本牧読書日記。バーナード・ワッサースタイン「ウクライナの小さな町」・ガリツィア地方とあるユダヤ人一家の歴史  (作品社)。

ウクライナの都市名はキエフ(キーウ)しか知らなかった僕も、ロシアによる侵攻でウクライナの国外避難民が大勢殺到したポーランド国境近くの都市「リビフ(リヴィウ)」の名を知った。

書名の「ウクライナの小さな町」とは、リビフの近郊農村「クラコーヴィエツ」を指す。

著者の祖父・ユダヤ人のベール・ヴァッセルシュタインが生まれ育った寒村である。

本書はナチスに殺された祖父夫婦と叔母、そして奇跡的に生き延びた父親の足跡をたどる「ファミリー・ヒストリー」であると同時に、東欧の複雑な民族実情を捉えた力作である。


本書の前半分は欧州の後進地=ド田舎・「ガリツィア」(ポーランド南部の一部を含むウクライナ南西部)の歴史である。住民の大部分はウクライナ人の農民、そして地主・貴族のポーランド人、商工業のユダヤ人である。言語(ウクライナ語・ポーランド語・イディッシュ語)も宗教(ウクライナ正教・ローマカソリック・ユダヤ教)もそれぞれ違う3層の民族と文化・経済の複雑な複合社会だ。

1772年のポーランド分割に伴ってオーストリア・ハプスブルグ領域となり大貴族・ツィトネルの館などが築かれたが、ガリツィァ地方が農村の悲惨さの代名詞となるような貧しい土地であることに変わりはなかった。地主・貴族ポーランド人による封建的支配。貧しく愚鈍な「百姓」のウクライナ人。そして商工業を営みながら欧州各地で疎んじられるユダヤ人。何世紀も続く地盤構成は変わらない。

19世紀も後半になると、この後進地は先進国への移民の供給地になってきた。

西欧諸国、アメリカ、20C以後はユダヤ人のシオニズム(パレスチナでの建国)も加わる。

出稼ぎから始まり、やがては恒久的な移住を目指して多くの若者が故郷を後にした。

1897年生まれ、パン屋の息子の祖父・ベールも、こうした波に乗ってオランダを経てベルリンに定住した。ユダヤ人特有の身なりもやめて土地に慣れ、苦労を重ねて遂に防水布工場と不動産を所有する安定した生活を獲得した。息子アディ(著者の父親)と娘ロッテ(著者の叔母)の二児も生まれた。

すっかり西欧流の小ブルジョア家庭を築き上げたのである。

なお、第一次大戦でクラコーヴィエツは激戦地となり荒廃したが、大戦後の条約でポーランド所属地であることが確定した。このため彼等の原国籍はポーランドとなった。


さて、そこから後半はナチス支配による祖父と父親の苦難の物語となる。

ナチスはユダヤ人排斥というポピュリズムを当初から掲げてきたのだから、1933年政権を取ると一挙にその政策を強行したと僕は思っていた。しかし、実際にはジワジワと首を絞めていくような「段階的な」小政策の積み重ねだったのだ。例えば35年にユダヤ人が「アーリア人」家政婦を雇う事が禁止され、この家の家政婦も出ていかなければならなかったような小刻みな圧迫の蓄積である。

次第に濃くなる暗雲にユダヤ人は海外への移住を求めた。しかし既に時を失していた。

アメリカはユダヤ人に限らず移住の門を狭くしていたから絶望的な順番を待たねばならない。欧州諸国はビザの発行を極めて困難にしていた。ドイツとのトラブルになる「厄介者」は受け入れたくないのだ。パレスチナへはイギリスがアラブに配慮してシオニズム移住を停止した。八方塞がりである。

それに最大支障は、どこに行くにしても財産の持ち出しは禁止であること。折角積み上げた財産は接収される。全てを投げうって家族全員が身ひとつで出ていかなければならない。

親戚が南アにいて祖母が現地調査までしたが思いきりもできず焦慮の内に時は過ぎていく。


そして38年11月、ナチス幹部暗殺をきっかけとして、ユダヤ人経営店への襲撃・破壊事件「水晶の夜」が発生した。ここから一挙にユダヤ人の運命は定まった。

祖父一家の場合、事業は接収され身の回り品だけでドイツ・ポーランド国境の町ズボンシンの収容所に入れられた。劣悪な施設ではあるが後の「絶滅収容所」ではない。

ユダヤ人を区分けして押し付け合うのための暫定留置所なのである。祖父達の来歴からドイツは国籍国・ポーランドへ返そうとし、ポーランドは生活国・ドイツへと返すために折衝する。

互いにババ抜きの「ババ」のように、あるいは細菌の如くに厄介者を押しつけ合うのである。

結局は翌39年、息子アディを除く夫婦と娘の3人は20年振りに故郷・クラコーヴィエツに帰郷し、極貧の惨めな境涯におかれることとなった。

なお、一家不在の間のガリツィアでは30年初頭に国粋的な運動団体・OUNが発足しており、ウクライナの元祖民族のルテニア語・文化の復活、反ポーランド活動を開始していた。

