― かつての光焔 ―
ミニョが言わんとする事はジェルミにだって分かっていた。
「だけど、ミニョだって疲れてるのに・・・・・・」
ミニョの膝で眠るテギョンを見てジェルミは呟く。
テギョンの活躍を思えば文句は言えない事も、この行動が悪霊によるものならテギョンに責任はない事も分かった上で最後の最後に全員を救ったのはミニョの力なのだから、そのミニョに甘えなくてもと言いたかったのだ。
「そうよね、ミニョさんだって疲れているのだから膝なら私が貸すわよ。」
ヘイは嬉々として言って立ち上がったが、そこに待ったがかかった。 フニだ。
何故フニが、ありえない展開に誰もが怪訝な顔をしたのは、これまでのフニなら一も二もなくヘイ側に立って、ヘイの要望を受け入れようとするはずだからだ。
ヘイは口にこそしていないが、テギョンに対して情があることは誰もが気付いていたし、フニが縹炎のためにヘイに気を遣っている事も分かっていたからこそ、この怪訝な顔になったのだ。
ヘイも自分寄りのはずのフニに止められてキッと睨んだ。
普段のフニならこれで怯むはずだし、なにより日和見な男が反対する理由が分からない。
だが誰に分からなくてもフニにはフニの理由がある。
「宗主が日頃よく眠れない事は、ヘイさんもご存じですよね。
勿論ミニョさんがお疲れなのは私とて存じてますし申し訳なくも思いますが、宗主は今まさにぐっすり休まれているんです。
私たちがこうして話しているにもかかわらず、眠り続けるなんて事は初めてですし、これは凄い事なんです。
ここはひとつ宗主優先でお願いします。」
多弁のフニによる熱弁、宗主愛に誰よりも大きく頷いたのはミニョだった。
「私なら大丈夫です。
さっきまでぐっすり寝ていたので・・・・・・むしろ私より皆さんの方が休んでいないですよね。」
ミニョは周りを見て言いヘイに視線を移す。
光焔教の屋敷からここに移る間も、二人がここで休んでいる間も皆眠らずにいたのは、テギョンの変化に備えてだ。
ヘイは仕方なく黙って腰を下ろした。 が、ミニョを睨む事は忘れない。
ミニョはこの目を何度も見ていると思った。
目だけではない、ヘイからの憎悪を幾度となく感じる事があったし、女としてもヘイとの差を追及されたくはない。
もしフニがこのように言わなければ、ヘイと代わっていただろう。
だがミニョにもヘイに譲れない理由があった。
その理由に気付いているかのようにフニが続ける。
「ただ・・・・・・と言うべきか、ですがと続けるべきか分からないのですが・・・・・・」
多弁なフニにしては幾度も躊躇い、言葉を選ぶ。
「その、『悪霊が憑りつく』っていうのはこの程度で終わる事なんでしょうか。」
フニはその小さな瞳を心配で揺らしてシヌに訊ねる。
シヌは少しの間、考えるように眉を寄せたが、すぐに口を開いた。
「よく言われる欲は食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲だが、ファン宗主のこれは色欲でも睡眠欲でもないように思う。
色欲を含む欲に、六根から生じる欲がある。
色欲、形貌(ぎょうみょう)欲、威儀姿態欲、細骨《肌の滑らかさ》欲、人相欲の六欲だがこれも彼には当てはまらない。
ただ、私個人の考えだが彼の生い立ちを考えればこの行動は理解できなくもない、つまり・・・・・・」
シヌは一度そこで言葉を区切った。
次に続く言葉が礼儀に反すると思ったからだ。
「つまり、どういう事。」
訊き返してきたジェルミをシヌが見る。
自分で考えろって思う反面、ジェルミより年上のシヌは、師兄的立場だ。
小さく嘆息したシヌは仕方がないって顔をした。
「悪霊に憑りつかれた者は本能に目覚める。
本能、すなわちそれが欲だ。
宗家の者は煩悩や邪念を払う為に修行をする、宗家の宗主としての彼は、立ち居振る舞いこそ手本にはならないが人格者であることは間違いない。
行動、考え、どれも宗主として素晴らしいと思う。
だからこそ疑問だった、あのような生い立ちで、何故これほどまでに自分を律する事ができたのかと。
