃がして、次は堂々迎えに行くのだと考えていた事を思い出したのだ。

 だけど今回は迎えに行く場所がない、だからこのまま留めておきたいと思ってしまった。

 

 「この戸を開けたら、今度こそミニョはいなくなってしまうだろ。」

 

 拗ねた子供のような声でジェルミが訊く。

 ミニョは怒りたいのか泣きたいのか分からなくなってしまった。

 

 「・・・・・・ここにいても、私はいないのと同じ。」

 

 かつてジェルミの心を動かした言葉を使う。

 微かな期待を込めて口にしたが、どこかで、戸を開けられるとは思っていなかった。

 ミニョは少し考えて続けて言った。

 

 「モ・ファラン教主は、テギョンさんの血脈を知っているから消し去ろうとしているのね。」

 

 これはミニョの苦肉の策だ。

 最初の言葉は動じながらも聞き流せたジェルミでも、これには動揺が隠せない。

 というのも、ジェルミ自身モ教主の考えが読めないでいたからだ。

 縹炎宗は縹炎に一つだけの宗家とはいえ、大人数の宗徒を抱える宗家ではない。 敬遠する必要も警戒する必要もない宗家だ。

 なのにモ教主は、何故ミニョを捉えて逃がさないのだろうか。

 その疑問はかねてよりずっと胸の中にあった疑問だ。

 ただ縹炎が遠い地という事もあるし、五大宗家に数えられても縹炎宗は大きな宗家ではない事もあって、静かな水面のように波立つ事はなかったのだ。

 ミニョの言葉はそこに投げたられた石のように、幾つもの水輪となってジェルミを揺さぶった。

 

 (ファン・テギョンの血脈・・・・・・)

 

 それは考えれば考えるほどに不思議で、疑問でもあった。

 各宗家に伝わる秘術は親から子へと継がれるものでありながら、実子であっても容易に体得できるものではない。

 それをテギョンは、誰に指導される事もなく生まれもった能力で火功を使えたと言う。

 火功といえば光焔教で、育てたおじさんも光焔教だった。

 齢が違うと言っても、誤魔化す事など成長と共に容易になると考えれば、ファン・テギョンの血脈が見えてくる気がする。

 さらにはそう考えればファン・テギョンを敬遠する理由もはっきりするというものだ。

 ジェルミはミニョから見えないと分かっていながら、戸の前で大きく頷いた。

 

 それが朝の事であり、ミニョはその日遅くまでジェルミを待ったが、ジェルミは姿を見せなかった。

 明日の朝、そう思って眠ったミニョだったが、ジェルミは朝になっても姿を見せなかった。

 部屋の真ん中に座ったまま、ミニョはジェルミと話した事を反芻しながら今夜も来なければどうしようかと考える。

 来ると信じていた時は次の事が考えられた。

 だが希望が細く小さくなるにつけ、考える事ができなくなってぼんやりとしてしまうのだ。

 ここから逃げ出せないミニョに、できる事は限られている。

 ジェルミを利用してモ教主の情報を得る事であり、それをテギョンに伝える事だ。

 伝える方法はまだ思いつかないが、なにより伝える情報もまだ得ていない、ミニョは自分の力不足に沈んでいたのだ。

 

 そこにジェルミがやって来た。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~

今回ミニョが画策して、

テギョンが病んでいるって構図になっております。

 

ただね、雨の中を先に行ったミニョも、

残されたテギョンの方にも違いはなく、

動けずにいるのよね、離れた場所で。

だけど離れてしまった為に、

テギョンの病みが少しずつ表面化してきたところです。

病み=闇、ラブものに必須の二人の対立、

なんとなくでも匂っているといいのだけど。滝汗

 

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