― 宗主 私室 ―
コ・ミニョは、やって来た医者の診察を受けながら、現実に現れた夢の男が考えている事を推し量っていた。
なぜ助けられたのかが分からなかったからだ。
「目覚められてよかった。 これもファン宗主のおかげですよ。」
医者は、感謝するよう言ったのだが、ミニョの頭には、この夢の男が宗主だという事だけしか入ってこない。
だから助けたのだと、なら何かその目的があるはずだと、訝(いぶか)しむ目でテギョンを見る。
「数日、栄養を摂って安静にしていれば、回復するでしょう。」
医者は、何も言わないミニョではなく、テギョンに向かって言う。
それを聞いてテギョンは、分かったと軽く手を上げると、ミニョに向かって、食事が並べられた卓上を指さした。
さっきからいい匂いをさせ、まだホンワリと湯気を立てて食事が並んでいる。 だけど・・・、
(まさか薬が?)
ミニョの眉が寄る。
それを見たテギョンは、一皿一皿すべての食材を口にしてみせ、毒がない事を見せたが、まだ疑い顔に、「毒は入ってない。」と言う。
この言葉にはそこに居た誰もが驚いたし、ミニョ自身も、毒だなんて思っていないと小さく首を横に振る。
ヘイに至っては、二人の関係を推察しようと目を離さない。
だが、宗主が毒味をした事で、マ・フニや宗徒たちは彼女が警戒するのは仕方がないと思い直した。
さらに戸口にいた宗徒たちは、二人の関係に興味を失ったのか散り散りとそこから離れていく。
ただ、コ・ミニョは違う。 毒が入っていないと分かっても、一刻も早くここを出て行きたい思いの方が強かった。
「け・・結構です。 それより話を・・・。」
「先に食べてからだ。」
訴えるミニョに、テギョンは短く返すと、話は後だと言わんばかりに、さっさと部屋から出て行ってしまう。
となればマ・フニもユ・ヘイもそこに留まることはできない。
なぜならここは宗主の部屋で、宗主の許可なく立ち入ることを禁じられているからだ。
唯一、部屋に残るコ・ミニョを、ヘイは出て行く間際に振り返って睨んだ。 しかし、当のミニョは気づいていなかった。 テギョンが出て行った事で、目に映るのは並んだ料理だけになっていたからだ。
すぐにでも出て行きたかったのに、何日もまともに食べていない身体は、この匂いが刺激して生唾が込み上げている。
コ・ミニョは、ヘイが部屋の戸を閉めるよりも先に食べ始めていた。
やがて、すべての皿の料理を、きれいに食べきり、胃袋が満たされた事で、少しばかり落ち着きを取り戻して、この後どうするかを考えるのだった。
ただ、いくらも考えが巡らないうちに、部屋の外から声が掛けられた。 食事が済むのを見計らってか、宗主がお待ちだから案内すると言うのだ。
ミニョの中に緊張が走ったが、斐水門に送った文の内容を知りたかったし、なにより模諜枢教から送っただろう追手の事もある。
案内されるままに、渡り廊下を通って、別の建物へと入って行った。
「えっと、ここは・・・」
案内された部屋を見回して、ミニョが訊く。
部屋と言っても壁はなく、幾つも柱が天井を支えているだけの、何もない空間だ。
「ここは六角禅堂、・・伽藍です。」
案内して来たフニが答えた。
外の世界を遮る壁がないのに、とても静かなこの部屋は、降り続けている雨の音や匂いが満ちていて、ミニョにはどこか安心感を感じさせた。 床に座って、糸のように細い雨が落ちるのを見つめ、音に耳を傾ける。 しかし斐水門と違って、この縹炎では跳ね返って響く水音は少ないようだった。
ぼんやりし始めたミニョを見ながら、フニはテギョンが来ないのをいい事に、気になっていた事を訊ねる。
「斐水門の方なんですよね。 宗主とはどこで?」
尋ねられて、少し考えたミニョは、覚えてないと誤魔化した。
追及されると困る事があるのと、十年も前の事で、一度だけなのだから覚えていないで通そうと考えたのだ。
そしてそれよりもと、逆に訊き返す。
「あの・・それで、文は本当に送ったのでしょうか。」
ミニョに訊かれてマ・フニは、二度その目を瞬かせた。
「もちろんです。 送り先を確認し馬の手配をしたのは私です。」
得意げな顔で返したフニに、ミニョは頭を一度下げながら、それならばやはりあの男と話さなければと思う。
なのに、ここに呼び出した本人は、なかなか現れない。
できれば会いたくない人ではあるし、今も会いたくない思いの方が強い。 だけど今のミニョの状況は、自分の思いだけでやみくもに動く事は危険でもあった。
(さいわい、宗主のあの男も、すぐには殺すつもりはないらしいから・・・)
ミニョは雨を見ながら、必死に考えを巡らそうとした。
だが、身体はだるく、お腹がいっぱいになっていたからか、それとも薬でも盛られていたのか、さっきからなんだかとても眠くて・・・