・・・・・・これこそ彼が最初に望んだものなのかもしれない。 人なら誰でも与えてくれる者、満たしてくれる者がいるが、彼にはいなかった。
これはそこに返っただけで、次の欲が何か、次の欲望があるのかないのかも、本人でなければ分からないという事だ。」
「それって・・・・・・」
「幼児返り。」
躊躇いながらもシヌが口にした言葉に全員が驚く。
ヘイでさえも予想外だが、テギョンは火神でもあるが人間なのだ。
人間の子供時代は欲の塊だ。 害のない欲。
全員の目がミニョの膝で眠るテギョンに注がれた。
大きな身体をした子供、そう思えば不思議と怒りが沸かない・・・・・・なわけがない。
「どうしてミニョが母親なんだ。」
「それは・・・・・・」
ジェルミの疑問に全員が考える。 それに答えたのはまさかのフニだった。
「夢で見たから、じゃないでしょうか。」
『ああ!』
ミニョが感嘆の声を上げそうになって口を手で押さえる。
納得ですって顔でテギョンを見る。
いつもは眠る事に苦痛を感じて眉間を寄せるのに、こんなに安らかな寝顔は見た事がないとさえ思う。
もしこれでテギョンの辛い記憶を少しでも満たせるなら、枕になるくらいたいしたことではないと思うのだ。
だがそれはそんな簡単な事ではなかった。
翌日、目覚めたのは朝と言うには日も高く朝餉と言うより昼餉に近い時刻だった。
食事を頼んだ一行に、女将は昼まで待って欲しいと言って来た。
朝の料理はすっかり片づけを終え、昼餉は今まさに準備中ですぐには無理だと言うのだ。
それかすぐ近くの飯屋に行くのはどうかと勧めてきた。
宿からはほんの二軒ほど隣のその店は、朝から昼までが飯屋で夜には呑み屋に変わると言う。
奥には個室のような部屋もあって、宿の取れなかった旅人を素泊まりさせることもあるらしく、この人数でも入れるという事だった。
そのうえ女将は食事の間くらいなら馬車を預かってもいいとまで言ってくれた。 よほど上乗せした宿泊代に気をよくしていたのだろう、女将は満面の笑みだ。
シヌはその笑顔に頭を下げ、他の者も笑顔を返して宿を出る。
朝まで眠れば回復するだろうかと思っていたテギョンは、まだ眠そうであったのとミニョの傍を離れない事を除いては起きる事も普通に歩く事も出来たので、『悪霊の影響は?』と考えないわけではなかったが、まずは食事だと誰もが無言で歩いたのは、昨夜の出来事が遠い昔のように感じ始めていたからだ。
暖簾をくぐると店はガランとしていて若い雇人が少し迷惑そうな顔を向けてきた。
朝には遅く昼には早いこの時刻は、雇人には休憩時だからだろう。
シヌは宿の女将の紹介で奥の個室を使いたい事と、できるものを人数分と注文する。
雇人はこんなに座り放題なのにと店を見回したが、言われるままに奥への仕切りを動かして案内する。
それから一度注文を伝えるのに引っ込んだ。
個室は珍しく風林のような畳床で、テギョンの様子に女将なりの配慮だったのだろう。
シヌたちは順に席に座り、テギョンは無言のままミニョの横に座ると、やはり無言のままミニョの肩に頭を乗せてきた。
ドキッとして動きを止めるミニョだが、テギョンは寝ているのか目を閉じている。
(よく寝たはずなのに。)
そう思うミニョは、これまでだってテギョンは壁にもたれて目を閉じてたり、伏目がちに頬杖ついていたりして、それと何ら違わないと考える。
それにテギョンがミニョに執着するのは初めてではない、ただこれ程の接触がなかっただけの事だ。
だからこそ思ってしまう。
(これで悪霊憑きと言えるのかしら。)
この疑問が薄まるのは悪い事ではないが、不安はますます深くなっていくのだ。
それにこれではこの先の事が決められない。
このようなテギョンを連れて模諜入りはできないと思うからだ。
ミニョはテギョンを肩に乗せたまま、細く長い嘆息を落とし、それは周りにいる誰もが同じ感想を抱いていた。
(起きなきゃ話ができないだろ。)
そう言いたげな目がテギョンに集中する。
だがそのテギョンは寝ているわけではなかった。