これが後の対独協力、反ソ活動へと展開していったのである。


祖父達の帰郷直後から情勢は一変する。

39年9月、ドイツのポーランド電撃侵攻。たちまちにポーランドは敗れた。

独・ソ密約によるポーランド分割が断行され、クラコーヴィエツはソ連側に組み込まれた。

そして41年6月、今度は突如の独ソ開戦である。

クラコーヴィエツは開戦すぐに独軍に占領された。早速始まったのが「ユダヤ人狩り」。

独軍はゲットーを各地に設定すると共に地元OUNの協力を得てクラコーヴィエツ近くのヤヴォリウに収容所を設けた。多くのユダヤ人が収容されて殺された。森へ連れ出されての銃殺である。当然にチフスなどの病死や衰弱死も多い。

41年11月にはヒトラーによる「最終的解決」が下された。そして43年6月のナチ資料によると、それまでのガリツィアでは43万余のユダヤ人が「最終的解決」されたのである。

祖父一家はこの期間をどう耐えたのか?

詳しくは分からないがヤブォリウには収容されなかったようだ。「ムィハイロヴィチ・オラネク」なるウクライナ人農夫にかくまわれて、彼の持つ小屋で隠れていたらしい。そして最後には彼に密告された。かくまった者は露呈すれば処罰されるし、報酬上の問題だったかも知れない。

とにかく祖父夫妻と18歳の娘ロッテは殺されたのだ。

第二次大戦は次第に戦況が逆転し始めた。

独・ソ戦線はソ連軍が反撃して優位となり、独軍に代わってクラコーヴィエツも占拠した。

今度は独軍協力者の摘発である。独軍協力者や国粋OUNは山にこもって対ソ・ゲリラ戦を展開することとなった。ゲリラ戦は戦後もしばらくは続いた。

(ここは本書にある訳ではないが)、ウクライナにはソ連に強制されたスターリンの集団農場政策の失敗とその後の激しい収奪が、天候不順も相まって千万人以上(未だに正確な人数は不明)という飢饉犠牲者を出した歴史がある。骨の髄までの「反ソ感情」が残存していたのだろう。


息子アディは生き延びた。

ズボンシンで家族と別れ単身ベルリンに戻る。友達宅を泊まり歩いている内に許可日数が切れ不法滞在ユダヤ人となってしまった。そこから奇跡の逃避行が始まった。

外国領事館リストを片手にイラン・イラク等の公使館まで回ったが結果は得られない。

ある日、ユダヤ人は通行禁止のウンター・デン・リンデン通りの旅行代理店で見つけたのが「太陽輝くイタリアへ行こう!」の看板。ビザなし・鉄道切符だけ用意すればOKとのこと。独・伊は同盟国であったがイタリアでユダヤ人排斥はまだ実施されていなかったのだ(それは数週間後に断行された)。

アディは南アフリカの親戚に電報で必要金額を振り込んで貰った。

39年8月8日列車でイタリア入国。8月19日イタリアは全ての観光ビザ発給を停止したので間一髪であった。イタリアの参戦は目前である。グズグズしていられない。調べてみるとトルコはまだ中立で、イタリアからのポーランド国籍者は受け入れていた。その先シリアを経由してパレスチナへの陸路は開かれている。

問題はポーランドのパスポートだ。以前から何回も日参して門前払いされている。そこで又奇跡が起こる。詳細は略すが、ある偶然でイエズス会総長レドゥホスキ神父(ポーランド貴族出身)に出会い、出身地を聞かれて「クラコーヴィエツ」と答えたところ、その地に縁の深い同神父の斡旋でパスポートの効力確認が領事館で即座になされたのだ。こうしてアディはトルコに入国することができ、暫くは様子を見ながら機会を得て1941年に無事パレスチナ・ハイファにたどり着くことができたのである。


ロンドンに育ったシカゴ大・歴史学教授の著者は、ソ連崩壊後ウクライナに数回通い熱心な調査の上、本書を書き上げた。そこで目にしたのはクラコーヴィエツ生まれの民族主義者の英雄ロマン・シュヘーヴィチの幾つもの顕彰像。彼はナチの協力者、反ソ・ゲリラ指導者なのだ。

僕はここで思い当たった。プーチンがウクライナを非難して「ナチの一味」と、まことに的はずれの言を度々発していること。彼の思い込みの中には過去のロシア対ウクライナの民族感情の歴史が織り込まれているのだろう。時代錯誤そのものではあるが、誰もその思い込みを是正することはできない。それにロシア人に叩き込まれた反ナチ感情に訴える力は特に底辺の保守層には絶大なのだろう。

反対に、現在ウクライナ難民の最大受け入れ国であるポーランドは、かつてはウクライナと互いに激しく対立する歴史を持っているのだ。その恩しゅうを越えた立派な人道的措置である。

しかし、それが自分達の生活を脅かすこととなればかつての感情が蒸し返されかねない。

民族間の感情には必ず過去の歴史が反映されている。

本書で僕はそれを痛感した。


著者はかつて祖父を「売った」男・オラネク宅を訪ねた。

既に亡くなっていて、家族達は何も知らなかった。

永久の歴史の流れ。そして個人の感情の記録はその流れの中で泡のように消えていく。

そして、一つひとつの「物語・文学」が生まれていくのだろう。