「寝たか。」
計る様にしてやってきたテギョンが、ミニョを抱きかかえ、そのまままた私室へと運ぶと言う。
「眠らせる為に六角堂に案内させたのですか。」
目を点にしてフニが訊く。
「今は雨期だからな、斐水門の者なら水音は落ち着くだろう。」
フニはそう答えるテギョンの顔を伺ったが、相変わらずの無表情だ。
「よほど・・・大事なお方・・・・・・なのですね。」
ぼそりと呟くフニを、今度はテギョンが見る。
「フニ、模諜枢教が捕らえていた斐水門、門主の娘だ。」
「ええ、模諜枢教が・・・えっ・・・・・・ええ~!?」
復唱しようとして気付いたフニの、見開いた眼がテギョンを見る。
それから声にならない口をパクパクさせて、ファン・テギョンに抱えられて眠っているコ・ミニョを指さした。
やっと合点がいったのだ。
これほどの重要人物だからこそ、客間ではなく、宗主自身の私室に運び込んだわけで、今回宗主の部屋の隣室に運ぶのも、逃がさない為だと確信した。
マ・フニはテギョンと共に隣室を出て戸を閉める、だからといってこの戸には鍵はないし窓から逃げる事も考えられる、だが、耳の良いテギョンなら物音一つも聞き逃すはずがない。
文机に向かうテギョンを残し、宗主の部屋を出たフニは、その足でユ・ヘイの所に向かうのだった。
― 縹炎宗 裏庭 ―
「それ本当なの?」
ユ・ヘイはつい訊き返してしまった。
火神と水神の娘の因縁、そう考えていたのに、理由が模諜枢教だと聞いても、信じられない気持ちの方が強い。
多分、それが顔にも出ていたのだろう、「疑うんですか?」と問うマ・フニの小さな訝しんだ目と合った。
「模諜枢教が何かと難癖をつけてきているのは、ヘイさんもご存じでしょう。」
フニの不満顔にヘイは慌てて笑顔を取り繕う。
お金で情報は得ていても、フニは自分の手下ではないからだ。
「一年ほど前、斐水門の娘が模諜枢教に嫁ぐって情報は得ていたんですが、それがあの娘だとは思いもしませんでしたよ。 逃げてくる何かがあるんですよ。
さすが宗主、大事な顔は忘れないんですね。」
さらにはフニの、テギョンへの身びいきも、ヘイは知っている。
マ・フニはお金で情報は売るが、テギョンを特別視しているから、テギョンの困る事は言わない、信頼を得て、味方につけておいて損のない相手なのだ。
「そっそうね、さすがね。」
テギョンの記憶力に関しては、今一つ信じきれない所があったが、だからといって人間に転生しているのだから、神の記憶がないのは確かであり、神であった時も、二人の関係に心配する要素など一つもなかったのだから・・・・・・。
ヘイはいったん余計な考えは切り捨てる事にした。
― 宗主 私室 ―
一方テギョンの方は、一人私室で考えに耽っていた。
隣室ではコ・ミニョが寝ている。
脇息に置かれた手は、思考の為にしわを刻んだ眉間に軽く当てられていて、もう片方の手は、立て膝の上に投げ出されたまま、衣の皺は一方向に流れ、もうずっとその姿勢を保っている事が分かるその姿からは緊張感はどこにも感じられない。 そして半開きの目が一点を見つめ、ピクリとも動かないのだ。
その姿は火神であった時とは全く違っていたし、また人間に転生したばかりの灰焔とも違っていた。
火神にしろ灰焔にしろ、いつもきっちり背筋を伸ばし、手足を投げ出すようなことはなかったのだ。
だが、千年もの間転生が繰り返されたからか、ファン・テギョンという男は、気だるい空気が身を包んでいた。
だからといって考える事がいい加減なのかといえば、そんな事はない。 なりたくてなった宗主ではないが、フニではどうにもならない事をこうして一人で考える事は彼の常であった。
朝餉の後、ぐっすり眠ったミニョは、夕刻の前に目を覚ました。
眠ってしまったのかと、周りを見て思い、どのくらい寝たのだろうかと、身体を起こしながら考える。
朝目覚めた時と違う部屋なのはすぐに分かったし、きっちりと閉められた戸を開くと、そこは見覚えのある部屋だった。
ミニョはテギョンを探す事にして、部屋を出てうろうろとする。
これが朝ならば、このまま逃げ出していただろうが、体力の回復と共に、逃げ出すよりも話すべきだとの考えが大きくなっていた。
渡り廊下をキョロキョロとしながら歩くミニョの所に、宗徒が二人やってきて、恭しく会釈する。
すでにミニョが斐水門の者で、宗主の客人であると認識しているからだ。
だがミニョの方は違う。
掴まり閉じ込められると身体を固くして身構えたのに、その宗徒が挨拶をして道を譲ったことに戸惑い、困ってしまった。 だから、もう少しであの男の居場所を訊き逃してしまいそうになったほどだ。