いや、テギョン自身、寝ているのか起きているのか分からない状態だった。
頭はぼんやりとして靄(もや)がかかったように何も考えられず、話し声は聞こえていてもその内容までは頭に入ってこないのだ。
こんな事はこれまでに一度としてなかった事だ。
常に沸き起こる怒りや苛立ち、邪念や雑念がテギョンの頭を支配しているような感じなのだが、自分でさえも何に怒りを感じているのか、何に苛立っているのかが全くもって分からないでいるのだ。
ただ泉のように湧き上がるこのザラザラとした不満は、昔懐かしくもある。
テギョンとて遥か昔に神だったとしても、今はただの人に過ぎず、子供の頃には自分の過酷な運命を呪い、怒りを抱いてもいたからだ。
その頃には普通の子供が望む安らぎを求めてもいた。
だがそれはいつも報われる事はなかった。
何かを得ようとすると必ず反する者が現れて奪われたのだ。
例えば、親のいないテギョンを不憫に思った母親が、この見目麗しい少年に自分の子の御下がりをと連れ帰れば、自分の座を奪われるのではないかとその家の子が陰で嫌がらせをして追い払おうとした、このような経験は一度や二度ではない。
母親が灯りの灯せる部屋と温かな布団までも用意すれば、子供の逆襲も激しいものとなった。
もちろんテギョンはそれをあしらうだけの頭も、やり返すしたたかさもあったが、欲深くなればなるほどその手には何も残らなかったのだ。
むしろ手に入りかけて失った後の方が、その冷たさが身に染みる。
テギョンはその経験から目的のために何を切り捨てるべきかを学んだのだ。
夢の中で見たミニョ(この頃は名前も知らなかったが)を救うには、生き延びる事が先で欲する温もりや人の情といったものの為に諍うべきではないと悟っていったのだ。
忘れていた子供の頃を思うと、テギョンの胸は熱く焼けるようだった。
何もない心、その至る所で火がくすぶっているように煙を出し、焼けた砂は縹炎の砂の如く赤く熱を帯びている。
テギョンはミニョに抱きついた。
途端にジェルミが立ち上がる。
たまたま入って来た雇人も、両手で持つ料理の乗った皿を思わず落としそうになる。
抱き合う二人に目が飛び出すほど見開いて、個室に拘(こだわ)った訳が分かったと、両手の皿は守ったが、こういう事は家でやってくれと心の中で悪態を吐く事は忘れなかった。
この時代、まだ人前でこのように抱き合うなどあり得なかったからだが、それがいわゆる情事の場面でない事はミニョの言葉で分かる事になる。
「・・・・・・テギョンさん、テギョンさん。
熱がある。 発作のようです。 み 水を。」
荒い息遣いのテギョンにミニョは、テギョンの額に触れて言い、すぐにシヌが脈を診る。
ミニョの目は(悪霊憑きとは思えない)と訴えシヌも半信半疑だ。
「熱だなんて・・・・・・ 宗主の体質は・・・・・・」
フニは狼狽え、ミニョは水功でテギョンを救おうとする。
ドンジュンは止めようとしたが、ミニョがしようとする事を横から止める事などできない。
この時ヘイは、力を持たない商人の身分を選んだことを悔やんで下唇を噛んでいたが、その選択もテギョンに近づくためであったのにだ。
水を持って戻って来た若い雇人は、彼らが宗家の能力者だと分かるとそれまでのぞんざいな態度を改める。
汗を拭くのに手ぬぐいを取り出し、他に必要な物はないかとまで聞いてくる。
テギョンの状態はそこまで酷くなく、ミニョの水脈の気とテギョンの火脈の気を交わらせることで落ち着きを取り戻した。
そこに居る全員がホッとし、大丈夫かとミニョはテギョンの顔を覗き込む。
テギョンは額に汗を残してはいたが、ニコリとミニョを見て微笑んだ。
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まだ続くんですが、長くなるのでここで切りました。
悪霊憑きに振り回されるミニョやシヌたち、
それとテギョンの心の内(まだ冒頭部分だけど)
まったく並行していないので、
どう描くか、四苦八苦しております