「宗主なら門の所にいらっしゃいます。」
宗徒は笑顔でコ・ミニョを案内し、傘を手渡すとそこからの行き方を教えてくれる。
(ここから先は一人で行けというのね。)
傘を差し、言われた方向に向かって歩きながら考える。
建物の外に出て、今は門を目指している。 逃げるなら今だと、頭の中で声がする。 だけど、だったら見張らせるはずよねと考えが巡り、また分からなくなった時、初めて目にする縹炎宗の姿に、足が止まった。
水の都と謳われた斐水門は、水のキラメキだけでなく、水辺を彩る草の緑に色とりどりの花の色、そして空の青と、様々な色に溢れていた。
だがこの縹炎宗は、雨が降っているからとはいえ、色が全くないのだ。
僅かな畑と池はあるが、広がる大地は赤い土に赤い岩の一面の荒野だ。
(こんなところに住むなんて・・・・・・)
コ・ミニョの開いた口からは言葉は出てこなかった。
「起きたのか。」
ぼんやりと歩いてくるミニョに、気付いたテギョンが声を掛けた。
「何をしていたのですか。」
「今は雨期だからな、木を植えていた。」
尋ねるミニョにテギョンが答える。
「この赤い土は、表面上はサラサラと乾いているが、少し掘ると、ずっしり重くなる。 そのせいでほとんどの植物が育たない。
ここは二年かけて土を焼いてきた、周りの土とは色が違うだろう。」
そう言われてよく見ると、確かに色が違うと思う。
「なぜここの土が赤いか知っているか。」
そんな事、知るはずない。 どうしてそんな事を訊くのかと、ミニョの眉が寄る。
「ならなぜ墓があるか知っているか?」
ミニョはますます怪訝な顔を横に振った。
「墓と言うのはその死者の眠りを守る為にある。
無論それだけではないが、彼らは墓の中で身体も魂も静寂の中にいるのだ。
だが、この地にいる者たちは違う。 筵(むしろ)さえ巻かれず、野ざらしに捨てられて、朽ち果てた。 その時の血や肉によって土が染まっていったんだ。
いったい、どれほどの屍によって、染まったのかは分からないが、かなりの数が埋まっているはずだ。
そして土中深く、骨さえも浸食され、肉体を失った魂が夜ごと浮遊する。
陣で結界を張り、侵入を防いでいるが、その者たちとてかつては人間であったのに、今では自分が誰だったか、何者だったのかも分からずに彷徨い歩く。
俺は、それを浄化する、それが良い事なのか分からないが。」
どう答えたものか、返事に困ってコ・ミニョの目は僅かに揺れた。
「血の匂いのするこの土地に、模諜枢教は税を払えと言う、どう思う?」
(えっ どっどうとは?)
なぜ私にそんな事を訊くのかと、益々の困惑と訝しみを強めた目をテギョンに向ける。
「模諜枢教から逃げて来たのだろ?」
「どうして・・・・・・?」
思わず声となった口を、ミニョは慌てて手で覆った。
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テギョンの使っていた脇息(きょうそく)ですが、
お殿様なんかが使っていたような豪華なものではなく、
木で作られたシンプルな肘置きの事です。
今回は縹炎宗の外のイメージを描きました。
足元は砂漠のような砂なのですが、
足が沈まないのはその下が粘土のような土だから、
これって気象によってこうなったのではないんだ、って話を、
ミニョに説明しなければならない。(これが難しかった)
それにいつまでも、ずっと部屋の中っていうのもなーって事で、
雨の中、外に出しました。
門の所に植えている木は、一本や二本じゃありません。
外壁となるよう層になって並んでいます。
(敵から守る目的で植えるんですが、その説明も書けなかった。)
この光景をミニョに語らせようと試みたのですが、
今のミニョの心境を考えると、言葉にしてくれなかったの。
さらに、念の為書きますが、修行の場となる六角禅堂は、
居住棟であるフニのいる本堂(宗徒もここで寝起きしている)や、
ヘイのいる別棟(造りは本堂と同じ)からは、離れて建てられています。
(ちなみに宗徒でもないただの人たちは、
さらに少し離れた所に長屋のような家が建っている設定です。)
だけど、テギョンの私室である離れとは、渡り廊下によって結ばれているの。
濡れる事が嫌いなテギョンが、雨に濡れない為の配慮がなされている設定です。
後ね、テギョンのいる世界を色で表現しようと、
対比となるミニョのいた斐水門を持ってきました。
熱風が拭く砂の世界に一人立つテギョン、
これが描く上での彼のイメージで縹炎宗のイメージでもあります。
逆にミニョの方は鮮やかなのです。
水しぶきに陽の光、花や草に笑い声、
ミニョによる故郷の回想シーンは、こんなイメージの世界が浮かんでいます。